教える者の責任 2005年2月06日(日曜 朝の礼拝)

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教える者の責任

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 11章45節~54節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:45 そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。
11:46 イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。
11:47 あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。
11:48 こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである。
11:49 だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』
11:50 こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。
11:51 それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。
11:52 あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」
11:53 イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、
11:54 何か言葉じりをとらえようとねらっていた。ルカによる福音書 11章45節~54節

原稿のアイコンメッセージ

 先週、私たちは、イエス様がファリサイ派の人々を非難されたお話しを学びました。今朝の御言葉は、その続きとなります。45節にこう記されています。

 そこで、律法の専門家の一人が、「先生、そんなことをおっしゃれば、わたしたちをも侮辱することになります」と言った。

 ここから、律法の専門家も同じ食卓に着いていたということが分かります。その律法の専門家が、もはや黙っていられなくなった。頭にきてしてまったのです。このことは当然のことであります。なぜなら、ファリサイ派の人々を教え、指導していたのは、他でもない律法の専門家であったからです。ファリサイ派はいわば信徒運動でありまして、その指導的な立場にあったのは、律法の専門家でありました。律法の専門家とはその名の通り、旧約聖書のエキスパートであります。ユダヤの社会において、大変、権威がある、尊敬されていた人々であります。その律法の専門家が、イエス様にくってかかってきたのです。

 イエス様は、この律法の専門家を前にして、たじろいだかと言うと、そうではありません。イエス様はファリサイ派の人々と同じように、律法の専門家の不幸をも責められるのです。46節。

 イエスは言われた。「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ」。

 先週、ファリサイ派の人々が昔の人の言い伝えを、口伝律法と呼び、書かれた律法、つまり聖書と同じように重んじていたと申しました。そして、その口伝律法を作っていたのが、律法の専門家たちであったのです。彼らは、律法の戒めから具体的で現実的な細かい規則を作りまして、それを守ることによって、今の時代にあっても律法を落ち度なく守ろうとしたのです。そのような、背景の中で、この46節は記されているのです。ですから「背負いきれない重荷」とは、「到底守りきれない細かい規則」を指していると考えられます。到底守りきれいない細かい規則によって、人々をがんじがらめにしておきながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない。いや、かえって、律法を守れない人を罪人と呼び神との交わりから閉め出してしまう。このところに律法の専門家の不幸があるのです。

 さらにイエス様はこう仰せになります。47節から48節。

 「あなたたちは不幸だ。自分の先祖が殺した預言者たちの墓を建てているからだ。こうして、あなたたちは先祖の仕業の証人となり、それに賛成している。先祖は殺し、あなたたちは墓を建てているからである」。

 ここで「墓」と訳されている言葉は「記念碑」とも訳すことができます。当時、アモスやハバクク、ダビデといった預言者たちの墓、記念碑を建てることが流行していました。律法の専門家たちは、預言者の墓、記念碑を建てることによって、自分たちを先祖と関わりのない者とし、預言者側に立つ者と主張していたのです。マタイによる福音書によれば、彼らは『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』と主張しておりました。しかし、イエス様は、彼らが墓を建てることによって、先祖の仕業の証人となり、それに賛成していると仰せになるのです。すなわち、先祖の働いた悪事の仕上げとして、今の時代の者たちが墓を建てていると仰せになるのです。なぜ、イエス様はそのように言い切ることができるのか。それは、彼らが最大の預言者であるイエス様ご自身を受け入れないからです。いくら預言者の墓を建てて、その死を悼んだとしても、同じ神から遣わされたイエス様を拒み、排斥するのであればどうか。今、預言者イエスを受け入れないところに、彼らが預言者を殺した先祖に連なるものであることが明かとされているのです。そして、事実、イエス様をポンテオ・ピラトに激しく訴えたのは、祭司長たちと律法学者たちでありました(ルカ23:10)。

 イエス様は続けてこう仰せになります。49節から51節。

 だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』こうして、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、今の時代の者たちが責任を問われることになる。それは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血にまで及ぶ。そうだ。言っておくが、今の時代の者たちはその責任を問われる。

 ここでの「神の知恵」は解釈の難しいところであります。聖書には、イエス様ご自身が「神の知恵」と呼ばれているところがあるので(一コリント1:24、コロサイ2:3)、この「神の知恵」をイエス様ご自身と理解する人もいます。けれども、私は、この「神の知恵もこう言っている」という言い回しを、預言者特有の「主はこう言われる」という言い回しと同じものであると理解したいと思います。つまり、イエス様は「神の知恵もこう言っている」という言い回しによって、御自分が旧約の預言者に連なることを主張しておられるのです。そして、ここで語られている言葉は、これから起こであろう預言の言葉なのです。この二重括弧の動詞は、すべて未来形で記されています。すなわち、『わたしは預言者や使徒たちをこれから遣わすが、人々はその中のある者を殺すであろう、そしてある者を迫害するであろう』となります。ですから、ここでの預言者や使徒たちは初代教会を形成していく新約時代の預言者であり、使徒たちのことなのです。ここで、注目すべきは、新約の預言者や使徒たちも旧約の預言者に連なるものと見なされている、ということであります。そうであるからこそ、今の時代の者たちが、天地創造の時から流されたすべての預言者の血について、責任を問われることになるのです。新約の預言者や使徒たちが旧約の預言者に連なる者たちであるがゆえに、その者たちを殺し、迫害する今の時代の者たちは、アベルの血から、祭壇と聖所の間で殺されたゼカルヤの血までの責任を問われるのであります。アベルは創世記の4章に出てきます。そして、ゼカルヤは歴代誌下の24章に出て参ります。ヘブライ語の旧約聖書は、創世記から始まって、歴代誌の下で終わっていますので、アベルは最初の殉教者であり、ゼカルヤは最後の殉教者となります。つまり、ここでイエス様は、旧約聖書に出て来る全ての預言者の血の責任が問われることになると語っているのです。アベルは神に献げ物を受け入れられたばかりに、兄カインによって殺されてしまいました。また、ゼカルヤは偶像崇拝の罪を糾弾したばかりに、王ヨアシュによって殺されてしまいました。彼らは神の正しさに従ったゆえに、殺されてしまったのです。しかし、神は、その報復を必ず行ってくださいます。神の預言者を殺した者たちに、神ご自身がその血の報復をされるのです(黙6:9-10、16:4-6)。

 それでは、その血の責任を免れるにはどうすればよいのか。預言者のお墓を建てればよいのでしょうか。そうではありません。そうではなくて、ただイエス・キリストを信じればよいのです。イエス・キリストを信じるか、信じないかによって、自分がアベルに属するものか、あるいはカインに属する者かが明らかとなるのです。私たちが、イエス・キリストを神から遣わされたお方として受け入れないのであれば、その血の責任は今の時代の私たちにも問われることになるのです。

 最後にイエス様はこう仰せになります。52節。

 あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。

 ここでの「知識の鍵」は、神を知る知識の鍵であります。律法の専門家は本来、聖書から神がどのようなお方であるかを教えなければなりませんでした。けれども、彼らは律法を守るといううわべだけのことに集中し、神を人格的に紹介することに失敗したのです。もし、律法の専門家たちが神を人格的に知っていたらならば、彼らは律法を神の恵みとして教え、重荷にすることはなかったでしょう。また、もし、彼らが神を人格的に知っていたとすれば、神から遣わされた預言者であるイエス様を受け入れることができたはずです。けれども、彼らは、神を人格的に、本当の意味で知ってはおりませんでした。ですから、彼らは、自分が神の国に入らないばかりか、入ろうとする人まで妨げてきたのです。旧約が預言してきた救い主が今、目の前にいるのに、この方の教えに耳を傾けず、かえって敵意を燃やすのであります。ここに律法の専門家の不幸、ものの見えない案内人の不幸があるのです。

 さて、今朝の説教題を「教える者の責任」としました。自分で自分の首を絞めるような説教題をつけたかなぁと思います。けれども、神の言葉に仕える者として、この律法の専門家への非難を、まず私自身がしっかりと受け止めたいと思いました。

 私は、律法の専門家の根本的な誤りは、神を今も生きて働かれる神として捉えることができなかったことにあると思います。神を古き先祖の時代に閉じ込めてしまい、神と民との交わりを口伝律法によってがんじがらめにし、そこから命や喜びを奪い、無味乾燥な宗教的なお務めにしてしまったのです。そして、神が今も生きて働きたもうことを忘れているがゆえに、イエス様のうちに神からの新しい語りかけを聴くことができないのです。この律法の専門家の誤りは現代の説教者に大きな示唆を与えてくれます。天におられるイエス様が、聖書を通して、現在の神の民である私たちに何を語りかけているのか。この視点を説教者が失った時、説教は単なる聖書講義となってしまうのです。同じことは、説教を聴く、聴衆についても言うことができます。今日、天におられるイエス様は、聖書を通して、また説教者を通して私たちに何を語りかけてくださるのか、そのような期待をもって耳を傾けることが聴衆に求められているのです。

 説教者が語る言葉を聖霊なる神が神の言葉として聴衆の心に届けてくださる。その聖霊のお働きを信じるがゆえに、説教者は、神の言葉として語ることができるし、また聴衆は、神の言葉として聴くことができるのです。主イエスは生きておられる。そして、主イエスは聖霊において、私たちと共にいてくださる。このことを私たちは忘れないようにしたいと願います。このあと共にあずかる聖餐においても、私たちが今、主イエスと共に食卓を囲んでいることを覚えたいと願います。

 今朝の説教の備えをしていく中で、イエス様の言葉を語る説教者に求められることは、イエス様と似たものになることであると強く思わされました。つまり、御言葉を語るには、神への愛と人への愛が必要であると深く思わされたのです。なぜ、律法の専門家は、人には背負いきれない重荷を負わせながら、平気でいることができたのか。それは、愛なる神の言葉を、愛なしで語っていたからではないでしょうか。その人が、神と共に歩む。そのことを願って教えていたというよりも、自分の知識に酔いしれていただけではなかったか。そうであるならば、ここに現代の説教者への鋭い批判があるのです。また、52節もそうであります。福音を福音として語れないのはなぜか。それは、説教者自身が福音に生かされていないからではないか。神と共に生きる喜びに生かされていないからではないか。私は、そうイエス様から問われていると感じました。おそらく、このように感じたのは、私だけではないと思います。キリスト者の少ないこの日本で、私たち一人一人が御言葉を語り、教える立場に身を置くかも知れません。そうであるならば、今朝の御言葉は、私たち一人一人に大切なことを教えているのです。

 本来、律法の専門家の使命は、律法が意図するところの神の愛を説き、神と人とが共に生きることに仕えることであったはずです。そうであるならば、真の律法の教師は、イエス・キリストただお一人であるということが分かります。イエス様はマタイによる福音書11章28節から30節でこう仰せになりました。「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

 イエス様は、律法を落ち度なく守るという、到底、背負いきれない重荷を私たちに代わって背負ってくださいました。イエス様こそ神の御心そのものであり、御自分を信じ、依り頼む者を神の国へと入れてくださるお方であります。ここに、私たちの真の教師がいるのです。私たちは、真の教師であるイエス・キリストに学び続けたいと思います。イエス・キリストの十字架と復活という光の中で、御言葉に聞き続けたいと願います。この方を人生の教師として迎え、学び続ける時、私たちも御言葉を生きた神の言葉として語り、教えることができるのです。キリストの命に生かされているものが、命の言葉を命の言葉として語ることができるのです。このキリストの命に生きる者でありたいと願います。

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