だれを恐れるべきか 2005年2月13日(日曜 朝の礼拝)

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だれを恐れるべきか

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 12章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:1 とかくするうちに、数えきれないほどの群衆が集まって来て、足を踏み合うほどになった。イエスは、まず弟子たちに話し始められた。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。
12:2 覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。
12:3 だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。
12:4 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。
12:5 だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい。
12:6 五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。
12:7 それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
12:8 「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。
12:9 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。
12:10 人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。
12:11 会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。
12:12 言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」ルカによる福音書 12章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

 とかくするうちに、数えきれいないほどの群衆がイエス様のもとに集まって来ました。聖書は、足を踏み合うほどであったと記しています。そのような群衆に取り囲まれている中で、イエス様は先ず弟子たちに、話し始められます。「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはうない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる」。 

 ここでイエス様は、ファリサイ派の人々の偽善に騙されるな、と言っているのではありません。そうではなくて、ファリサイ派の人々と同じ、偽善者になるな、と語っているのです。ここで、「偽善」と訳されている言葉の元々の意味は、俳優が舞台で「役を演じる」、「演技をする」ということであります。自分を偽って、本来の自分ではない自分を演じること。それが偽善であります。イエス様は11章で、ファリサイ派の人々は外側をきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている、と非難されました。また、薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしていると、彼らの偽りをあばかれたのであります。このように偽善とは、外側と内側が一貫していないこと。行動と心の思いが一貫していないことを特徴とするのです。

 また、イエス様は「パン種」という言葉を用いられました。パン種とは、パンを膨らますイースト菌のことであります。イースト菌が発酵して、やがてパン全体を膨らますように。偽善は、人間の隅々まで広がり、影響力をもたらすのです。ですから、「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい」とは、「本来の自分を見失って、いつも演技をしているような人間になるな」ということであります。

 私は偽善には、2つのタイプがあると思います。1つは意識的な偽善です。意識的な偽善とは、自分が今、心にもないことをしているということを知りつつ演じることです。そして、もう1つは無意識的な偽善です。無意識的な偽善とは、自分が演じていることを意識せずに演じている偽善であります。そして、この無意識的な偽善は、意識的な偽善より重傷であり、また深刻であります。なぜなら、自分を偽っているという感覚さえ失ってしまっているからです。古代のギリシャでは、仮面をつけて演技をしたそうでありますけども、いわば、その仮面をいつもつけたままで自分の素顔を忘れてしまっているのです。自分自身を見失ってしまっているのです。おそらく、ファリサイ派の人々の偽善は、後者の無意識的な偽善ではなかったかと思います。彼らは自分の本当の姿に気づかずに、人々の評価によって自分というものを判断していました。人々から敬虔な者と呼ばれることによって、自らを敬虔な者であると判断していたのです。彼らが、神の御前に自分が何ものであるかを見失っていた。だからこそ、イエス様はファリサイ派の人々の真の姿をあばかれたのです。

 人間は、外側や見かけだけしか見ることができませんから、人間に対しては演じきることができるかもしれません。しかし、神の御前にあって演じきることはできない、そなわち偽善は通用しないのです。なぜなら、神はその心を見たもうお方だからです。私たちよりも私たちのことをよくご存じである私たちの造り主であるからです。誰も神の御前に、自分を偽り、演じることはできない。神の御前でこそ、本来の自分の姿が現れるのです。神様の御前に偽善や演技は通用しない。そのことは、2節、3節によってさらにはっきりと教えられています。ここでは、おそらく終末における裁き、いわゆる最後の審判が背景にあると思われます。神の御前に私たちが立つ時、私たちのすべては裸とされ、隠されていたことがあらわとされるのです。神の御前に立つ時、私たちは本来の自分として立たなければなりません。神の御前に仮面をつけて立つことはできないのです。ですから、私たちに求められることは、何よりも先ず、本来の自分に出会うことであります。少し前に、「自分探し」という言葉がはやりましたけども、まさに、本当の自分を見出し、その自分に真実に生きて行かなくてはならないのです。それでは、本当の自分の姿とは何か。それは神の目に映る自分の姿なのであります。人の目にどう映るか、自分の目にどう映るかよりも、神の目に映る自分の姿こそが、本当の私たちの姿なのです。私たちは、自分の人生を真実に生きるために、絶えず神の視点から自らを捉えなおさねばならないのです。

 続けてイエス様はこう仰せになります。「友人であるあなたがたに言っておく。体は殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」。

 このイエス様の御言葉は、弟子たちへの来るべき迫害を前提として語られています。それも、命をも奪われかねない厳しい迫害です。8節以降を重ねて考えますと、ここでの迫害は、おそらくキリスト教信仰を捨てよ、さもなくば、お前の命はないというような迫害であると考えられます。命が欲しければ、イエス・キリストを否定せよ、というわけです。ここで突然、迫害への心構えが教えられているように感じますけども、おそらく、この迫害の予告は11章49節の延長線上にあるのだと思います。イエス様は11章49節でこう預言なさいました。 

 だから、神の知恵もこう言っている。『わたしは預言者や使徒たちを遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する』。

 ここでの預言者や使徒たちは、これから初代教会を形成していく弟子たちのことであります。この預言に対応するかたちで、迫害の時、どのように振る舞うべきかが教えられているのです。そして、事実、律法学者やファリサイ派の人々のイエス様への敵意はいよいよ激しいものとなっていたのです。

 ところで、人間にとって、一番大切なものとは何でしょうか。おそらく、誰もが「命」であると答えると思います。「命あっての物種」といいますように、自分が死んでしまえば元も子もない、そう考えるのだと思います。けれども、イエス様は私たちの友として「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」と仰せになるのです。この地上の生涯だけが全てではない。それだけで人の命は終わるのではない。その後に、人は神の裁きを受けねばならない。そして、そこでは神だけが人を地獄へと投げ込む権威をもっている。そうだ。この神を恐れなさい。そうイエス様は仰せになるのです。このことは、まさに神の奥義と言えるのではないでしょうか。多くの人が死んだ後のことは分からないと申します。けれども、イエス様は死んだ後のことを友である私たちに教え、警告されるのです。人は、肉体しか滅ぼすことができない。しかし、神は肉体も魂も永遠に滅ぼすことがおできになる。ここに、人ではなく、神を恐れるべき理由があるのです。

 イエス様は続けてこう仰せになります。「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 ここでの雀は、もっとも小さなものを代表しています。市場で売られている雀の一羽さえ、神はお忘れになることはないのです。おそらく、この雀は生け捕りにされてカゴか何かに入れられて売られていたと思いますね。冷蔵庫があるわけではありませんから、おそらく食べる直前に殺したのだと思います。人間に捕まってしまい、市場に並べられている、その雀さえも、神はお忘れになるようなことはないというのです。神がお忘れになったからこの雀は、人間に捕まったのではない、そうイエス様は仰せになるのです。その小さな雀さえ、そうであるならば、ましてあなた方を忘れられることはないではないか。いや、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。それほどに、神は私たちを御心に留めてくださっておられるのです。だから、迫害の中にあっても恐れてはならない。体をぶるぶる震わせて、恐れにとりつかれてはならない。そうイエス様は仰せになるのです。迫害されるということは、神から忘れられたということではない。そうではない。たとえ、迫害にあっても、もし殺されるようなことがあったとしても、神は私たちを忘れることは決してないのです。すべてが父なる神の御手のうちにあり、その神が私たちを決して忘れられないことを知る時、私たちは、人間への恐れから解放されるのであります。

 イエス様は続けてこう仰せになります。「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないという者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」。

 ここで「言い表す」と訳されている言葉は、「信仰告白をする」とも訳すことができます。ただ言い表すのではない。信仰の告白として公に言い表すのです。ここでは、地上の法廷と天上の法廷の姿が対応するかたちで描かれています。そして注目すべきことは、地上の法廷と天上の法廷とが一貫しているということです。すなわち、地上の法廷においてイエス様を仲間であると告白するものは、天上の法廷においても、人の子、つまり栄光のイエス様から仲間であると公に言い表されるのです。そして、地上の法廷において、イエス様を知らないと言う者は、天上の法廷においても、栄光のイエス様から、知らないと言われるのであります。すなわち、地上の法廷において、私たちは既に天上の法廷に立っているも同然なのです。初代教会の最初の殉教者であるステファノは、立派な弁明によりイエスこそキリストであることを証しした後、聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエス様を見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っているのが見える」と語りました。ステファノが見ていたのは地上の法廷ばかりではありません。彼はそこに、天上の法廷をも見ていたのです。

 イエス様は、弟子たちのことを、友と呼ばれました。また、イエス様はヨハネ福音書15章13節で、「友のために自分の命を捨てること。これ以上に大きな愛はない」と仰せになりました。わたしはあなたたちのために、命を捨てる。このわたしの愛よりも大きな愛はない、とイエス様は仰せになったのです。そのイエス様の愛に、私たちは何と答えるのか。そのことがここで問われているのであります。

 イエス様は続けてこう仰せになります。「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」。

 この10節以降は、すでに聖霊が与えられていることを前提にしています。つまり、ペンテコステ以降の時代の者たちのことが念頭に置かれているわけです。ですから、ここでの「人の子の悪口を言う者」とは、聖霊がまだ与えられていない未信者のイエス様に対する嘲りを指していると考えられます。イエス様を本当の意味で知らないゆえに嘲る者は、悔い改めてイエス様を信じるのであれば、皆赦されます。けれども、聖霊をいただき、イエスは主であるとすでに告白しているキリスト者が、イエス・キリストを否定するのであれば、それは赦されることがないとイエス様は仰せになるのです。なぜなら、聖霊は、神を「アッバ父よ」と呼び、私たちに父なる神の愛を確信させてくださるお方だからです。また、聖霊は「イエスは主である」と告白してくださるお方でもあります。その聖霊の声を押し殺して、故意にイエス様を否定するのであれば、それは聖霊を冒涜する罪であり、赦されることがないとイエス様は仰せになるのです。 

 今朝の御言葉を私たちが読みますときに、おそらく多くの方が不安に感じると思います。それは迫害そのものに対する不安よりも、自分がそのような迫害にあって、果たして信仰を守りぬくことができるか、という不安であると思います。迫害によって命を奪われることを恐れるよりも、その迫害によって、信仰を捨ててしまうことを恐れるのです。友と呼んでくださるキリストの愛を裏切ることを恐れるのです。けれども、イエス様はそのような私たちに、恐れるな。心配するなと言われるのです。言うべきことは聖霊が教えてくださる。聖霊において、わたしがあなたと共にいるとイエス様は仰せになるのです。私たちが自分の力で、信仰を守り抜くのではない。聖霊なる神が私たちの信仰を全うしてくださるのです。そして、私たちを必ず神の国へと入れてくださるのであります。だから、あなたの内に住む聖霊の声を押し殺してはいけない。迫害の中にあってこそ、私たちは聖霊の導きに謙虚に信頼して歩み続けねばならないのです。その歩みを、今から始めて行きたいと願います。

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