しるしと信仰 2005年1月23日(日曜 朝の礼拝)

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しるしと信仰

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 11章29節~36節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:29 群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
11:30 つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。
11:31 南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。
11:32 また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」
11:33 「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。
11:34 あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。
11:35 だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。
11:36 あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている。」ルカによる福音書 11章29節~36節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はルカによる福音書11章29節から36節より、「しるしと信仰」という題でお話しします。

 29節と30節をお読みします。

 群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちにしるしとなる」。

 ここで「よこしま」と訳されている言葉は、直訳すると「悪い」「邪悪である」となります。集まって来た群衆に対してイエス様は「あなた達は悪い世代である」と仰せになるのです。なぜ、イエス様はそのような厳しいことを言われたのか。それは、彼らがしるしを求める者たちであったからです。先週学んだ16節に、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた、と記されていました。この人はイエス様に、メシアであることが誰にでも納得できるような決定的なしるしを求めたのです。このようなしるしを求める傾向は多くのユダヤ人に共通していたようです。ここでの「しるし」とは証拠とも言うことができます。証拠を求める。しかも、神様に証拠を求める。もうそこに、あなたたちの悪さが表れているとイエス様は仰せになるのです。ちょうど、荒野の誘惑において、サタンが神の子であることのしるしを求めたように、人々もイエス様がメシアであることのしるしを求めたのです。そもそも、しるし、証拠を求めるというところに、もうすでに不信仰の根があります。もし、私たちが言うこと、為すことにいちいち証拠を求められるとしたらどうでしょうか。おそらくうんざりしてしまうと思います。あるいは、信用してもらえないことを悲しく思うかもしれません。おそらくイエス様もそのようなお気持ちではなかったかと思います。旧約聖書が預言してきた救い主は、神の御子が人となられるという仕方でこの地上に来てくださいました。その救い主であるイエス様を、人々は喜んで受け入れたかというとそうではない。かえって受け入れずに証拠を求める。その証拠を見たら、信じてやろうと言うのです。イエス様はどれほど驚かれ、悲しまれたことか。このしるしを求める不信仰がやがてイエス様を十字架につけるのです。そして「今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」という自分勝手なしるしをイエス様に押しつけるのです。けれども、神が備えてくださるしるしはそのようなものではありません。イエス様は、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と仰せになるのです。

 ここでの「しるしは与えられない」「しるしとなる」は、翻訳では分かりづらいですが、未来形で記されています。つまり、群衆が求めるようなさらなるしるしは、今は与えられず将来に与えられるものなのです。それもヨナがニネベの人々とってしるしとなったように、イエス様ご自身がしるしとなると言うのです。マタイによる福音書の並行箇所を見ると、さらにこう記されています。「つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」。このマタイによる福音書の言葉を併せて考えますと、イエス様は、死からのよみがえりについて語っていることが分かります。イエス様が神の御子であり、救い主であるという決定的なしるしは、イエス様が死から三日目によみがえられたことでありました。しかし、そのしるしは、彼らにはまだ与えられないのです。

 それでは、「天からのしるし」のような決定的なしるしがなければ、イエス様を信じることができないのでしょうか。イエス様は、「そうではない」ということを、南の国の女王とニネベの人々を引き合いに出して論じられます。「南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここにソロモンにまさるものがある。また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここにヨナにまさるものがある」。

 ここでの「裁きの時」とは、いわゆる最後の審判のことを指しています。ですから、この「立ち上がり」とは「よみがえり」という意味です。ここに描かれている光景はまことに終末的な光景であります。死から3日目に復活し天にお昇りになったイエス様が再びこの地上に来られる日に、すべての者はよみがえらされ、神の法廷で裁きを受けなければならないのです。その法廷の場で、南の国の女王やニネベの人々は、今の時代の者たちの罪を非難するであろう、とイエス様はお語りになるのです。繰り返しになりますが、ここでの「今の時代の者たち」とは、イエス様にさらなるしるしを求める人たちのことであります。けれども、しるしがなければ、人はイエス様のもとに来ることができないのか。あるいは、しるしがなければ、人は悔い改めることができないのか。そうではないとイエス様は仰せになるのです。南の国の女王を見なさい。この女王は、ソロモンの知恵を聞くために、地の果てからはるばる来たではないか。ニネベの人々を見なさい。彼らは、ヨナの説教を聞いただけで悔い改めたではないか。この人々の正しい行いが、今の世代が悪いことをより明らかにしているとイエス様は仰せになるのです。そして、今の時代の人々が罪に定められる最も大きな理由は、「ここにソロモンにまさるものがある」「ここにヨナにまさるものがある」という事実なのであります。この「まさるもの」が何を指しているのか。このところは解釈の難しいところであります。なぜ難しいのかと言いますと、ここで「まさるもの」と訳されている言葉が中性で記されているからです。ギリシャ語の形容詞には、男性、女性、中性といった性があるのですけども、ここでの「まさるもの」は中性で記されているのです。そのことは、新共同訳聖書が、この「もの」という言葉をひらがなで記していることにも表れています。また、「いる」ではなくて、「ある」と記していることにも表されております。もし、この「まさるもの」が男性形で記されているならば、ここでの「まさるもの」とはイエス様がご自身であると考えることができます。けれども、実際には、中性形で記されているので、どうやらイエス様のことを指しているのではないようなのです。そうすると、ここでの「ソロモンにまさるもの」「ヨナにまさるもの」とは何なのでしょうか。その答えが、20節のイエス様の言葉にあります。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。ソロモンよりも、ヨナよりもまさるもの、それはイエス・キリストにおいて到来した神の国なのです。イエス・キリストにおいて、神の国が到来している。それなのに、なぜ私のもとに来ないのか。なぜ、悔い改めないのか、とイエス様は仰せになるのです。

 ソロモンの知恵もヨナの説教も、その時代の人々に与えられた神様からの啓示でありました。その神の啓示に聞き従ったという点において、南の国の女王もニネベの人々も正しかったのです。けれども、今の時代の人々はイエス様によって到来した神の国を認めず、さらなるしるしを求めるのです。しかも南の国の女王もニネベの人々も、真の神を知らない異邦人でありました。その異邦人が神の啓示に正しく聞き従ったのです。それゆえに、神の最大の啓示であるイエス・キリストに従おうとしない神の民イスラエルの罪はより重いものとされるのであります。

 誤解のないように、確認しておきますけども、イエス様はここですべてのしるしを否定なされたのではありません。病の癒しや悪霊追放は、イエス様において神の国が到来したことのしるしでありました。イエス様はこれまで、イザヤの預言を成就するという仕方で、神の国の到来を公に示して来たのです。けれども、そこに満足しない。もっと大きなしるしを求める、その貪欲、その不信仰を、イエス様は責められるのです。

 イエス様が様々なしるしによって神の国の到来を明らかに示してきたこと。そのことが、33節以下で教えられています。   

 ともし火をともして、それを穴蔵の中や、升の下に置く者はいない。入って来る人に光りが見えるように、燭台の上に置く。

 ここでの「ともし火」は、病の癒しや悪霊追放という神の国の到来のしるしを指しています。ともし火をともして、人目につかない隠れた場所に置く人はいません。入ってくる人に光が見えるように燭台の上に置きます。そのように、イエス様ご自身も、神の国の到来のしるしを公に行ってきたのです。事実、天からのしるしを求めた人は、イエス様が悪霊を追い出されるところを目の当たりにしていたのです。しかし、この人は、神の国の到来のしるしが公に示されているにも関わらず、それを認めないのです。ここでイエス様に何か問題があるのでしょうか。そうではありません。むしろ、そのしるしを見ることのできないあなたの目に問題があるのだとイエス様は仰せになるのです。「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身は明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。あなたの全身が明るく、少しも暗いところがなければ、ちょうど、ともし火がその輝きであなたを照らすときのように、全身は輝いている」。

 ここでの目はちょうど、明かり取りの窓を想像していただければよいと思います。先週学んだ、24節以下で人間の体が建物、家に例えられていました。同じくここでも体が建物に例えられています。ちょうど、朝日が昇っても雨戸を閉めっぱなしでは、部屋が真っ暗なままなように、イエス・キリストにおいて救いの光が輝いていても、霊的なまなこが閉じられているならば、その人の体は暗いままなのです。霊的なまなこを開き、すでに輝いている救いの光を受け、全身を明るくすることが私たちに求められているのです。イエス様は「目が澄んでいれば、あなたの全身は明るい」と仰せになりました。ここで「目が澄んでいれば」と訳されている言葉は、直訳すると「目がシングルである」「目が単一である」となります。つまり、色々なものに目移りせずに、一つのものを見据える目が私たちに求められているのです。ただイエス・キリストを見つめるそのシンプルな目が求められているのです。私たちがその澄んだ目を持つならば、救いの光が私たちの全身をあまなく照らすのです。そればかりか、私たちは救いの光を輝かすものとなるのです。

 私たちは既に、イエス・キリストの復活という「ヨナのしるし」をいただいている時代に生きています。けれども、この決定的なしるしが与えられたからといって、すべての人が悔い改め、イエス・キリストを受け入れているわけではありません。それはどういうことなのでしょうか。もっと、大きなしるしが必要だったのでしょうか。そうではありません。必要なのはさらなるしるしではなくて、キリストの復活というしるしを見ることのできる澄んだ目なのです。霊的な真理を見分けることのできる、その目なのであります。

 イエス・キリストが神の御子であり、救い主であるということ。そのことは、イエス・キリストの復活によって既に十分に示されているのです。そして私たちはそのことの証人とされているのです。週のはじめの日に教会に集うことによって、イエス・キリストが確かに復活なされたことを世に証しているのです。教会がこの歴史に存在し続けてきたこと。また全世界に今も存在していること。これこそ、イエス・キリストが確かに死からよみがえられたことのしるしに他なりません。神は私たちを今の時代の人々に対するしるしとされております。その私たちに求められていることは、キリストの光が私たちの全身に輝くことです。この礼拝に、教会の交わりにキリストの光が満ちあふれることであるのです。

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