神の前の豊かさ 2005年2月20日(日曜 朝の礼拝)

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神の前の豊かさ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 12章13節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
12:14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
12:15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」ルカによる福音書 12章13節~21節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、ルカによる福音書12章13節から21節より「神の前の豊かさ」という題でお話しをいたします。

 群衆の一人がイエス様にこう願いました。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。

 モーセの律法は、宗教的な儀式に関わるものだけではなく、いわゆる民法や刑法を含むものでありました。ですから、律法の教師にこのように願うことは珍しいことではありませんでした。つまりこの人は、イエス様にとんちんかんなお願いをしたのではないということであります。当時のユダヤは政治と宗教が一体的な社会でありましたから、律法の教師は、宗教家であると同時に法律家でもあったわけです。

 この願いをした人は、おそらく弟だと考えられています。次男か三男かは分かりませんけども、ともかく長男ではなかったのです。申命記によれば、長男は他の兄弟よりも2倍の遺産を受け継ぐことができました。そして、この掟は、長男以外の兄弟にも遺産を分け与えることを前提としています。しかし、この人のお兄さんは、弟である自分に遺産を分けてくれない。その不当な仕打ちをイエス様に打ち明けた、そして助けを求めたのであります。とは言っても、この人はイエス様に、相談を持ちかけたのではありません。彼の答えはもう出ているのです。そして、その答えは律法に照らし合わせて見ても正しいものでありました。それでは、この人がイエス様に求めたもの何だったのか。それは、律法の教師としてのイエス様の権威であります。自分が言っても駄目なので、先生から仰ってください、ということであります。

 イエス様は、この人の申し出をきっかけとして、一同にこう仰せになります。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」。

 ここで「貪欲」と訳されている言葉の元々の意味は「もっと多く持つ」ということであります。貪欲とは、現状に満足しない、さらなる満足を求める、その心のことを言うのです。「もっと、もっと」という思い、それが貪欲なのであります。十戒は、それを「貪り」という言葉で言い表し、禁じております。そしてイエス様も、あらゆる貪欲に注意し、用心しなさいと警告されるのです。ここで「用心しなさい」と訳されている言葉は、「身を守りなさい」とも訳すことができます。ただ貪欲を避けるだけではなくて、その貪欲に自分の心が支配されないように、積極的に戦うことが命じられているのです。

 15節後半の「人の命は財産によってどうすることもできないからである」という言葉は直訳するこうなります。「彼の命は彼の財産から出てくるものではないからだ」。つまり、命と財産とは異質なものであるということが教えられているのです。「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」。この真理をはっきりと教えるために、イエス様は、あるたとえ話をなされました。はじめに、たとえ話そのものをお読みします。

 「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物はいったいだれのものになるのか』と言われた」。

 17節から19節までは、金持ちの自問自答、独り言と言うことができます。新共同訳聖書は、省略していますが、この金持ちの言葉には、しつこいぐらい「私の」という所有代名詞が使われています。週報に挟んであるものを見ていただければ分かりやすいかと思います。その17節から19節までをお読みいたします。

 「そこで彼は、自分の中で思い巡らして言った。『私はどうしようか。私の作物を入れておくところがない』。そして言った、『こうしよう。私の倉を壊し、もっと大きな倉を建てよう。そしてそこに私の穀物と財産とを集めよう。そして私の魂に言おう、「おい魂、これでお前は多くの年のための多くの財産をもっているわけだ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と』」。

 ここでは、作物や倉ばかりではなく、魂にさえ、「私の」という言葉が付けられています。ここに、金持ちが魂さえも、自分の財産と同じように考えていたことが明らかとされています。そして、この男は、自分の命を生かすのは多くの財産である、と考えていたのです。

 しかし、そこに突如、神様が介入してきます。金持ちが「ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と自分に語りかけた時、天からもう一つの声が響いてくるのです。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意したものはだれのものになるのか」。

 神様は、この金持ちを「愚かな者」と呼ばれました。しかし、私たち人間の目からみれば、それほど愚かには見えないのではないでしょうか。いやむしろ、彼は賢かったとさえ言えるのです。確認にしておきますけども、彼は不正な手段によって富を築いたのではありません。小作人の賃金を払わなかったとか、そのようなことをしたのではないのです。また、彼は怠け者でもありませんでした。畑を耕し、畝をつくり、種を蒔いたからこそ、畑は豊作となったのです。また、その処理の仕方も見事であります。彼はすぐに今の倉を壊し、もっと大きな倉を建てて、これから先何年もの蓄えを確保したのであります。この金持ちがしていることは、私たちもしていることです。私たちはそれぞれに生活設計を立てて歩んでいます。保険や年金などを用いて、自分のこれからに備えています。今は、仕事が忙しくても、もう少し立てば、時間に余裕ができるはずだと、そう自分に言い聞かせて働いているかも分かりません。また、聖書も将来に備えて富を蓄えることを教えております。ですから、富を蓄えることそれ自体が愚かなことではないのです。それでは、この金持ちの愚かさは一体どこにあるのか。それは、神様ではなくて財産に、自分の命の安心を見出したところにあるのです。

 この20節で「命」と訳されている言葉は「魂」と訳すべき言葉であります。金持ちが自分の魂と言っていたその言葉を神様は皮肉をもって「あなたの魂」と言われるのです。そして、ここで「取り上げられる」と訳されている言葉は「返済を要求される」という意味の言葉であります。つまり、金持ちが「私の魂」と言っていたものの真の所有者は神様であるということです。私たちはしばしば財産や命を自分のものと錯覚し、自分のものだから自由にしていいはずだと主張いたします。確かに、人間同士では、私の財産、私の命と言うことができます。けれども、神様の御前には、誰も私の財産、私の命と主張することはできないのです。私たちが今、自分のものと思っているものは、神様から管理を委ねられたものに過ぎないのです。自分の命さえもそうなんです。そのことをすっかり忘れていたところに、この金持ちの愚かさがあるのです。

 この男の計画では、これから何年先も楽しく生きていくことができるはずでありました。しかし、神様の計画では、この男の命が取り上げられるのは、まさに今夜なのです。ここで、神様は意地悪く、畑が豊作であったから金持ちの命を取り上げたのではありません。そうではなくて、神様の永遠のご計画によれば、今夜が金持ちの寿命であったのです。彼は、地上で生きていく備えはしていても、天で神様と共に生きる備えはしていませんでした。この地上の生活のことしか考えていなかったところに、この金持ちの愚かさがあるのです。

 イエス様は最後に、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と仰せになりました。ここで、イエス様は地上の富を第一とする生き方の空しさを指摘しております。この地上に富を積むことを第一の目的とするではなくて、神の御前に豊かになる生き方をイエス様は求められるのです。それでは、神の前の豊かさとは一体何でしょうか。それは神の富を自分の富として生きることであります。神の富であるイエス・キリスト、このお方を自分の富として生きることです。イエス・キリストを信じるものは、来るべき世において、この世界を相続する者となるのです。今は、猫の額ほどの土地も持っていなかったとしても、私たちはキリストと共に、この全世界を受け継ぐ者となるのです。また、イエス・キリストを信じる者は、死んでも生きる永遠の命に生きることができるのであります。財産を多く所有している人が豊なのではありません。イエス・キリストを信じて生きる者こそが、本当に豊かな人なのです。

 こう考えてきますと、イエス様が群衆の一人の申し出を断った理由が分かってくるのではないかと思います。一体誰が、神の富であり、神からの最高の賜物であるイエス様を前にして、地上の遺産にこだわることができましょう。それが神の御前に正しくないことは明らかであります。むしろ、この人は、どんな遺産にも代え難いイエス様を求めるべきであったのです。もし、イエス様が裁判官や調停人になれば、確かにこの人の手に遺産が入ったかも分かりません。けれども、人の命を本当に生かすのは、そんなところにあるのではない。私にある。私を信じて生きるところに、本当に人を生かす命があるとイエス様は仰せになるのです。誰もが地上の富を得ようとあくせくしております。それなのに、なぜ誰も神の富であるイエス様のもとに来ようとしないのか。それは、多くの人が自分の人生から神様を閉め出しているからであります。そうであるならば、この金持ちに対する神の言葉は、今も響き続けているのです。今朝、私たちはこの言葉を自分自身への警告として聞かなければなりません。そして、死を突き抜けて、私たちを生かす命がどこにあるのかを悟らなくてはならないのです。命の君であるイエス・キリストを信じて生きること。そこに神の御前を豊かに生きる人生があります。神の富であるイエス・キリストを、私たちの生涯の宝として歩んでいきたいと願います。

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