謙遜 2005年5月29日(日曜 朝の礼拝)

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謙遜

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 14章7節~11節

聖句のアイコン聖書の言葉

14:7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。
14:8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、
14:9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。
14:10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。
14:11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」ルカによる福音書 14章7節~11節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、ルカによる福音書14章7節から11節より「謙遜」という題でお話しをいたします。

 今朝のお話の舞台は、前回と同じく食卓であります。安息日にイエス様はファリサイ派のある議員の家に招かれました。イエス様はそこで、ある光景を目の当たりにいたします。それは、招待を受けた客が上席を選ぶという光景でした。日本でも上座、下座といいますように、座る席によって、その人間関係を明かにする席次の慣習があります。席次とは、座る位置によって相手を尊敬する気持ちをあらわすものです。一般的に、出入り口から遠く、居心地の良い席が上席とされます。教会においては、上席、末席ということは、あまり意識しないと思います。教会は、神の家族でありますから、家族の中で、あまり上席、末席ということは言わないわけです。けれども、社会においては、そのような席次のマナーというものがちゃんとある。そう考えてきますと、今朝の御言葉は、大変私たちに親しみやすい御言葉であるのです。

 特に、ユダヤでは、食事というものは、大変重んじられていました。誰と食事をするか。どこで食事をするか。どの席に座って食事をするかは、ほとんど、偶然に任せられることはなかったと言われています。適当に座って、居合わせた人と食事を取るということはしなかったわけです。おそらく食卓は、重要な社交の場であったのだと思います。よって、どの席につくかはそれぞれに大きな関心ごとであったわけです。これは、職場の方と会食をするときのことを想像してみれば分かりやすいかも知れません。職場の人と食事に行く。そうすると、まず自分がどの位置に座ればよいかを自分で考えなくてはなりません。新入社員ならば、末席を選んで座るでしょう。また、その中で一番上の役職の人ならば、安心して最上席に座ると思います。おそらく、役職や勤続年数などを手がかりに、自分が座るべき席を考えるのだと思います。しかし、イエス様が招かれた食卓の人々は、誰もがお客さんであり、そのような明確な手がかりはなかったわけです。そこで彼らは、我先にと上席を選びとろうとしていたのです。少しでも上座に座ろうと、互いに顔を見合わせて、私はこの人よりも上の人間だと、相手を値踏みして上席へと進む。そのようなことを互いにしていたのです。このような光景は、私たちには滑稽なものに思われるかも知れません。けれども、どの席に座るかによって、社会的地位が確定されると考えていたユダヤの人々にとっては、真剣なことであったと思います。自分が見下げていた人が、自分よりも上席に着けば、それこそ、穏やかな気持ちでいることはできなかったでしょう。

 イエス様は、そのような光景を御覧になりながら、彼らにたとえを話されました。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲って下さい』と言うかも知れない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んで下さい』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 イエス様はたとえ話を「もしあなたが婚宴に招待されたら」と始めます。婚宴とは、もっとも席次のうるさい宴会であります。また、婚宴は、招待した側であらかじめ席順を決めてある宴会でもあります。そのような婚宴に招待さかれたら、上席に着いてはならないとイエス様は言われるのです。招待された者は、誰がこの婚宴に招かれているのかを知りません。ただ、この婚宴を主催した人だけが、この婚宴にだれが招かれ、その人がどの席に着くべきかを知っているのです。自分が見回した限り、自分がもっともふさわしいと上席に座っても、あなたより身分の高い人が招かれており、席を譲らなければならなくなる。そして、空いている末席に着くはめになってしまうのです。そのようにならないために、イエス様は、むしろはじめから末席に座りなさい、と仰せになります。そうすると、あなたが座るべき席を心得ている、あなたを招いた人が来て、上席を勧めてくれる。その時は、みんなの前で、面目を施すことになると言うのです。10節に「さあ、もっと上席に進んで下さい」とありますが、ここで「さあ」と訳されている言葉は、「友よ」という親しい呼びかけであります。また、「面目を施すことになる」は、直訳すると「栄光を与えられる」となるのです。ですから、この婚宴を主催し、「友よ」と親しく呼びかけ、栄光を与えて下さる方が神様のことを指しているということが分かります。なぜなら、イエス様はここでたとえ話をされているからです。「たとえ」とは、日常生活の経験を通して、霊的な真理を教えるものであります。イエス様は婚宴の席順をたとえに、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という神の国の真理を教えられるのです。

 「へりくだる者は高められる」。このイエス様の言葉は、次のようにも言い換えることができます。「高めてもらうために、へりくだりなさい」。先程の婚宴の席順のたとえでいうならば、「上席に着くために、末席に着きなさい」と言うことです。実はこれと同じような事が、箴言の25章に記されています。旧約聖書1024頁。箴言25章6節から7節。

 王の前でうぬぼれるな。身分の高い人々の場に立とうとするな。高貴な人の前で下座に落とされるよりも/上座に着くようにと言われる方がよい。

 イエス様はこの生活の知恵を、神の国のたとえとして用いられました。ある人は、上席に着くために末席に着くなんて不純だ。それは見せかけの謙遜に過ぎないと言うかもしれません。けれども、このところを素直に読めば、「高めてもらうために、へりくだりなさい」とイエス様は教えているのです。しかし、ここで注意すべきことは、聖書における、「へりくだり」がどのようなことを意味しているのかということです。私たちが思い浮かべる「へりくだり」とは、自分を低くして、相手をたてること。自分の能力や実績を控えめに表現することであると思います。しかし、聖書が教えている「へりくだり」とは、果たしてそのようなことなのでしょうか。聖書の教える「へりくだり」とは一体何か。それを知る手がかりがフィリピの信徒への手紙の2章にあると思います。新約聖書362頁です。フィリピの信徒への手紙2章3節から9節をお読みします。

 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高くあげ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

 このところは、イエス様のへりくだりの様子が記されています。イエス様は、自分を無にして、神の御意志に従い抜かれた。ここに、聖書が教えるへりくだりがあるのです。自分を空しくして神の御意志に従うこと。これが聖書の教えるへりくだりなのです。「へりくだる」とは、私は、何もできないと卑下することではありません。「へりくだり」とは、自分が何もできないことを承知しつつも、それでも主のために何かをしようと努めることであります。自分にできることをひたすら主のために行う。それが「へりくだり」なのです。聖書が教える「へりくだり」とは、自分を卑下して何もしないといった消極的なものではありません。むしろ自分を無にして、神の言葉に従うという積極的なものなのであります。そうであるならば、高められることを期待して、へりくだることのどこが不純であるのか。現に、神がイエス様を高く上げ、あらゆる名にまさる名を与えられたのは、そのへりくだりのゆえであったのです。イエス様ご自身が、私たちの初穂として、「へりくだる者は高められる」という実例となられたのであります。 

 ルカによる福音書に戻ります。新約聖書136頁です。

 先程の婚宴の席順のたとえから、もう少し「へりくだる」ということを考えてみたいと思います。上席を選ぶことのどこが高ぶりなのか。それは、上席に座ることよって、自らを身分の高い者とすることにあります。これを神様との関係に置き換えて言えば、自らの力によって神に正しい者と認めてもらおうということになります。事実、この食卓に招かれていた律法の専門家やファリサイ派の人々は、律法を守ることによって、神に義としていただけると考えていたのです。これは、自らの行いによって救いを勝ち取ろうとする自力救済の教えであります。自力救済の教えがなぜ高ぶりなのかといえば、それは自らの罪を軽視し、神の恵みを無にしてしまうからです。また、上席を選ぶということは、そこに集う人々を見下し、軽んじるということの現れでもあります。この人よりも、自分の方が優れていると思って上席へと着くわけです。

 今、申し上げましたことの反対のことを考えれば、イエス様が求められる「へりくだり」が何であるのかが分かってきます。つまり、へりくだりとは、神に対しては、自らの罪を認め、ただ神の恵みにより頼むことなのです。自分が救われたのは、何か自分によいところがあったからだと考えるのではなくて、ただ神にのみ栄光を帰し、感謝をもって従ってゆくのです。また、「へりくだり」を、兄弟姉妹に対して言えば、互いに自らを優れた者と見なし、仕え合うということであります。へりくだりは、神への信仰と兄弟姉妹への愛というかたちで表されるのです。神と人とに喜んで仕える、その謙遜に生きる者でありたいと願います。

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