時を見分ける 2005年4月03日(日曜 朝の礼拝)

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時を見分ける

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 12章54節~59節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:54 イエスはまた群衆にも言われた。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。
12:55 また、南風が吹いているのを見ると、『暑くなる』と言う。事実そうなる。
12:56 偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」
12:57 「あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。
12:58 あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。
12:59 言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」ルカによる福音書 12章54節~59節

原稿のアイコンメッセージ

 受難週、イースターと続いて、しばらくルカ福音書から離れていましたが、今朝から再びルカ福音書を読み進めていきたいと思います。12章の1節から13章の9節までは、いわばイエス様の教えを集めたものであると言えます。しかし、ただ何でもいいから寄せ集めたのではなくて、そこにはある一貫したテーマがあります。それは、「終末に対する備え」というテーマです。今朝の御言葉も「終末に対する備え」として聞いていただきたいと思います。

 イエス様は、今朝の御言葉とそれに続く13章1節から9節までの御言葉を群衆に対してお語りになりました。ですから今朝は、イエス様が群衆に語られた御言葉の前半部分を学ぶことになります。群衆という言葉は弟子たちと対比されるかたちで用いられています。弟子たちを、イエス様に従う決心をした者たちとすれば、群衆は、興味本位でイエス様のもとに集まってきた、イエス様に対して判断を決めかねている者たちと言うことができます。その群衆に対してイエス様はこう仰せになるのです。「あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると『暑くなる』と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」。

 イスラエルの西には、地中海がありますから、その西から雲がでると、にわか雨になる。また、イスラエルの南は砂漠地帯でありますから、そこから吹く風は熱を帯びており当然暑くなります。このようにしてイスラエルの人々は天気を予測していました。いわば、ここに彼らの生活の知恵の一端が紹介されているわけです。創造と摂理の神を信じるイスラエルの人々にとって天気は単なる自然現象ではなくて、神のご計画に基づいてなされる神の御業と考えられていました。人々は、その神の御業を、空や地の模様から予測し、その予測に従って一日の計画を立て生活していたのです。

 そのような群衆をイエス様は、「偽善者よ」と呼びかけられました。なぜ、イエス様は彼らを「偽善者」と呼ばれたのか。それは、彼らが空や地の模様を見分けることは知っているのに、今の時を見分けることができないからです。この被造世界に現される天気という神の御業を見分けることは知っているのに、イエス様のうちに現されている神の御業は見分けることができない。その偏った一面性をイエス様はここで偽善と呼ばれたのです。今の時がどのような時か。それを見分けるしるしはイエス様自身である、と言うことができます。イエス様こそ旧約聖書が預言してきたメシアであり、世の終わりの到来を示すしるしなのです。イエス様のお話を聞きながら、また、イエス様の奇跡を目の当たりにしながら、そこに示された神からのメッセージを聞き取り、そのメッセージから、今自分が何をすべきかを判断しない。そのような群衆を、イエス様は憤りと悲しみの入り交じった思いをもって、「偽善者よ」と呼ばれたのです。

 なぜ、彼らは空や地の模様を見分けることを知っているのに、今の時代を見分けることを知らないのでしょうか。それは、彼らが、何が正しいのかを自分で判断しようとしないからです。今日の天気が晴れか、あるいは雨かということには関心があっても、今の時代が神の目にどのように映っているかには関心がないのです。今の時代のしるしであるイエス様に対しても同じであります。自分でイエス様がどのようなお方であるのかを見極めようとせず、その判断は人任せなのです。周りの人が、どうやらこの人がメシアらしいと言えば、そうかなぁと思って付いて行く。しかし、どうも、この人はメシアではないらしいという事になれば、離れて行ってしまう。その人任せの判断をイエス様はここで責められるのです。なぜなら、イエス・キリストがどのようなお方であるかは、決して人任せにすることのできない命に関わる大切な事柄だからです。天気の予測は人に任せることもできましょう。事実、私たちも天気の予測は専門家に任せています。しかし、イエス・キリストがどのようなお方であるかという判断は、私たち一人一人に求められているのです。

 この自分で判断すべき「正しさ」は、何より神の御前における正しさのことを指しています。神の御前に正しい事は何なのか。それを自分で判断してほしい、そうイエス様は仰せになるのです。私たちの願いも、このイエス様の願いと重なるものがあるのではないでしょうか。現在、残念ながら、多くの人々がイエス・キリストを受け入れておりません。そして、その判断は必ずしも自分自身で見分けたものではないのです。聖書を通読して、教会にしばらく通ってみて、それから、私にはどうもイエス・キリストを救い主と信じられない。そう自分で判断したのではないのです。多くの方が、聖書をほとんど読んだこともなく、教会にも行ったことがない。それにも関わらず、イエス・キリストを受け入れていないのです。いや、「受け入れない」という言葉は強すぎるかも知れません。客観的に言えば、あまり興味がなく、どちらでもいいのです。自分で判断するまでもなく、その判断は人任せとなっているのです。もし、信じるならば、キリスト教を信じたいという人が多いようですけども、しかしそれではだめなのです。もしではなくて、神の御前に、イエス・キリストを救い主と信じ、このお方の教えに従って生きる決断が、全ての人に求められているのです。

 群衆が今の時代を見分けられない理由、それは神の御前に正しさを追求しない思考停止の状態にあります。現代においては、もっと深刻かも知れません。神の存在自体がもはや真剣に追求されることがなくなりつつあります。もっと分かりやすい例をあげれば、人間は死んだ後にどうなるのかということさえ、真剣に追求されずに思考停止の状態に陥っているのではないでしょうか。そして思考停止の状態は、ついには口に出すこと禁じるタブーとなっていくのです。けれども、ここでは死んだ後のことを真剣に考えて見たいと思います。まず、死んだら生まれ変わるという輪廻転生という考え方があります。しかし、輪廻転生は、世界の急激な人口増加を説明することができません。1950年の世界人口はおそよ25億人でありました。しかし、現代の世界人口は63億人と言われています。もし、死んだものが生まれ変わるのであれば、人口は常に一定のはずであります。また、死んだら無になるという考え方もありますが、これは生きていること自体の意味を否定する空しい考え方で、到底受け入れることができません。もし、この考えを真剣に受け入れている人がいるならば、その人はもはやこの地上とおさらばしているはずではないでしょか。また、死んだ人は皆、天国にいって、楽しく過ごすという考え方があります。これは、特定の宗教をもっていない人にも共有されている考え方であると思います。しかし、真剣に考えてみましょう。もし、だれもが天国に入るならば、もはやそこは天国と呼ぶことはできないと思います。罪を罪とも思わない凶悪犯罪者、悪い人たちがそこにいるならば、この地上と何も変わらないではありませんか。そもそも、天国の概念自体があいまいです。この地上の状態がただ無制限に続くのであれば、それはむしろ地獄と呼べるかもしれません。しかも、このような考えを権威を持って教え、裏付ける証拠、文献はどこにもないのです。それなのに、このような死後の世界観が出回っているのは、そのように考えておけば、この地上に生きている自分たちに都合がよいからに他なりません。死んだら、みんな天国に行く。そう言っていれば丸くおさまるからです。そしてそれは、この地上の生活しか考えていないことの当然の帰結と言えるのです。

 しかし、私たちは、死後の世界について、また神について無関心でいることがゆるされるのでしょうか。神の御前に何が正しいかを考えずに過ごす事がゆるされるのでしょうか。もっと言えば、あなたが神との関係を認めなければ、神とあなたは何の関係もなかったことになるのでしょうか。決してそうではありません。もし、あなたが神を認めなくても、神はおられます。そして、神を認めないあなたを造り、そのあなたの命を支えておられるのは、その神なのです。もし、あなたが「私が死んだら輪廻転生がいい」と言えば、その通りになるのでしょうか。あるいは、「私が死んだら無にしてください」そう願えばその通りになるのでしょうか。正気になって真剣に考えてみてください。そんなことがあるはずはありません。真理は常に一つしかないのです。そしてその真理とは、全世界で信じられ、全歴史を貫いて存在してきた聖書が教える真理だけなのです。

 イエス様は、自分で何が正しいかを判断しない群衆に対して、彼らが今どのような状況にあるのかを教えられます。58節から59節です。

 「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

 イエス様の時代には、ローマ帝国の商業的な影響によって、金貸し業者が発生していました。そして、ローマの法律では、負債者を投獄することもあったと言われています。ここでの「あなた」は莫大な負債を抱え、返済できないので、金貸しに訴えられ、裁判官のもとに連れて行かれようとしています。つまり、今の時代の人々は、莫大な負債を抱えて、裁判所に連れて行かれるような危機的状況にあるのです。一度、裁判が始まってしまえば、勝つ見込みはなく、牢に投げ込まれることは分かりきっています。この1レプトンは、ギリシャ貨幣の最少単位を表しますから、日本で言えば1円と言えるかと思います。つまり、最後の1円を返すまで、決してそこからでることはできないのです。牢に投げ込まれている者がお金を稼ぐことはできませんから、ここで強調されていることは、決してそこから出られないという厳粛な事実なのです。いざ裁判が始まってしまえば、取り消されることのない永遠の判決が降されてしまうのです。

 そのような危機的な状況を前にして、私たちはどうすべきでしょうか。イエス様が仰る通り、必死になって、途中でその人と和解すべきなのです。世界の歴史は確実に、総決算である最後の審判へと向かっています。私たちの人生という歴史においても同じことが言えます。私たちは必ず最後には、神の裁きの座の前に立なければならないのです。その裁きの座に、誰が自信を持って立ちうるのでしょうか。心の深みさえも見極められる神の御前に、私はあなたに負い目はありません。御前に罪を犯したことはありませんと誰が言えるでしょうか。そんな人は一人もおりません。神の御前に罪のない人、正しい人は誰もいない。誰も彼も、牢に閉じ込められることを免れることができない。だから、私たちは何としても、神と和解すべきなのです。神に罪を赦していただき、神との平和を、今この地上で、確立すべきなのです。神は、その和解の道としてイエス・キリストをこの地上に遣わしてくださいました。私は先程、神の御前に罪を犯さなかった人は誰もいないと申しましたが、このイエス・キリストだけは例外であります。救い主としてお生まれになった人となられた神、イエス・キリストは神の御前に何一つ罪を犯すことがありませんでした。それゆえ、イエス様はすべての人の罪を担って、刑罰としての死を十字架の上で死んでくださったのです。神と和解する道は、ただイエス・キリストを信じることしかありません。イエス・キリストを神の御子、救い主と信じる時、私たちの莫大な負債は帳消しにされ、罪の支配から解き放たれるのです。

 イエス・キリストを信じる私たちは、イエス・キリストにあって神と和解し、すでに罪赦され、神との平和を与えられております。そして、この和解の言葉を、神は私たち教会に委ねられているのです。この和解の言葉を受け入れる時、その人の上に「今日こそ救いの日、今こそ恵みの時」という御言葉が実現するのです。正気になって、真剣になって、神の御前に何が正しいのかを自分で判断していただきたいと願います。そして、三位一体の神が、あなたと和解するために、どれほどの犠牲を払われたのかを知っていただきたいと思います。今ならまだ間に合うのです。イエス・キリストを信じて、神と和解させていただきなさい。そして、神があなたをどれほど愛しておられるかを知りなさい。

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