ただ神の国を求めよ 2005年2月27日(日曜 朝の礼拝)

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ただ神の国を求めよ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 12章22節~34節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。
12:23 命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。
12:24 烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。
12:25 あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
12:26 こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、ほかの事まで思い悩むのか。
12:27 野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
12:28 今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。
12:29 あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。
12:30 それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。
12:31 ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。
12:32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
12:33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
12:34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」ルカによる福音書 12章22節~34節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝の御言葉では、お話しの対象が再び、弟子たちへと限定されております。一同に、「貪欲に注意を払いなさい」と言われたイエス様は、さらに弟子たちに対して「思い悩むな」と仰せになるのです。22節。

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ。」

 イエス様は「だから」という言葉で話し始められました。これは、命は地上の富みによるのではない、という教えを受けての「だから」であります。地上の富によって命が保証されるのではない。だから、命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。そうイエス様は仰せになるのです。おそらく、私たちは、もうここで戸惑ってしまうのではないでしょうか。私たちは日々、何を食べようか、何を着ようかと考えて生きているからです。主婦の方ならなおさらだと思います。いつも食事のメニューを何にしようかと考えている。また、おしゃれな方でしたら、いつも何を着ようかと考えているかも分かりません。けれども、ここでイエス様が禁じられたのは、「考えること」ではありません。イエス様は「思い悩むな」と言われたのです。口語訳聖書はこのところを「思い煩うな」と訳しています。本来、命を保つための食事が、思い煩うことによって、かえって命を損なってしまう。また、体を守るための衣服が、思い煩うことによって、かえって体を損なってしまう。そのような本末転倒に陥ってはならないとイエス様は仰せになるのです。美食を楽しむためや、高価な衣服を身にまとうために、命をすり減らすように働いても何になろうかとイエス様は仰せになるのです。

 イエス様は、私たちに思い悩むなと言われる理由として、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」と仰せになりました。この言葉はどういう意味でしょうか。「命があるからこそ、食べ物が必要だ。体があるからこそ、衣服が必要だ。だから、命は食べ物よりも、体は衣服よりも大切なのだ」そういう意味でしょうか。実はどうも、イエス様はそのようなことを意図しているのではないようです。塚本虎二という方がおりますけども、この人が訳した聖書を見ますと、このところを次のように訳しています。「命は食べ物以上、体は着物以上(の賜物)だから。(命と体とをくださった神が、それ以下のものをくださらないわけはない)」。

 私は先程、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」というイエス様の御言葉を、現代の私たちへの言葉として語りました。つまり、食べるものが与えられており、着る物が与えられている現代の私たちへの言葉として語ったのであります。けれども、よく考えてみますと、イエス様の弟子たちは、この時どのような状況にあったのか。イエス様は彼らを宣教に使わす際に、「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚はもってはならない」と仰せになりました。また、イエス様ご自身も「人の子には、枕する所もない」と仰せになりました。このようなイエス様の御言葉から推測しますと、ここでの思い悩みは、あり余るものから何を選ぼうかというそのような贅沢な悩みではなくて、食べる物、着る物が満足になくて、何を食べたらよいのか。何を着たらよいのかという生きていくための切実な悩みであるということが分かって参ります。今、私たちはそのような切実な状態にはないかも知れません。けれども、この御言葉が、明日何を食べて命をつないだらよいか分からない。その切実な悩みを持つ人々に語られた御言葉であることを忘れてはなりません。そのような貧しさにある人々、生きていくために、思い煩わずにはおれない人々、そのような人々にイエス様は、思い悩むな、と言われるのです。命や体をあなたに与えられた神は、その食べ物や衣服さえも与えてくださるに違いないとイエス様は仰せになるのです。

 神の配慮を示す具体例として、24節では、カラスが取り上げられます。

 「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。」

 ユダヤの社会において、烏は、汚れた鳥であり、人気のない鳥でありました。しかし、イエス様は、神はその烏さえも養っていてくださると仰せになるのです。ここでイエス様は、私たちの目を、自分の生活という狭い視野から、神の被造世界という大きな視野へと移させます。そして、私たちの神がどのような神であるかを私たちに思い起こさせるのです。神が世界をお造りになられたということ。そしてその神が今もすべてを保ち、治めておられることを思い起こさせるのです。私たちが告白している小教理問答の言葉で言えば、神の創造と摂理の御業を思い起こさせるのであります。創世記の1章によりますと、神は創造の冠として、最後の6日目に神のかたちに似せて、人を造られました。そして、神は御自分にかたどって造られた人間(男と女)を見て喜び、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と祝福して言われたのです。そして、私たちも、神の目に貴い、その人間なのであります。烏は、愚かな金持ちのように、納屋や倉を持っているわけではありません。けれども、神は鳥たちを養ってくださる。そうであるならば、神はあなたたちを養ってくださるに違いない、とイエス様は仰せになるのです。

 続けてイエス様はこう仰せになります。25節。

 「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ、他のことまで思い悩むのか。」

 ここでは、思い悩みが無意味であることが教えられています。だれも、自分で自分の寿命を延ばすことなどできません。それは「愚かな金持ち」のたとえで教えられた真理でもありました。中国の故事に「杞憂」という言葉があります。いらざる心配、取り越し苦労という意味の故事でありますけども、その起源は次のようなものです。「昔、杞の国の人が、天が崩れ落ちはしないかと憂えて、夜もおちおち眠れず、ご飯ものどを通らなかった」。杞の国の人は、空が崩れ落ちて来ないかと入らぬ心配をして、夜もおちおち眠れず、ご飯ものどを通りませんでした。しかし、もし、この人が天地を造られた神を知っていたならば、そのような心配をすることはなかったのではないでしょうか。イエス様がここで私たちに注意していることも、入らぬ心配をするなということであります。なぜ、思い悩むのか。それは、あなたを造られた神、あなたの命を保つ神を知らないからではないのか。その方に信頼していないからではないのか。私たちはこの杞の国の人を笑ってはおれません。私たちもしばしば入らぬ心配、入らぬ悩みを抱え込んでしまう者たちであるからです。そのような私たちの目をイエス様は再び被造世界へと向けさせます。27節。

 「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。」

 この「野原の花」は、紫色のアネモネであったと言われています。ソロモンの着物も紫色でありましたから、イエス様は、紫の花をみて、そこに栄華を極めたソロモンの姿を重ねられたのです。ある人は、この所から、「イエス様は詩人である」と申しました。確かに、このところは詩的な表現であります。草がきれいに花を咲かす、それをイエス様は装いとご覧になる。そして、そこに栄華を極めたソロモン以上の美しさを見ておられるのです。働きもせず、紡ぎもしない野の花、今日は野に咲いて、明日は炉に投げ込まれる野の花さえも、神はこのように装ってくださる。ましてあなたがたにはなおさらのことではないか。イエス様は野の花にも、神の配慮を見ておられるのです。

 いつかもお話ししましたけども、神の啓示は、一般啓示と特別啓示との2つに区別することができます。一般啓示とは、神様の創造と摂理の御業に表されている啓示です。ですから、これを万人に共通な啓示、共通啓示とも言います。それに対して、特別啓示は、イエス・キリストを頂点とする救いに関する啓示をいいます。ですから、これを救済啓示とも言います。もし、アダムが罪を犯さなかったならば、人は一般啓示によって、神を正しく知り得たと考えられます。けれども実際、アダムは罪を犯し、彼の神のかたちは歪められ、人は一般啓示を正しく認識することができなくなりました。ですから、特別啓示が必要となったのです。けれども、ここでイエス様は、その一般啓示から神の配慮がどれほどであるかを説き明かしているのです。イエス様は、空の鳥や野の花から、神の恵みを弟子たちに説き明かしたのであります。私は、ここにイエス様が確かに罪のないお方であることのしるしを見ることができると思います。空の鳥や野の花、それを見つめることによって神の恵みを知ることができる。そのことをイエス様は私たちにも教えようとしておられるのです。

 続けてイエス様はこう仰せになります。29節。

 「あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。」

 ここで、「何を飲もうかと考えてはならない」の「考えてはならない」は、むしろ「求めてはならない」と訳すべき言葉です。30節の「世の異邦人が切に求めているものだ」の「求めている」と同じ言葉が、29節では「考えてはならない」と訳されているのです。つまり、ここで、イエス様が求めてはならないと言われるのは、神の配慮を期待せず、自分の力によって手にしようとする、その「求め」なのです。言い換えれば、何を食べようか、何を飲もうか、そのことを人生の第一の目的として歩んではいけないということです。それでは、神を知らない人々と同じではないか、とイエス様は仰せになるのです。そして、私たちがそのことを思い悩んではならないのは、何より父なる神が、これらのものが私たちに必要なことをご存じであるからです。イエス様は、ここで神様を「あなたがたの父」と呼んでくださいました。「わたしの父」とは呼ばずに「あなたがたの父」と呼んでくださったのです。神はあなたがたの父であるのだから、心配するな、思い煩うな、そうイエス様は仰せになるのです。

 少し前に、ある外国人のジャーナリストが日本社会を批評して次のようなことを言っておりました。「日本人の人生において、最も最良の時は子供時代である」。果たして、この言葉が日本人だけに当てはまるのかは疑問でありますけども、私はこの言葉にはある真理があるのではないかと思っております。確かに、子供のころは気楽であります。もちろん、その時々に子供ながらの悩みがありますけども、自分のことを考えてみてもやはり気楽であったと思うんですね。社会的責任から自由でありますし、あらゆる面で親に守られていて、あまり心配なく過ごすことができたと思います。けれども、だんだんと成長するに従って、それなりの責任が問われてくる。また自立ということが求められてくる。そうすると、どうなるのか。自分の力で食べるもの、飲むものを手に入れなくてはいけなくなってくる。何を食べようか。何を飲もうかと思い煩うようになるのです。ずーと子供のままではいられない。親の腕の中で、安心しているわけにはいかない、その厳しさの中に立たされるのであります。けれども、イエス様は仰せになるのです。神があなたたちの父だと。ここには、お年を召した方もおられます。おじいちゃん、おばあちゃんと呼ばれる年配の方もおります。しかし、それでも神様はその方の父であられるのです。そして、父なる神は、空の鳥を養い、野の花をも美しく装ってくださるお方なのです。イエス・キリストにあって、神が私たちの父となってくださったのです。そして、父なる神は、私たちの思い煩いを遥かに越えて、私たちに対して心を配ってくださるお方なのです。私たちが生きていくうえで、なくてはならぬ物、それは神と和解すること。神を父と呼び、主にある平安に生きることであると、父なる神はご存じなのです。その本当に必要なものを、神は御子イエスを通して、すべての人に与えようとしておられるのです。ですから、イエス様はこう仰せになるのです。31節。

 「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国を与えて下さる。」

 ここに、私たちが何を第一として生きるべきかが教えられています。神の国を求める。神の御支配がこの地上に現れること。それを第一に求めるのです。ある翻訳聖書は、このところを大胆に次のように訳しました。「これらのものは付録として与えられる」。神の国を求めるならば、私たちの生活に必要な物は、添えて与えられるのです。これがイエス様の約束、神の約束であります。私は、ここを読んでおりまして、申命記の28章を思い起こしました。そこでモーセは、約束の地カナンに入るに当たって、二つの道をイスラエルの前に置きます。一つは「神の祝福」に通じる道であり、もう一つは「神の呪い」に通じる道であります。そして、その祝福と呪いを分けるのは、彼らが「主の御声によく聞き従い、モーセが命じる戒めをことごとく忠実に守るかどうか」にかかっておりました。聞き従うならば、約束の地に住み続けることができる。けれども、聞き従わなければ、約束の地に住み続けることはできず、遠い地へと連れ去られてしまうのです。イエス様の言葉も、このモーセの言葉に通じるものがあると思います。「ただ神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えてあたえられる」。ここに、私たちが神の祝福を生きる、その道があるのです。その道を歩みなさいとイエス様は仰せになるのであります。そして、神の国を私たちに与えること、それが神の御心なのです。イエス様は、「小さな群れよ、恐れるな」と仰せになりました。小さいことに、恐れてはならない。なぜなら、わたしたちの父は喜んで神の国をくださるのです。この「喜んで神の国をくださる」の「喜んで何々する」という言葉は過去形で記されています。ですから、このところは直訳すると「あなたがたの父は喜んで神の国を与えてくださったから」となります。これからではない、もう既に与えられているのです。私は先ほど、31節のイエス様の言葉を申命記28章のモーセの言葉に通じるところがあると申しました。しかし、決定的に違うのがこの所なのです。それは、私たちが既に神の国に入れられているということであります。父なる神は、喜んで神の国をくださいます。そして、そのために、イエス様がこの地上にお生まれになり、十字架へとおつきになられるのです。イエス・キリストにあって、私たちは、すでに、神の国に生きております。だからこそ、イエス様はただ神の国を求め続けよと仰せになるのです。その祝福をしっかり握って放さないようにとイエス様は仰せになるのです。

 神の国を求める生活とは、何も漠然としたものではありません。あえて一言で言うなら、それは主の祈りを祈り続ける生活であります。神を「父よ」と呼び、何よりも「御名があがめられますように」、「御国が来ますように」と祈り続ける生活であります。この主の祈りを自らの祈りとして生きる。それが神の国を求めて生きるということなのです。

 神の国という、天の命に生かされている私たちは、この地上に富を積むことだけを目指してはなりません。イエス様は最後に、こう仰せになります。33節。

 「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」

 このイエス様の「富を天に積みなさい」という教えも、私たちを思い煩いから解放してくれます。なぜなら、地上に富を積めば積むほど、それが誰かに盗まれないか。あるいは、その資産価値が下がりはしないかと、かえって思い煩うことになるからです。ですから、イエス様は、天に財布を持ちなさい。天に預金口座を開設しなさいと仰せになるのです。イエス様は、貧しい人に施せば、天に宝を積むことになると言われました。この言葉の背後には、貧しい人に施す時、主が必ず報いて下さるという聖書の約束があります。例えば、箴言の19章には、こう記されています。「弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる」。

 父なる神は空の鳥を養い、野の花をも装ってくださいます。そして、父なる神は私たちの施しによって、貧しい人を養おうとされるのです。父なる神は私たちを通して、貧しい人を養ってくださる。施すということ。それは、私たちを通して働く、父なる神の御業なのであります。私たちの業と神の御業とが一つとなる。その時私たちは、自分が神の国に生かされていることを本当の意味で知ることになるのです。

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