神の国の成長 2005年4月24日(日曜 朝の礼拝)

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神の国の成長

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 13章18節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:18 そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。
13:19 それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」
13:20 また言われた。「神の国を何にたとえようか。
13:21 パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」ルカによる福音書 13章18節~21節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、ルカによる福音書13章18節から21節より、「神の国の成長」という題でお話しをいたします。

 イエス様は、神の国をからし種に譬えられました。神の国とは、正確に言えば、神の王国であり、神の王的支配のことです。神の国とは、一定の場所や領土のことを指すのではありません。神の恵みの支配が及ぶ領域、そこが神の国なのです。では、神の国とからし種のどこが似ているのでしょうか。それは、初めは小さくとも、結末は目を見張るほどに大きく成長するということであります。人がからし種を取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作るのです。からしの木は3メートルから4メートルの高さになると言われています。どんな種より小さいからし種が、地に蒔かれると、どんな野菜よりも大きく成長するのです。

 先週、私たちはイエス様が腰の曲がったままの婦人を癒すというお話しを読みました。福音書において、病の癒しは、神の国が到来していることの目に見えるしるしであります。しかし、それはイエス様の時代の人々が神の国に期待していたことに比べれば、小さなことでありました。福音書には、人々がイエス様にさらなるしるしを求めたということが記されています。今もユダヤ教の人々は、神の国をもたらしてくださるメシアを待ち続けています。旧約聖書の預言するメシアは、イエス・キリストであり、神の国はイエス・キリストにおいてすでに到来したのでありますけども、ユダヤ教の人々はそれを受け入れないのです。なぜ、彼らは、神の国が来たことを受け入れないのか。もし、そう問うならば、彼らは逆にこう尋ねてくるかも知れません。もし神の国が来たのであれば、なぜ今も病や死があるのか。もし神の国が来たのであれば、なぜ今も戦争や悲惨があるのか。このように問われれば、逆に私たちの方が困ってしまうかもしれません。けれども、イエス様は、神の国が、からし種のようなものであると仰せになるのです。イエス・キリストにおいて到来した神の国は、初めから空の鳥が巣を作れるような木として到来したのではありません。神の国は、小さな、からし種が庭に蒔かれるような仕方で到来したのです。

 「成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る」。こう聞きますと、旧約聖書に親しんでいたイスラエルの人々は、エゼキエル書やダニエル書の御言葉を思い浮かべたと思います。旧約聖書において、「鳥が巣をつくる大木」は、諸国が保護を求める大帝国の象徴として用いられてきたからです。エゼキエル書の31章では、エジプトの偉大さが次のように譬えられています。旧約聖書の1345頁です。エゼキエル書の31章2節から6節をお読みいたします。

 「人の子よ、エジプトの王ファラオとその軍勢に向かって言いなさい。お前の偉大さは誰と比べられよう。見よ、あなたは糸杉、レバノンの杉だ。その枝は美しく、豊かな陰をつくり/丈は高く、梢は雲間にとどいた。水がそれを育て、淵がそれを大きくした。淵から流れる川は杉の周りを潤し/水路は野のすべての木に水を送った。その丈は野のすべての木より高くなり/豊に注ぐ水のゆえに/大枝は茂り、若枝は伸びた。大枝には空のすべての鳥が巣を作り/若枝の下では野のすべての獣が子を産み/多くの国民が皆、その木陰に住んだ。」。

 またダニエル書の4章では、バビロンの王ネブカドネツァルが、大きな木の夢を見たことが記されています。ダニエルは、その夢を次のように解釈しております。旧約聖書1387頁、ダニエル書の4章16節から19節までをお読みいたします。

 しかし、ベルテシャツァルと呼ばれるダニエルは驚いた様子で、しばらくの間思い悩んでいた。王は彼に、「ベルテシャツァル、この夢とその解釈を恐れずに言うがよい」と言った。彼は答えた。「王様、この夢があなたの敵に、その解釈があなたを憎む者にふりかかりますように。御覧になったその木、すなわち、成長してたくましくなり、天に届くほどの高さになり、地の果てからも見え、葉は美しく茂り、実は豊かに実ってすべてを養うに足り、その木陰に野の獣は宿り、その枝に空の鳥は巣を作る、その木はあなたご自身です。あなたは成長してたくましくなり、あなたの威力は大きくなって天にも届くほどになり、あなたの支配は地の果てにまで及んでいます」。

 ルカによる福音書に戻ります。新約聖書の135頁です。

 このように、エジプトもバビロンも、天にまで届くほどの大木に譬えられました。しかし、イエス様が教える神の国は、3メートルから4メートルほどの高さしかない、からしの木なのです。このイエス様の譬えを聞いて、おそらくがっかりした人もいたと思います。エジプトやバビロンが天に届くほどの大木に譬えられるならば、神の国は更に勝ったものに譬えられるべきである、そう思った人もいたと思います。しかし、イエス様の譬えは、ここでも民衆の生活に根ざした日常的なものでありました。イエス様は、神の国を見たこともない、また存在しないような大きな木に、譬えられたのではありません。自分たちの庭にある、誰もがよく知っているからしの木に神の国を譬えられたのです。庭に植えられているからしの木を見るごとに、神の国の成長の確かさを思うことができる。それほどまでに、神の恵みの支配は私たちの日常の生活を取り囲んでいるのです。

 イエス様が教える神の国のイメージは、天まで届くほどの大木がただ一本立っているというものではありません。イエス様が教える神の国のイメージは、それほど高くなくとも、鳥が巣を作れるほどの木が至るところに立っている、そのようなイメージであります。先程、わたしは、「神の国とは一定の場所や領土のことではなく、神の恵みの支配が及ぶ領域である」と申しました。そうであるならば、この地上において神の国が最も端的に現れるのは、教会の礼拝においてであります。教会こそ神の国の中心的な現れであり、確かに神の国が到来していることのしるしなのです。ですから、このイエス様の言葉を「教会はからし種のようなものである」と言い換えてもよいと思います。開拓伝道を始めるということは、その地にからし種を植えるようなものであります。そして、それを神が成長させてくださり、鳥はその枝に巣を作り憩うことができるのです。私たちの教会は今年、伝道開始25周年を迎えております。ご存じ通り、私たちの教会は、信徒2家族が牧師家族を招いて始めたというユニークな歴史をもっております。その3家族が、羽生の地にからし種を蒔いたのです。そして、神は今、私たちの教会に、このような立派な会堂を備えてくださり、多くの兄弟姉妹が集うまでに成長させてくださったのです。教会がからしの木であるならば、私たち一人一人はその枝に巣を作り、憩う鳥であると言えます。ただ、わずかの間、枝にとまらせてもらって休むのではありません。「巣をつくる」とありますように、そこに留まって、自分の生活の一部となるまでに憩うのです。

 また、イエス様は神の国をパン種に譬えられました。パン種とは、今で言えばイースト菌のことです。パン種は、少量であっても、パン全体を膨らませる発酵力を持っています。イエス様において到来した神の国は、このパン種のようなものなのです。神の国は、イエス・キリストにおいて目立たず隠れた仕方で到来しました。しかし、それはやがて全世界へと影響を及ぼすようになるのです。世界の歴史を見れば、キリスト教がいかに大きな影響を及ぼし、この歴史を導いて来たかが分かります。ここでもイエス様の御言葉を「教会はパン種のようなものである」と言い換えることができます。この町に教会があるということは、やがてこの町全体に大きな感化をもたらすのです。たとえ、今、教会に関心を示す人がわずかであったとしても、やがて、「この町に教会があって本当に良かった」と言ってもらえる日が来るのです。教会に行けば、神の言葉を聞くことができる。真の神を礼拝することができる。そのことがどれだけ人々の心を支えることでありましょう。教会の存在は、多くの粉に混ぜられ、目立たないものであったとしても、人々にやがて大きな感化を及ぼすことになるのです。

 また、家庭や学校や職場で、自分だけがキリスト者であるという人も「パン種のようなものである」と言えます。神の国が、神の恵みの支配の及ぶ領域であるならば、それは何も教会だけに限定されるものではありません。私たちが主に仕えるように人々に仕え、福音に従って歩む時、私たちのそれぞれに置かれているその場所が神の国となるのです。家庭や学校や職場も、神の国であると言うことができるのです。今、自分だけがクリスチャンであったとしても、神の恵みの支配は、やがてその一人を通してそこに集う全ての人々へと広がってゆくのです。

 イエス様は、神の国をからし種やパン種に譬えて教えられました。イエス様は、御自分の働きの小ささ、その限界を知っておられたました。しかし同時に、イエス様は、御自分の働きが後に大きな成長を遂げることをもご存じであったのです。神の国が必ず成長することを確信するがゆえに、イエス様はエルサレムへと進まれるのです。なぜ、神の国は、からし種のように小さく、パン種のように隠れた仕方で到来したのか。それは、神の御子であられるイエス・キリストが、小さな者として、隠れた仕方でこの地上に来られたからです。神が人となられるということは、そういうことです。けれども、そのイエス様がやがて栄光の主として天から来てくださる。その時こそ、病も死も労苦もない神の国が実現するのです。神の国の完成を待ち望みつつ、日々、主の御前に成長してゆきたいと願います。

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