狭い戸口から入れ 2005年5月01日(日曜 朝の礼拝)

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狭い戸口から入れ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 13章22節~30節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:22 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。
13:23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。
13:24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
13:25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。
13:26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。
13:27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
13:28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。
13:29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
13:30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」ルカによる福音書 13章22節~30節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、ルカによる福音書13章22節から30節より、「狭い戸口から入れ」という題でお話しをいたします。

 イエス様は、ある人の質問をきっかけとして話し始められます。それは、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という質問でありました。この質問は、深刻な問いのように聞こえますが、実は無意味な問いであると言えます。もし、イエス様が多いと答えたら、どうするのか。あるいは、少ないと答えたら、どうするのか。それが分かったところで何の意味があるのか。そもそも、この人は、人々が救われるために、苦労をする覚悟があるのか。その覚悟もなしに、多いか、少ないかを知って一体何になるのでしょうか。もしかしたら、この人はイエス様が宣べ伝える神の国が受け入れられない様子を目の当たりにしてこう尋ねたのかも知れません。イエス様が宣べ伝える神の国を誰も受け入れようとしない。その有様を見て、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねたのかも知れません。しかし、イエス様はこの問いを一体どのような気持ちでお聞きになったのか。イエス様は、町や村を巡って教えながらエルサレムへと向かって進んでおられました。イエス様は御自分の民を救うために、エルサレムで苦難の死を遂げようとしておられたのです。そのイエス様の傍らに立って、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねる者の無神経さはいかばかりかと思うのです。

 イエス様は、神の国を家にたとえ、その家に入るには狭い戸口からしか入ることができないと教えられます。そして、イエス様は、やがてその戸口が主人によって閉められてしまうことを教えられるのです。「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」。このイエス様の言葉は未来形で記されています。つまり、戸口が閉められてから、後になって入ろうとしても入ることができない、とイエス様は教えられたのです。すなわち、神の国にも入国期限があるということであります。それでは、その入国期限とはいつか。それは、イエス・キリストが再び天から来られる日、あるいは、私たちの方から、主の御許に召される日であります。それまでに、狭い戸口から神の国に入らなければ、もうどのようにしても神の国に入ることはできないのです。つまり、ここでイエス様が教えておられることは、生きている今、神の国に入らないのであれば、死んだ後に、神の国に入ることはできないということなのです。

 先程、質問をした人は、「主よ、わたしは救われているでしょうか」とは問わずに、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と問いました。つまり、この人は知らず知らずの内に、自分が救われていることを前提に質問しているのです。自分が救われているという自負心は、イエス様を「主よ」と呼んでいることからも伺い知ることができます。この人もイエス様を取り囲む一同の中にいたのでしょうから、自分が救われるに違いないと思っていたのは、ある意味当然と言えます。けれども、イエス様のお話しには、この人に対する皮肉とも言える警告が含まれているのです。外に立って戸を叩く人々が『ご主人様、開けてください』と申しますが、ここで「ご主人様」と訳されている言葉は、23節の「主よ」と訳されている言葉と同じなのです。イエス様に質問した人の言葉も、そして家に入れてもらえない人々の言葉も同じ「主よ」という言葉なのであります。この事は一体何を意味しているのでしょう。それは、イエス様を「主」と呼んでいても、イエス様を信じる信仰に生きていないのであれば、救いの保証とはならないということであります。それどころか、たとえ一緒に食べたり飲んだりしても、また、広場で教えを受けたことがあったとしても、イエス様を信じる信仰に生きていないのであれば、神の国に入ることはできないのです。このことは、私たちに大変厳粛な思いを起こさせるのではないでしょうか。たとえ、かつて礼拝に出席したことがあったとしても、今、狭い戸口であるイエス・キリストを通して神を礼拝する者でないならば、神の国に入ることはできないのです。

 こう聞きますと、今、礼拝に集っている私たちは、途端に今朝の御言葉から興味を失うかも知れません。けれども、果たして狭い戸口から入るということは、一度限りのことなのでしょうか。その一度のことをイエス様はここで命じられているのでしょうか。私はそうではないと思います。なぜなら、イエス様ここで「狭い戸口から入るように努めなさい」と仰せになられたからです。いわば、イエス様は私たちが生涯に渡って、狭い戸口から入るように努め続けるよう、命じられるのです。

 ここで「努める」と訳されている言葉は、「闘う」とも訳される言葉です。使徒パウロがテモテに対して「信仰の闘いを立派に闘い抜き、永遠の命を手に入れなさい」と命じていますが、ここで「戦い抜き」と訳されている言葉は、「努める」と訳されている言葉と同じであります。ですから、イエス様はここで、「狭い戸口から入るように闘いなさい」と命じられているのです。入ろうと努めなければ入ることができない。罪の誘惑と戦わなければ入ることができない。そこに神の国に入る戸口の狭さがあるのです。それは、イエス・キリストを救い主と信じることの狭さであるとも言えます。そして、イエス様を信じるということは、決して一度限りのことではありません。かつて信じていたが、今は信じていないというものではないのです。私たちは毎日イエス様を信じなければならないのです。言うなれば、毎日狭い戸口から入ろうと努め続けなければならないのです。イエス・キリストを信じ続けることは、教会の礼拝に連なり続けることでもあります。主の日ごとに礼拝を献げる。そこにどれほどの信仰の闘いがあることか。ここにも、狭い戸口から入るための一つの闘いを見ることができるのです。

 イエス様は今、イスラエルの民に対して語っておられます。イスラエルとは、神が選ばれた民、神の契約の民です。彼らは当然、自分たちこそ、神の国を受け継ぐ民であると考えておりました。けれども、イエス様はここで、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、あなた方は外に投げ出されると仰せになるのです。さらには、異邦人が、神の国で宴会の席に着き、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある、とお語りになるのです。このイエス様の言葉は未来についての預言というよりも、やはり警告として読むべきであります。つまり、イエス様は、イスラエルの民であるという選民意識は神の国に入る何の保証にもならないことを教えられたのです。神の国に入るには、狭い戸口であるイエス・キリストを通らなければならないのです。そこにはもはや、ユダヤ人と異邦人の区別はありません。使徒ペトロが語っている通り「私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。

 イエス・キリストを信じなければ救われない。そう聞くと、ある人は、それなら死んだ後にイエス様を信じればよいのではないかと考えるかも知れません。しかし、今朝の御言葉はその可能性がないことを教えています。そして、何よりイエス様ご自身がそのことをご存じであられたのです。自分を通らなければ誰も神の国に入ることはできない。そのことをご存じであるがゆえに、真剣なのであります。「あなたがたは神の国に入れてもらえず、泣きわめいたり、歯ぎしりする」。そう言われれば、だれも面白くありません。しかし、イエス様はあえてそのようなことを仰せになるのです。なぜですか。それは、彼らにそのようになってほしくないからです。わたしの言葉を聞く、すべての人にわたしを信じ、神の国に入ってもらいたい、そう願っているからであります。

 最後に27節の御言葉について学んで終わりたいと思います。「お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ」。

 ここでの「不義を行う者ども」とは、その人が他の人と比べて道徳的に悪いものであったというよりも、神との関係において捉えられています。つまり、すべての人に神の義をもたらすイエス・キリストを信じていないゆえに、不義を行う者と見なされるのです。そして、それは神の熱心な招きにも関わらず、狭い戸口から入ろうとしない怠惰な罪とも言えるのです。神の御前に義とされるか、あるいは不義とされるかの分岐点は、イエス・キリストを信じるか否かにあります。イエス・キリストを信じるのであれば、どんな罪をも赦され、神の国に入ることができます。しかし、イエス・キリストを信じないのであれば、たとえ善良な市民であっても、神の御前には、神の国と関わりのない、不義な者たちと見なされるのです。

 ある人は、イエス・キリストを信じないことが、なぜ不義なのかと問うかも知れません。しかし使徒ヨハネによれば、「神を信じない人は、神の御子についてなさった証を信じていないため、神を偽り者にしてしまって」いるのです。神の言葉である聖書が、イエス・キリストを罪からの救い主であると証ししているのに、それを信じないということは、神を偽り者とすることになるのです。神を偽り者とする人が、どうして神の国に入ることができるでしょう。

 今朝の御言葉を読みますとき、イエス様の厳しい言葉の背後にある、その愛に気づいていただきたいと思います。その主イエスの愛を見失って「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と問うようなことはしたくないと思います。イエス様は全て者の救いを望んでおられる。そのためにイエス様は命を捨て、三日目に復活なされた。このことを知っていれば私たちには十分ではないでしょうか。イエス様は狭い戸口から入るように努めなさい、と仰せになりました。しかし、この狭い扉を開くために誰よりも努力したのはイエス様ご自身であることを覚えたいと思います。イエス様は、この扉を開くために、日々、父なる神の御心に従うように努め、日々、悪魔の誘惑と戦い続けられたのです。その主イエスの御姿に倣う私たちでありたいと願います。

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