うわべだけの美しさ 2005年1月30日(日曜 朝の礼拝)

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うわべだけの美しさ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 11章37節~44節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:37 イエスはこのように話しておられたとき、ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。
11:38 ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。
11:39 主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。
11:40 愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。
11:41 ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。
11:42 それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。
11:43 あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。
11:44 あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない。」ルカによる福音書 11章37節~44節

原稿のアイコンメッセージ

 ファリサイ派の人々から食事の招待を受けたイエス様は、それに応じ、食事の席へと着かれました。ユダヤにおいて、食卓の交わりは親密な交わりを意味します。イエス様はファリサイ派の人だからという理由で交わりを拒むことはしませんでした。けれども、ある事が発端となり、イエス様はファリサイ派の人々を非難することになります。その発端が38節に記されています。「ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清めなかったのを見て、不審に思った」。

 ここで「身を清める」と訳されている言葉は、バプティゾーという言葉であります。バプティゾーと聞いてお分かりのように、バプテスマと関わりのある言葉がここで用いられています。このことが何を意味しているかと申しますと、食事の前に身を清めることが衛生的な問題ではなくて、宗教的な、祭儀的な問題であるということであります。ファリサイ派の人々は、衛生面からではなくて、宗教的な儀式という観点から食事の前に身を清めていたのです。

 食事の前に、沐浴する、全身を水に浸すということは考えにくいことでありますから、ここでは手を水で洗う、手を水に浸すということを指していると考えられます。手を水で清めることによって、全身を清めることを象徴的に表したのです。食前に身を清めることは、もともとは神殿で仕える祭司たちが、献げ物を食べるときに行っていたことでありました。その祭司の習慣をファリサイ派の人々は通常の食事にまで広げて行っていたのです。マルコによる福音書の7章を見ますと、食前に念入りに手を洗うことが、昔の人の言い伝えであったと記されています。ですから、食事の前に身を清めなくとも、律法違反にはならないわけです。それでは、なぜこの人はイエス様がまず身を清められなかったのを不審に思ったのでしょう。それは、ファリサイ派の人々が昔の人の言い伝えを固く守っていたからであります。つまり、彼らは、昔の人の言い伝えを、口伝律法と呼び、律法と同じように重んじていたのです。口伝律法によって、律法を解釈し、今の時代に適用し、律法を落ち度なく守ることができると考えたのです。

 イエス様は、ファリサイ派の人が不審に思ったのにお気づきになり、こう仰せになります。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」。

 お皿を洗う時、その外側だけをきれいにする人はいません。内側も、外側もきれいにいたします。しかし、イエス様はファリサイ派の人々は外側だけをきれいにして、それで満足していると非難されるのです。身を清める、手を洗うことは、いわば外側をきれいにすることです。しかし、イエス様は、彼らの内側が強欲と悪意に満ちていることをあばかれるのです。ただ外側をきれいにしているだけで、神の御前に清いものとされたと考えている。それは愚かな事だとイエス様は仰せになるのです。神は外側だけをみられるのではない、私たちの内側をもご覧になるのです(サムエル記上16:7参照)。なぜなら、外側を造られた神は、内側をもお造りになられたからです。イエス様は、「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」と仰せになります。では、この「器にあるもの」とは何でしょうか。これまでイエス様は人を、杯や皿に例えられておりますから、この器も人を指していると考えられます。そうであれば、「器の中にあるもの」とは人間の「心」ということができます。けれども、「心」を人に施すことはできませんから、その心にあるものを施しによって示しなさいと、イエス様はここで仰せになっているのです。心の中にある強欲、貪欲を清めるために、イエス様は貧しい人に施しをするように求められるのです。自分が強欲に満ちているかどうかは、困っている人や貧しい人に喜んで施せるかどうか、によって明かとなるのです。あなたの持ち物を喜んで貧しい人々に施しなさい。そうすれば、あなたの心は貪欲から清められるとイエス様は仰せになるのです。

 「器の中にあるものを人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」。この言葉の背景には、身を清めて食事をいただくことによって、その食事を清めることができるという考え方があります。マタイによる福音書15章を開いていただきたいと思います。新約聖書の29頁です。このところには、食事の前に手を洗わない弟子たちに対するファリサイ派からの批判が記されています。その16節から20節にこう記されています。

 イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」

 この御言葉を合わせて考えるならば、先程のイエス様の言葉がよく分かるのではないでしょうか。すなわち、ファリサイ派の人々は、手を洗わずに食事を取ると、その食事によって汚れを受けると考えました。しかしイエス様はむしろ、外からのものではなくて、内からのものが人を汚すと仰せになるのです。その内なるものが清まったとき、すべてのものがあなたたちにとって清いものとなるイエス様は仰せになるのです。方向が逆なわけですね。私たちの内にあるものが清くなれば、私たちにとって全てのものが清くなるわけです。

 ルカ福音書に戻ります。新約聖書の130頁です。

 イエス様は続けてこう仰せになります。「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ、行うべきである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。」

 律法によれば、薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一まで献げることは命じられていませんでした。薄荷や芸香は、薬用植物であるそうですが、ファリサイ派の人々は自分の庭でとれる薬草にまで十分の一を適用したのです。けれども、それだけ几帳面に献げ物をしているにも関わらず、イエス様は、彼らが正義の実行と神への愛はおろそかにしていると仰せになるのです。そもそも、十分の一の献げ物は、主を畏れることを学ぶためという目的を持っておりました(申命記14:23参照)。私たちは献金を献げることによって、私たちの生活が神様に養われていることを改めて知るのです。献げることによって、自分が受けている恵みを覚え、神をいよいよ愛する者とされるのです。神への感謝という本質を忘れて、ただ十分の一を献げていれば、それで安全だと考える。そのところにファリサイ派の人々の不幸があるのです。

 イエス様はさらにこう仰せになります。「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ」。

 ここで、「好む」と訳されている言葉は、直訳すると「愛する」となります。先程、彼らがおろそかにしていた神への愛と同じ言葉がここで用いられております。つまり、ファリサイ派の人々は、神からの誉れよりも人からの誉れを愛していたのです(ヨハネ5:41以下参照)。神が重んじられることよりも、自分自身が重んじられることを彼ら好んだのです。神の栄光を奪い、自分たちにその栄光を帰してしまう。そのところにファリサイ派の人々の不幸があるのです。

 最後にイエス様はこう仰せになります。「あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである。その上を歩く人は気づかない」。

 ユダヤの社会において、死は汚れであり、よって墓も汚れたものとされていました。過越の祭りが近づく春になると、墓石は真っ白く塗られたと言われています。それは、旅行者が気づかずに触れて、汚れを受けることのないようにするためでした。イエス様はファリサイ派の人々をこの墓のようであると仰せになるのです。それも、白い塗装がはげてしまった、人目につかない墓のようであると言われるのです。墓に触れたものが、7日間汚れた者とされ、神との交わりから断たれるように、ファリサイ派の人々は、知らず知らずに、人々を神との交わりから遠ざけるのです。

 ファリサイ派は、サドカイ派、エッセネ派と並ぶ、ユダヤの三大宗派の一つでありますけども、その起源は、紀元前2世紀のハスモン王朝時代にさかのぼると言われています。彼らは、ユダヤ社会がヘレニズム化、ギリシャ化していく只中で、先祖伝来の律法に留まり続けた人々でありました。昔の人の言い伝えである口伝律法によって、律法を当時においても落ち度なく守り抜こうとした人々であります。ですから、本来、彼らはとてもまじめな人々、宗教的に熱心な人々であったわけです。彼らが、まじめであり、宗教的に熱心であったからこそ、民衆から尊敬され、大きな影響力を持つに至ったのです。しかし、イエス様は、そのファリサ派の持つ影響力が、かえって人々を神から遠ざけていると仰せになるのです。それはなぜか。それはファリサイ派の人々が律法を落ち度なく守ることよって、神の御前に正しい者とされると考えていたからです。そして、そのように民衆にも教えていたのです。律法を完全に守ることによって神の御前に義とされるという律法主義は、外側だけをきれいにするという不完全なものにも関わらず、神の御前に清いものとされているという錯覚を生み出します。その錯覚が罪人の救い主として来られたイエス様から人々を遠ざけるのです。そのところにファリサイ派の人々の不幸があるのです。

 今朝の御言葉を共に読んできまして、皆さんはどう感じられたでしょうか。これは、ファリサイ派の人々に語られた言葉だから私には関係ないと思ったでしょうか。おそらく、そのようには思われなかったと思います。そもそも、なぜ、ルカはファリサイ派の人々への批判を福音書の中に記したのでしょうか。それは、おそらくルカの教会においても、このファリサイ派と同じような誤りがはびこりつつあったからだと思います。肉体の病があるように、信仰にも病があるのです。それはファリサイ病という病であります。私たちの信仰が、このファリサイ病という病にかかっていないかどうか。そのことを今朝、自分自身に問うてみたいと思います。

 最後に、再び42節についてお話しをしたいと思います。

「ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべて のものが清くなる。」

 新共同訳聖書には、「人に施せ」とありますが、原文には、「人に」という言葉は記されておりません。それでは、なぜ新共同訳は「人に」という言葉を付け加えたのか。それは、ここで「施せ」と訳されている言葉が、聖書において、すべて人を対象とする言葉であるからです。よって、新共同訳は分かりやすくするために「人に」という言葉を付け加えたのだと思います。しかし、私はあえてこのように考えてみたいと思います。ここでの「人に施せ」を「神に献げよ」とするならばどうか。もし、このところが「人に施せ」ではなくて「神に献げよ」であれば、このイエス様の言葉はもっとすっきりと分かりやすいものとなります。神に献げられた物は、聖別されたもの、聖なるもの、清いものとなるわけですから、私たちの内にあるものを神に献げるのであれば、私たちの内にあるものは清いものとされるわけです。そして、私たちが清いものとなったとき、私たちにとってすべてのものがきよいものとなるのです。

 また、ここでの「器の中にあるもの」は「私たちの所有物」を指すよりも、「私たちの心」を指していると解釈したいと思います。このことを更に裏付けるのが、ルカ福音書13章33節と34節のイエス様の御言葉です。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこには、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」。

 ここで、「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」とありますように、富と心は一体的なものとして語られています。ですから、「器の中にあるもの」を所有物や富ではなく、心と解釈しても間違いとは言い切れないのです。

 また、ここで、「施しによって、天に宝を積みなさい」と言われているように、「神への献げ物」と「人への施し」は対立するものではなく、むしろ一体的なものなのです。イエス様が律法の要約として、神への愛と人への愛を語られたように。使徒ヨハネが目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛する事はできないと語ったように(一ヨハ4:20)。私たちの献げる献金が神様のご用のためだけではなくて、災害に遭われた方に対しても用いられるように。神と人との関係は対立するものではなく、むしろ一体的な関係にあるのです。

 以上のことから、私はこのところを「あなた自身を、外側だけではなくて内側も、つまり心と体からなるあなた自身を神に献げよ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる」そう解釈したいと思います。

 「心と体からなるあなた自身を神に献げよ」と聞いて、はいそうですか。それなら献げますと言うことができるでしょうか。答えは「否」、「できない」であります。それは、私たちが所有するすべてのものを人に施せないのと同じです。すべてを献げれば、今度は自分が貧しい者となるではないか。そう考え、ある程度の施しに私たちは留まってしまうのです。こう考えてきますと、このことが可能なお方はただ一人であるということが分かってきます。それは主イエス・キリストであります。イエス様だけが、心も体をも神に献げ尽くされたお方でありました。そのことをイエス様は十字架の死によって明らかに示されたのであります。神への愛と人への愛が一体的であるならば、イエスの十字架の死も、「神への献げ物」と同時に「人への施し」であったと言うことが分かります。まさに主イエスは十字架によって、父なる神への愛と御自分の民への愛を全うしてくださったのです。この主イエスと信仰によって結び合わされる時、私たちは心も体も清いものとされ、私たちにとってすべてのものが清いと言い切ることができるのです(テト1:15参照)。

 私は先程、信仰にはファリサイ病という病があると申しました。この病が根深いことは、私たちの経験からも明かであると思います。しかし、このファリサイ病を神学的に分析すれば、その根は古き自分にあるということが分かります。そうであるならば、この病を克服するには、ただイエス・キリストとの交わりに生き続ける他ありません。私たちの罪のために死に、私たちの復活の希望としてよみがえられたイエス・キリストとの交わりに生かされること。それが私たちの信仰を健康に保つ唯一の道なのです。

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