神からの報い 2005年6月05日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

神からの報い

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 14章12節~14節

聖句のアイコン聖書の言葉

14:12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。
14:13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
14:14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」ルカによる福音書 14章12節~14節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、12節から14節を中心にしてお話ししたいと思っておりますが、1節から14節までをお読みいたしました。それは、1節から6節までのお話しと、7節から14節までのお話しを一つのものとしてお話ししたいと思ったからであります。

 1節から6節で、イエス様は、ファリサイ派の人々が、安息日であっても自分の息子を井戸から救い出すのであるならば、神は、その子らをどれほど躊躇せずに救い出すであろうかと論じまして、安息日に病気を治すことが正しいことであると教えられました。イエス様は、水腫を患っている人も、大切な神の子であることを教えられたのです。ここで、私たちが確認しておきたいことは、この礼拝に集う全ての人が、神の目に重んじられている大切な神の子供たちであるということです。どのような職業であっても、どのような健康状態にあっても、神の目に重んじられる大切な神の子供たちなのです。このことが1節から6節を学ぶことによって、確認されて始めて7節以降の「へりくだる」という教えを正しく聞くことができるのです。先週、私は、フィリピの信徒への手紙を引用して、イエス様が御自分を無にして御言葉に従い抜かれたと申しました。そして、それこそが聖書の教える「へりくだり」であると語ったのであります。このこと自体は正しいことでありますけども、しかしそれに先だって語らねばならないことがあった。そう今は思わされています。それは、イエス様が御自分を空しくすることができた理由についてであります。神の身分でありながら、なぜそれほどまでに御自分を空しいものとすることができたのか。このことをお話しすべきであったと思っています。それを知る手がかりがイザヤ書50章に記されています。イザヤ書50章は、主の僕の忍耐について預言でありますが、そこにはこう記されています。

 主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。わたしの正しさを認める方は近くいます。

 イエス様が御自分を空しくし、神の御意志に従い抜くことができたのは、御自分を正しい者と認めてくださる父なる神がいつも近くにおられることを知っていたからでした。イエス様が公生涯を始められた時、また、山上の変貌において聞いた声は、「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という父なる神の愛の宣言であったのです。聖書を開きますと、神が御自分の民に対した語った愛の言葉が沢山記されています。最も有名なものは、おそらくイザヤ書の43章4節でありましょう。

 わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。

 新改訳聖書の方が有名であるかも知れません。新改訳聖書には、こう記しています。

 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

 神が私たちを重んじておられる。神が私たちを愛しておられる。このことを知らずして、自らを空しくし神の御意志に従うことは不可能であります。先週、私は、上席を好んで選ぶ人々を反面教師として、「へりくだる」といはどういうことかをお話ししました。その時申したことは、へりくだりは、神に対しては、神の恵みにより頼む信仰という形で現れる。そして兄弟姉妹に対しては、互いに相手を優れた者と考え、仕え合うという形で現れると申しました。このことも、神が私たちを重んじておられる。神が私たちを愛しておられることを忘れてしまうならば、やはり不可能なのです。もし、誰からも重んじられないならば、人は自分自身で自らを重んじずにはおれないです。誰も自分を認めてくれない。そう思うからこそ、上席に着くことによって安心を得ようとするのです。神様が私を重んじてくださる。愛していてくださる。いや、私だけではなくて、この礼拝に集う全ての人々を重んじて、愛してくださっている。それゆえ、私たちは、互いに相手を自分より優れた者と考え、仕え合うことができるのです。このように、1節から6節は、7節から14節のお話しの土台、前提となっているのです。そのことを覚えつつ、12節から14節を学びたいと思います。

 12節以下は、招いてくれた人に対する教えであります。この人は、ファリサイ派の議員でありましたから、その食事会には社会的に身分の高い人々が集まっていたと思います。議員さんの食事会ですから、それ相応の人々が招かれていたはずです。しかし、イエス様はその人に、驚くべきことを教えられるのです。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も近所の金持ちも呼んではならない」。

 友人や兄弟や親類や近所の金持ち、これらの人々は、通常、食事会に招待されるべき人々でした。もし、私たちが食事会を開くのであれば、やはり親しい人々や、日頃お世話になっている人々を招くと思います。けれどもイエス様は、「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と仰せになるのです。それは、なぜか。それは、友人や親類たちは、あなたを招いてお返しするかもしれないが、貧しい人や体の不自由な人たちは、お返しができないからであると言うのです。この言葉は、体の不自由な人には、不愉快に聞こえるかもしれませんけども、現代のように保険や福祉の制度が整ってなかった当時において、体が不自由ということは働けないということでありますから、貧しい生活を余儀なくされていたわけです。よって、彼らはお返しするすべをもっていなかったのです。

 ここで何もイエス様は、親しい者たちの食事会を否定しているのではありません。イエス様がこのように仰せになるのは、その理由からも明らかなように「お返し」という視点からです。イエス様は、彼らの宴会や、食事会に互いに「お返し」を期待するその心を見抜かれたのです。こういう心は、私たちにもよく分かります。私たちも誰々に貸しがある。あるいは誰々に借りがあるというような言い方をします。自分が懇意にして、色々なものをあげたり、面倒を見てあげた人から、もし自分が疎んじられるならば、「あんなにしてあげたのに」と怒り出すのではないでしょうか。だから、私たちは、ある特定の人との貸し借りがあまり、多くならないように、適度にお返しをしなければと考えるのです。今朝の御言葉でいえば、食事会に招かれれば、今度は自分が招かなくては、と考えるわけです。招かれたら、今度は招き返すというように「お返し」は、循環的な関係をもたらします。よって、「お返し」は、親密な関係を築くかもしれませんけども、その交わりは閉鎖的なものとなっていくのです。けれども、その「お返し」がこの地上のものだけに限られず、復活の時に、神からいただく「お返し」を考慮に入れるならば、その交わりは、開かれたものとなるとイエス様は教えられるのです。14節の最後で「報われる」と訳されている言葉は、「お返しする」と訳されている言葉と同じです。ですから、このところは「正しい者たちが復活する時、(神が)お返ししてくださるであろう」と訳すことができるのです。この地上の「お返し」だけを考えるならば、友人や兄弟たちを招いたほうが良いでしょう。貧しい人や体の不自由な人たちを招いたとしても、当時、これらの人々は、何のお返しもできません。自分が困っているときに、その人が現れて、「昔はお世話になったね」とお返ししてくれる。そのようなことは考えられないのです。けれども、ここで、イエス様は、神からのお返しを期待しなさいと教えられるのです。私たち人間は、この地上のことを中心として物事を考えます。しかし、イエス様は、神の国という永遠の視点に立って、私たちがこの地上をどのように歩むべきかを教えられるのです。

 先週学びました「上席に着くよりも末席に着きなさい」という教えは、私たち日本人がよく知っていることであります。少なくとも、そうすれば人からの反感をかわずに済むということを、私たちは生きていく中で自ずと知るようになります。しかし、そこで留まっているならば、それはこの世の知恵でしかありません。イエス様が、私たちに求めておられることは、真に低くなることなのです。仕えるふりをするのではなくて、心から仕えることなのです。そして、神はそのような者に誉れを与えてくださると、イエス様は教えてくださるのです。地上での誉れが、招いた人から、つまり他者から与えられるように。神の国においても、誉れはただ神から与えられるものなのです。イエス様は、その神からの誉れを受けるようにへりくだりなさいと教えられたのです。

 今朝のお話も同じことが言えます。この地上のお返しだけを求めてはならない。むしろ、復活の時にいただける神からのお返しを期待しなさいとイエス様は教えられるのです。お返しすることのできない人々に代わって、神があなたに報いてくださる。なぜなら、貧しい人、体の不自由な人たちも、神の目には高価で尊い、神の子供たちであるからです。

 私たちはかつて12章を読みました時に、「貧しい人に施し、天に宝を積みなさい」と教えられました。今朝の14章でも同じことが言われているのかと言えば、そうではありません。14章では、ただ食事を与えるということが言われているのではなくて、宴会に招きなさいと言われています。食卓を共にする。それは、同じ一人の人間として交わりを持つということであります。そして、この宴会は、安息日の宴会でありまして、しばしば聖餐の交わりと重ねて解釈されてきました。私たちは、これから、その聖餐にあずかろうとしているのでありますけども、ここで一つ問うてみたいのです。イエス様は、私たちが何かお返しできるから、私たちをこの聖餐に招いてくださったのかでしょうか?そもそも神の国の食卓に招かれて、人間に一体どのようなお返しができるのでしょうか?こう考えてきますと、私たちは、ただ神の一方的な恵みによって、この食卓へと招かれていることが明かとなります。私たちこそ、お返しができない貧しい人、体の不自由な人たちであるのです。そうであれば、私たちはお返しを期待して、人々を礼拝へと招くべきではありません。神が見返りも期待せずに私たちを招いてくださったにも関わらず、私たちが何かの見返りを期待して人々を教会に招こうとするならば、それは大きな間違いなのです。そのような間違いは、実は初代教会にも見られたものでありました。ヤコブの手紙2章にはこう記されています。新約の422頁です。

わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。

 また、使徒パウロもローマ書の12章で、こう語っています。

 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。

 私たちが何の見返りも期待せずに、すべての人々を礼拝へと招かなくてはならない。その根拠は、教会の頭であるイエス様ご自身がそのようなお方であるからです。先程、ご一緒に讃美しましたように、イエス様は、しいたげられし者を訪ね、友なき者の友となられたお方でした。教会は、そのイエス様の御心が第一とされるべき所であります。この世の価値観や自分たちの利益を基準にして、人を招くようであってはならないのです。

 先月、伝道開始25周年の祝会を終えまして、私はいよいよ伝道して行かなくてはという思いを強くしています。伝道するとは、人々を主の食卓に招くということであります。その時、私たちは一体どのような人に来て欲しいと思うのでしょうか。もちろん、友人や兄弟や親類といった親しい人々に先ず来て欲しいという思いがあります。けれども、私たちの思いは、そこでとどまってはならないのです。私たちは全ての人を主の食卓へと招く開かれた教会でありたいと願います。主からの報いを楽しみとする。その幸いに生きる者たちでありたいと願います。

関連する説教を探す関連する説教を探す