神の国の到来 2005年1月16日(日曜 朝の礼拝)

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神の国の到来

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 11章14節~28節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:14 イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。
11:15 しかし、中には、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う者や、
11:16 イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた。
11:17 しかし、イエスは彼らの心を見抜いて言われた。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。
11:18 あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか。
11:19 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
11:20 しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
11:21 強い人が武装して自分の屋敷を守っているときには、その持ち物は安全である。
11:22 しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する。
11:23 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」
11:24 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。
11:25 そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。
11:26 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」
11:27 イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」
11:28 しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」ルカによる福音書 11章14節~28節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝の御言葉には、悪霊を追い出されるイエス様のお姿が描かれています。それは口を利けなくする悪霊でありました。悪霊が出て行くと、口の利けなかった人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆したと記されています。しかし、中には「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」という人もおりました。この人たちも、イエス様が悪霊を追い出認めております。口の利けなかった人がものを言い始めた以上、そのことは認めざるを得ないわけです。ですから、ここで問題になっているのは、それではイエス様がどのような力で悪霊を追い出したのか、ということであります。この人々は、イエス様が悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出していると主張したのです。また他に、イエス様を試そうとして、天からのしるしを求める人もおりました。メシアであることを「しるし」によってはっきり示して欲しいと言うのです。

 イエス様は彼らの心を見抜き、こう仰せになります。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう。あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめをすれば、どうしてその国は成り立っていくだろうか」。

 ここで、イエス様が仰せになっていることは、よくお分かりいただけると思います。国でも家庭でも、内輪で争えば、成り立っていくことができません。教会もそうであります。特に役員同士が内輪もめを起こせば、教会は教会として成り立っていかなくなってしまいます。主にある一致があるところに健全な教会の姿が立ち現れてくるのです。「内輪で争えば、成り立っていかない」。それは、サタンの王国でも同じであるとイエス様は仰せになるのです。そもそもサタンとは神の「敵」という意味であります。ですから、もしサタンがサタンに敵対するならば、敵の敵は味方ですから、もはやサタンは神の敵とは言えなくなってしまいます。サタンがサタンを追い出すことは、このように論理の破綻をきたすことになるのです。

 続けてイエス様はこう仰せになられます。19節。「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる」。

 当時、イエス様の他にも、悪霊を追い出す人がおりました。悪霊払いの祈祷師みたいな人がいたわけです。以前学んだ、9章49節からも、ある人々がイエス様のお名前を使って悪霊を追い出していたことが分かります。彼らの仲間にもその悪霊払い師がいたようです。イエス様は、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出しているならば、あなたたちの仲間も同じことになるではないか。だからその仲間たちがあなたたちの言い分を裁くであろう、と仰せになるのです。当然、彼らは、自分たちの仲間が悪霊追放する場合は、ベルゼブルの力によるものだとは言わなかったと思います。けれども、同じことをイエス様がすれば、それはベルゼブルによると言いがかりをつけるのです。ここに、彼らの持つイエス様への悪意があらわとされているのです。

 彼らがイエス様の御業をベルゼブルに帰したことは、確かに彼らがイエス様に対して悪意をもっていたからでありますけども、おそらく、それだけではなかったと思います。イエス様の悪霊追放の業が他の人々と比べてあまりにも突出していたからだと思います。自分たちの仲間と比べても、イエス様が持つ悪霊に対する権威がずば抜けていたからだと思います。もちろん、イエス様は神の御子でありますから、私たちからすれば当然なのでありますけども、当時の人々にしてみれば何らかの説明を付けねばならなかったわけです。素直に考えれば、イエス様が彼らの仲間よりも、神の力を豊かに受けているからと考えるのだと思います。けれども、彼らはイエス様に悪意を持っていましたから、悪霊があれほどイエス様に聞き従うのはイエス様が悪霊の頭ベルゼブルと結託しているからに違いない、と考えたのだのです。しかし、もちろんそうではありません。さらに、イエス様はこう仰せになります。「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。

 この「神の指」という言葉は、出エジプト記8章15節に出てきます。モーセの兄アロンが、エジプトで「ぶよの災い」の奇跡を起こすのを見てエジプトの魔術師はファラオにこう言います。「これは神の指の働きでございます」。かつてアロンが奇跡を行った神の指で、私も悪霊を追い出しているのだとイエス様は仰せになるのです。アロンの奇跡が神が共におられるしるしであったように、悪霊追放は、神がイエス様と共におられることを示しているのです。この20節は大変控えめな言い方であると思います。「わたしは神の指で悪霊を追い出しているのだ。だから、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と断定せずに、「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば」と仮定的な言い方をしておられます。ここに、やはりイエス様からの一つの問いがあるのだと思います。それは、「私がなす悪霊追放の奇跡に、神の指を見るか」という問いであります。そこに神の指を、すなわち神の霊の働きを見ることができるか。そうであれば、神の国がすでに到来していることが分かるであろう、とイエス様は仰せになるのです。

 ある人々は、天からのしるしを求めましたけども、しるしである神の指は、イエス様の悪霊追放という奇跡の中にすでに示されているのです。ここでイエス様は、神の指を見ることができないのに、どうして天のしるしを見分けることができるか。あなた方が求めている「しるし」がここにあるではないか、そうお語りになっているのです。

 私たちはこれまで、ルカ福音書を共に学んできまして、イエス様が病を癒す、あるいは悪霊を追放するというお話しを何度も読んできました。そのお話しを現代の私たちが読むとどうも引っかかる、腑に落ちないということがあろうかと思います。病の癒し、悪霊追放の奇跡をどのように考えればよいのか。その答えが、この20節のイエス様の御言葉であるのです。イエス・キリストの病の癒し、悪霊の追放は、イエス・キリストにおいて神の国が到来したことの「しるし」としての意味を持っているのです。神の国とは、神の支配とも訳すことができます。癒しや悪霊追放を通して、神の御支配がそこに現れているのです。イエス様の病の癒しに神の指を見た時、私たちは初めてイエス様の奇跡を正しく理解したと言えるのです。

 ベルゼブルとは「家の主人」という意味ですが、それになぞらえて、イエス様はこう仰せになります。「強い人が武装して自分の屋敷を守っている時は、その持ち物は安全である。しかし、もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する」。

 これは、譬え話とも言えます。強い人は、悪魔であり、持ち物は人間、もっと強い者はイエス様ご自身であります。始祖アダムの堕落によって、全ての人は悪魔の支配に生きるものとなりました。悪魔は私たちよりも強く、罪の力によって、私たちを捕らえて放さないのです。しかし、もっと強い方、神の御子イエス・キリストが来てくださったのです。イエス様は悪魔に勝利し、人を神の支配へと回復してくださるのです。強い人である悪魔に捕らわれた人間を、もっと強いお方、イエス・キリストが解放してくださる。このお話しの背景にはイザヤ書49章の御言葉があると言われています。旧約聖書1144頁です。イザヤ書49章24節から26節。

 勇士からとりこを取り返せるだろうか。暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。主はこう言われる。捕らわれ人が勇士から取り返され/とりこが暴君から救い出される。わたしが、あなたと争う者と争い/わたしが、あなたの子らを救う。あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ/新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。すべて肉なるものは知るようになる/わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う/ヤコブの力ある者であることを。

 このイザヤの預言は第一義的には、バビロンに捕囚とされていたイスラエルへの預言であります。けれども、悪の巣窟と言われるバビロンをサタンとして解釈するならば、まさにここで神様はサタンの支配から御自分の民を救い出してくださると約束しておられるのです。そして、その約束は主の僕によって実現されるのであります。旧約聖書1150頁。イザヤ書53章12節。

 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らを投げ打ち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。

 このイザヤの預言にある通り、イエス様は自らの命を投げ打つという仕方で私たちをサタンの支配から贖い出してくださったのです。

 ルカ福音書に戻ります。新約聖書128頁です。

 ある人は、わたしは悪魔の支配のもとにもいないし、神の支配のもとにもいないと言うかもしれません。誰にも従属しない自立した人間である考えるかも知れません。しかし、聖書が教える真理は、人間は霊的に、悪魔の支配に属するか、神の支配に属するかのどちらかであるのです。人はイエス・キリストを拒否し、悪魔の支配にとどまるか、あるいはイエス・キリストを受け入れ神の支配に生きる者となるかのどちらかなのです。イエス・キリストにおいて神の国が到来した今、その決断を私たちは迫られているのです。そこに中立という者はありません。中立がないということ。それは、23節のイエス様の言葉からも明かであります。イエス様に味方しない者は、イエス様に敵対するもの、すなわち悪魔の支配に生きる者なのです。 

 先程、イエス様は、自分以外の悪霊払い師について言及なさいました。私たちは、ここでうっかりすると、イエス様以外の悪霊払い師も神の指で悪霊を追い出していると読んでしまうのです。イエス様がそれをここで承認されたかのように読んでしまうのであります。けれども、イエス様は、実はそのようことを一言も仰っていません。むしろ、20節の言葉を見ますと、イエス様は御自分と他の悪霊払い師を明確に区別しておられます。イエス様は他の人の悪霊追放に神の国の到来を見なさいとは招いていないのです。むしろイエス様は彼らの悪霊払いが、いかに不完全であり、有害であるかを24節以降で教えておられます。

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出てきたわが家に戻ろう』という。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」。

 ここでは、人間が建物に譬えられています。追放された悪霊はその後どうなるのか。また、悪霊を追放してもらった人はどうなるのか。その疑問に対する答えがここに記されているのです。汚れた霊を追い出してもらえば、もうその人は安全なのでしょうか。そうではありません。イエス様は汚れた霊が戻ってくると仰せになります。「出てきたわが家に戻ろう」とありますように、その人はまだ、汚れた霊の所有物なのです。汚れた霊が出て行ったように見えても、それは旅行に出かけたようなものでありまして、また戻ってくるのです。しかも、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れてきて、中に入り込んで住み着き、その状態はさらに悪くなるとイエス様は警告されるのです。家が空きやになっている時、その人は勘違いをして、自分は誰にも従属していないと考えるかもしれません。しかし、その家の所有者は依然として悪霊であるということに変わりないのです。

 私は先程、現代の私たちが悪霊払い、悪霊追放と聞くとどうも引っかかる、また府に落ちないと申しました。けれども、よく考えてみますと私たちの日常の中に似たようなことは多々見ることができます。厄払いや地鎮祭などはその良い例でありましょう。また、少し前には陰陽師というものがはやっていましたし、今はスピリチュアルカウンセリングという言葉も出回っています。いつの時代においても、人間は霊的な存在であることには変わりはないのです。そう考えてきますと、今朝の御言葉は遠い古代のお話しというよりも、現代の私たちにも大変深い関わりがあると言えます。そして、ここでイエス様が明らかにしておられることは、イエス・キリストによらなければ、人は完全に悪霊から解放されないということであります。悪霊を追い出していただくと共に、もっと強いお方に住み込んでいただかなくてはならないのです。私たちの体を聖霊が宿る神殿としなくてはならないのであります。空き家にしておいてはだめなのです。自分の体を聖霊が宿る神殿とすること。これだけが、再び悪霊に住み込まれることのない、唯一の道なのであります。

 もし悪霊の支配という言葉がピンと来ないのであれば、罪の支配と言い換えてもよいと思います。生まれついての人間は誰も、為すべき善を知りながら、それをなす力がありません。自分の内にある悪しき思い、怒りや恨みなどを、誰も自分でコントロールすることができず、かえってその悪しき思いに振り回されています。その根底にあるのは、私たちを捕らえている悪霊の支配であり、罪の支配なのです。そして、その悪しき支配から私たちを解放してくださるお方は、ただイエス・キリストだけなのです。キリストの霊である聖霊が私たちに住み込んでくださる、そのような仕方で、私たちを神の支配に守り続けてくださるのであります。

 キリストの霊が私たちのうちに住み込んでくださる。それは神様の一方的な恵みであります。けれども、聖霊に宿り続けていただくために、私たちにもふさわしい努力が求められるのです。それが、28節にある「神の言葉を聞いて、それを守ること」なのであります。神の言葉に聞き続け、そこに留まり続けること。これこそ、神の支配に生き続けるために私たちが為すべきことなのです。神の支配に生きる。そこに人間としての真の幸いがあるからです。その幸いに生き続けたいと願います。

 

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