火を投ずるために 2005年3月13日(日曜 朝の礼拝)

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火を投ずるために

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 12章49節~53節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:49 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
12:50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。
12:51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
12:52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
12:53 父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」ルカによる福音書 12章49節~53節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様が、この地上に来られた目的、それは火を投ずることでありました。いわば、イエス様は放火魔としてこの地上に来られたのです。けれども、その火は燃え広がらず、くすぶっている。そして、イエス様の願いは、その火が燃えて、炎となることなのです。この世界がイエス様が投じた火によって、燃え上がること、それがイエス様の願いでありました。それでは、この「火」とは一体何でしょうか。聖書において、火は浄化と裁きの象徴として用いられてきました。金は火によって精錬されその純度を増します。そして、多くの不信仰な者たちが天からの火によって滅ぼされてきたのです。ここでも、「火」は浄化と裁きの象徴なのでしょうか。あるいは、こうも言えるかも知れません。火は信仰者にとっては浄化、きよめであり、不信仰者にとっては裁きであると。しかし、果たしてイエス様はそのことを望まれたのでしょうか。私には、どうもそのようには思えないのです。むしろ、イエス様の意識にあるものは、その裁きを自ら受けなければならないということでありました。それでは、この「火」とは一体何なのか。私はこのところをもっと素直に読んだら良いと思います。つまり、この火とは、私たちの心に沸き起こる情熱であり、熱き思いを指しているのです。イエス様の願いは、炎によって、家や木が燃やされることではなく、私たちの心に炎がともり、それが熱情としてほとばしることなのです。そして、イエス様の願いを重ねて考えるならば、この燃える思いとは、神の国への思いなのです。つまり、イエス様は何よりも神の国を求めるその熱き思いを投げ込むために、この地上に来られたのです。しかし、このイエス様の願いは、そのようになっていないということを前提としています。炎が燃えていない、その現実を前にしてイエス様は炎が燃えていたらと願っているのです。人々の関心は、神の国よりも何を食べようか何を飲もうかという日常の生活へと向けられていました。その現実を前にして、イエス様は神の国を求める熱情を求められるのです。

 しかし、この神の国を完成させるために、イエス様には一つの使命がありました。それは、父から与えられた使命であり、ここではバプテスマと呼ばれています。バプテスマの元々の意味は、「水に浸す」という意味です。水面にドボンと沈み、そこから立ち上がることによって、死と蘇りを象徴的に表す、それがバプテスマでありました。洗礼者ヨハネは、このバプテスマを悔い改めと結びつけ、イエス様は御自分の苦難の死と結びつけるのです。「わたしには受けねばならないバプテスマがある」。火を燃えたたせるために、まずイエス様自らが苦難の死を遂げなければならない。ここに、救い主であるメシアが、ひっそりと隠れた仕方で来られた理由があるのです。救い主である人の子は、栄光の人の子としてではなく、まず、苦難の僕の人の子として来なくてはなりませんでした。それは多くの人の罪を自ら担い、御自分の民を神の御前に正しい者として立たせるためであったのです。ここに神の御子が貧しい姿でお生まれになり、苦難の道を歩まれる理由があるのです。

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。このイエス様の御声に誰もが耳を傾けたわけではありません。誰もがイエス様に従ったわけではないのです。それを見て、イエス様は落胆される。「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていたことか」と落胆されるのです。けれども、同時にそこで、いよいよ決意を固くされるのです。神の国を求めようとしない人々のために、自分が苦しまなければならないことを。イエス様は、自分を愛する者たちのためだけに苦しまれたのではありません。自分を憎む者たちのためにも苦しまれたのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」。この十字架の言葉は、イエス様が御自分を憎む者のために苦しまれたことを雄弁に物語っています。

 さて、私たちはどうでしょうか。このイエス様の思いを自分と重ねることができるでしょうか。私たちの願い、それは一人でも多くの方に、イエス・キリストを通して、まことの神を知っていただきたいということです。けれども、その炎はどうか。燃えているどころか、消えかかっているのではないか。それを見て私たちはどう思うのでしょう。教会に来ようとしない人を、分からず屋めと非難するのか。あるいは、日本という土壌や、今という時代のせいにするのか。もし、そうだとしてもそこで終わってはならないと思います。教会に関心を示そうとしない人々、神様の恩恵を受けながら、全く感謝を献げない人々のために、私たちは苦難をいよいよ決意しなければならないのです。もし、私たちが教会の成長を願うならば、その第一の目的は、福音宣教の苦難を負うためなのです。福音宣教のために苦難を受ける。そのために、私たちは教会の成長を願うのです。もちろん、私たちの苦難が誰かの罪を贖うわけではありません。けれども、私たちは福音宣教の苦難をキリストに代わって、今負うていることを忘れてはならないのです。私たちには、福音のために苦しむことをも恵みとして与えられているのです。

 旧約聖書によれば、来るべきメシアは、平和の君として預言されておりました。けれども、イエス様はむしろ分裂をもたらすために来たと仰せになります。そして、その分裂は、家族という最も親密な関係にも入り込んでくるのです。つまり、ここで教えられていることは、イエス・キリストによってもたらされる救いは、血縁によって規定されるものではなく、神の一方的な選びに根拠を持つということです。よって、同じ家族であったとしても、そこにイエス様を信じる者と信じない者とが出て来るのです。イエス様は先程、地上に火を投ずるために来たと言われましたが、ここでは、分裂をもたらすために来たと言われます。そして、イエス様が投げ込まれた火と家族の分裂は密接に結びついているのです。なぜなら、神の国を求める熱心は、この世の最も強いとされる家族の絆よりも強いものであるからです。イエス様ご自身も、家族のもとを離れ、神を父と呼び、神の御心に従い抜かれました。それは、この地上だけの家族よりも、永遠に続く神の家族の絆を大切にされたからです。

 教会は、イエス様が投じられた火を聖霊と結びつけて解釈してきました。使徒言行録の2章を見れば、聖霊が、炎のような舌として描かれています。聖霊が降る時、神を父と呼ぶ、神の子としての生涯が始まるのです。その時、地上の家族との不和や争いが起こる。けれども、私たちは、何より神を父とする神の家族の一員とされたことに、思いを向けなければならないのです。もちろん、私たちはそこで、イエス様を信じない家族を突き放すのではありません。聖書は、信者と未信者が夫婦関係にある時、信者の方から離縁してはならないと教えています。また、信者と未信者との子であっても、その子を聖なる者と呼んでいます。いや、もっと積極的に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と教えているのです。この分裂が起こる時、私たちはこの地上の関係を優先せずに、父なる神との関係、神の子とされた恵みを第一に確保しなければなりません。しかし同時に、私たちは地上の家族に対して重荷を負うべきなのです。それは、ちょうどイエス様が不信仰な私たちのために、十字架の道を歩まれるのと同じです。親しい者からの嘲りほど堪えがたいものはありません。けれども、それをあえて引き受け、家族の救いを祈りつつ生きるところに、キリスト者である私たちの生きる道があるのです。事なかれ主義の見せかけの平和ではなくて、父と子が、子と父が、母と娘が、娘と母が本当に心を通わせ、心を一つにできる神の平和が来ることを信じつつ、キリストのものとして生きるのです。分裂を越えたところに真の平和があります。その神の平和を求めて私たちは生きるのです。

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