解放の日 2005年4月17日(日曜 朝の礼拝)

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解放の日

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 13章10節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:10 安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。
13:11 そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。
13:12 イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、
13:13 その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。
13:14 ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」
13:15 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。
13:16 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」
13:17 こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。ルカによる福音書 13章10節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、ルカによる福音書13章10節から17節より「解放の日」という題でお話しをいたします。

 安息日に、イエス様はある会堂で教えておられました。そこに、18年間も病の霊に取りつかれている女がいたと記されています。彼女は腰が曲がったままでどうしても伸ばすことができませんでした。私は今、講壇からお話しをしていますが、ここからだと皆さんのお顔がよく見えます。イエス様も同じであったと思いますね。お話しをするとき、前に立って、会衆と向かい合う。その時、その会堂に集う一人一人の姿、その様子がよく見えたと思います。そのイエス様の目に腰が曲がったままの女性の姿が飛び込んできたのです。私は、この説教を準備する前、この女性をおばあさんだと思っていました。しかし、実はそうではないようであります。「病の霊に取りつかれて」とありますように、年齢を重ねて腰が曲がってしまったというわけではないのです。30代、あるいは40代のご婦人であったかも分かりません。

 先週、私たちは、イエス様の時代の人々が災難に遭った人々をどう考えていたかを教えられました。彼らは、その災難に遭った人々が他の人々よりも罪深い者であったと考えていたのです。そして、それは病についても、同じでありました。病や障害の原因をその人の罪に帰する、そのような社会で、この婦人は18年もの間、礼拝を守り続けて来たのです。この腰の曲がったままの婦人が、どのような気持ちで礼拝を守り続けてきたのか。そのことを私たちはよく想い巡らしたいと思います。

 イエス様はその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と仰せになりました。このイエス様の言葉を、元の言葉から直訳するとこうなります。「婦人よ、あなたは病から解かれました」。ここでは、「治った」というよりも、「解かれた」「解放された」という言葉が用いられています。そして、この「解かれた」「解放された」という言葉は、15節以下のイエス様の言葉へとつながっていくわけです。

 イエス様が「婦人よ、あなたは病から解かれました」といい、その上に手を置くと、女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美いたしました。私は時々不思議に思うのですが、彼女はイエス様にお礼を言うよりも、まず神を賛美いたしました。いや、自分が癒されたことを知った瞬間、彼女の口に神への賛美がほとばしったというべきでありましょう。なぜ、この女性は、癒しと共に、神を賛美することができたのか。それは、この女性が18年という長い間、病が癒されることを、ひたすら祈り続けてきたからであります。その祈りをイエス様が今、主として聞き上げてくださったのです。 

 ところが、会堂長は、イエス様が安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆にこう言いました。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」

 礼拝を共にする婦人の病が癒された。そこで起こるべきは、当然、喜びでありましょう。しかし、実際、会堂長の内に沸き起こったものは激しい憤りでありました。それは、その日があらゆる労働を禁じる安息日であったからです。会堂長は、イエス様の癒しを、医療行為という労働と見なし、安息日に禁じられている労働が、礼拝の最中に行われたことに腹を立てたのです。

 ここで注目すべきは会堂長は直接イエス様に言ったのではなくて、群衆に対して言ったということです。イエス様を直接非難することをはばかって、間接的にイエス様を非難したと言えます。また、イエス様の癒しを見て、群衆たちも病人たちを連れてくるかも知れないと心配したのかも知れません。事実、元の言葉をみますと、「あなたがたは、その間に来て治してもらうがよい」と記されています。また、会堂長として、律法をきちんと守るように教える義務がある、その自負心から、群衆に対して語ったのかも知れません。

 イエス様の奇跡が、労働に当たるかどうかは別として、働くべき日は六日ある。何も安息日に癒さなくとも、他の日でもいいではないか。こう言われれば、確かにそうかなぁと思えます。けれども、主は彼に答えてこう仰せになるのです。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」

 イエス様は、反対者たちを偽善者と呼ばれました。そして、彼らの論理の一貫性のなさを、牛やろばを引き合いにだして、あばかれたのです。出エジプト記の23章12節にはこう記されています。「あなたは6日の間、あなたの仕事を行い、7日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」。安息日は、人間ばかりでなく、牛やロバが元気を回復する日でもあったのです。ですから、安息日は働いてはならないと言う人も、自分の牛やロバを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引いていったのであります。それなのに、わたしがアブラハムの娘であるこの女を、サタンの束縛から解いては、なぜいけないのか。そうイエス様は仰せになるのです。新共同訳聖書は「安息日であっても」と訳していますが、全体の流れからすれば、「安息日であるからこそ」と訳すことができます。会堂長が「安息日にすべきではない」と言ったことを、イエス様はここで「安息日にすべきである」と全く反対のことを仰せになったのです。

 イエス様は、この女を「アブラハムの娘」と呼ばれました。それは、彼女も契約の民、神の民の一員であるということであります。人々が病の原因を彼女の罪に帰し、彼女を神から見捨てられた者と考えていたとしても、イエス様はこの女性を「アブラハムの娘」としてご覧になっているのです。そのアブラハムの娘がサタンの束縛によって苦しんでいるのを目のあたりにしながら、「明日来ればいいじゃないか」と言うことができるでしょうか。ある人は、この所について次のように申します。「安息日には、命に関わる場合は労働が赦されていた。そして、家畜に水をあげるのは、この命に関わる労働であるから赦される。家畜は水をやらなければ死んでしまう。しかし、この女は18年もの間、病の霊に取りつかれていたのだから、急ぐ必要はなかったはずだと」。確かにそうでありましょう。しかし、ここで何かがおかしいのです。論理的には間違っていないのかもしれません。しかし、何かがおかしいのです。はっきり申します。この論理には、この婦人への愛がないのです。18年もの間病の内にあったのだから、後1日、2日伸びてもいいだろう。確かに理屈を言えばそう言えるでしょう。けれども、イエス様のお考えは全く逆なのです。この女は、18年もの間縛られていた。だからこそ、一刻も早くその束縛から解いてやるべきなのです。そして、サタンの束縛から解放されることこそ、安息日にふさわしいと、イエス様は教えられたのであります。

 そもそも、この会堂長は、この婦人のために一度でも祈ったことがあったのでしょうか。この婦人の病が癒されるようにと主に執り成しの祈りを献げたことがあったのでしょうか。おそらく、なかったのではないか、と思います。彼女の癒しのために、主に祈ったことがなかった。だからこそ、会堂長は、この婦人が癒された時、主に賛美を献げることができなかったのです。この婦人への愛は、とりなしの祈りというかたちで表されるべきであったのに、それがなされていなかったのです。そのような状態で、神に喜ばれる礼拝を献げることができるのか。共に会堂に集う兄弟姉妹に心を配らずして、安息日を守ったことになるのか。イエス様がここで責められる偽善とはそのことなのです。

 私は先程、この会堂長が、この婦人のために祈ったことがあったかと申しました。しかし、それはわたし自身においても言えることであります。私も今、教会に住み、会堂管理人のような働きをしておりますけども、やはり同じことを神様から問われていると感じました。皆さんの身になって、皆さんのために祈っているか、このことを改めて問われたのであります。ある牧師先生がいつかこう教えてくださいました。「牧師はいつも机の上に会員名簿を置いておくべきである。」。それは、毎日、会員一人一人の名前を口に出して祈るためであります。恥を忍んで申しますけども、私の祈りの姿勢はそこまで徹底されたものではありませんでした。私自身、悔い改めて、牧師として、皆さん一人一人のために祈っていきたいと思います。私は、時々不安になるのです。それは、皆さんを本当に愛することができるであろうか、ということであります。週に一回、少しの時間を共にするだけで、果たして主イエスが求められるように、信徒一人一人を愛することができるであろうか、そう不安になるのです。けれども、今朝の説教の備えをしていく中で、そのような不安も執り成しの祈りによって解消されていくことを教えられたのであります。この会堂長も、この婦人の身になって、執り成しの祈りを献げる者であったなら、彼女と一緒に神を賛美することができたはずであります。いや、会堂長だけではありません。イエス様に反対した者たちも、この婦人のために執り成しの祈りをささげていたとしたら、彼女と一緒に、神をほめたたえることができたはずであります。私たちの互いの距離を執り成しの祈りが埋めてくれる。そして、主イエスは、私たちを祈りにおいて一つとしてくださる。祈りにおいて、兄弟姉妹を愛する愛を与えてくださる。そう信じ、祈り続けていきたいと願います。

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