今、悔い改めの時 2005年4月10日(日曜 朝の礼拝)

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今、悔い改めの時

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 13章1節~9節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。
13:2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。
13:3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
13:4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。
13:5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
13:6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。
13:7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
13:8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
13:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」ルカによる福音書 13章1節~9節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、ルカによる福音書13章1節から9節より、「今、悔い改めの時」という題でお話しいたします。

 12章の54節から13章の9節までは、群衆に対するイエス様の教えであります。ですから、今朝の御言葉は前回の続きと言えるのです。群衆とは、イエス様について判断を決めかねている者たちのことを言います。イエス様の周りに群がっているのでありますが、イエス様に従う決断に至っていない者たち、それが群衆であります。その群衆に対して、イエス様は今がどのような時かを教えられたのです。それは、ちょうど莫大な負債を抱えて、訴えられ裁判所に引いて行かれるような危機的な状況なのです。裁判が始まってしまえば、勝つ見込みはなく、永遠に牢獄に閉じ込められてしまうのであります。そのような来るべき裁きについて話していた「ちょうどそのとき」、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエス様に告げたのです。この「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」という表現は、少し分かりづらいかもしれませんけども、要するに、「ピラトがいけにえを献げているガリラヤ人を襲って殺した」ということです。神を礼拝している最中に殺される。これは衝撃的な知らせではないでしょうか。私たちは、このような知らせを受けますと、すぐにそれを分析しようといたします。例えば、聖書の研究者は、このガリラヤ人がローマ帝国の支配に逆らう熱心党の者たちではなかったかと考えています。ユダヤ人の歴史家であるヨセフスによれば、ガリラヤ人は気性が荒く、反逆的な民であると言われています。また、使徒言行録の5章37節を見ますと「住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こした」とも記されています。

 熱心党とは、父祖の宗教的伝統に堅く立ち、異邦人による支配を潔しとしない国粋主義的な団体でありました。そしてこの熱心党の故郷は、ガリラヤであり、その本拠地もガリラヤであったのです。そのガリラヤ人が、エルサレムに上り、神殿で犠牲を献げていた。その最中に、彼らはピラトによって殺されたのです。このピラトは、ローマ帝国の総督であるポンテオピラトのことであります。ピラトの任務は、ローマの直轄領であるユダヤの平和と秩序を守ることです。そのピラトにとって、反ローマを掲げるガリラヤ人たちは、目障りな存在であったのに違いありません。気性のあらいガリラヤ人たちも、礼拝には武器を持ち込んでいなかったと考えられますから、ピラトはもっとも確実にガリラヤ人を殺害できる時を選んだと言えます。しかし、これは、誰が聞いても明らかに卑劣な行為であります。その卑劣な行為によって、同胞の民が殺された。しかも、異邦人の侵略者の手によって殺されたのです。

 今、申し上げましことは、現代の私たちが好むいわゆる事件の分析であります。私たちは、その動機が何なのか。その背後にある人間関係を理解しようといたします。そして、理解できたと思えば、それで安心して忘れてしまうのです。けれども、この知らせを聴いた人々の思いはもっと別なところにあったようであります。イエス様はここで、「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか」と問うています。このイエス様の言葉は、人々がそのように思っていたことを前提としています。イエス様は、人々の思いを見抜かれてこのように仰せになられたのです。イエス様がここで問題にしているのことは、「他のガリラヤ人たちよりも」とあるように、一人一人のガリラヤ人のことであります。なるほど、そのガリラヤ人は気性が荒かったかもしれません。また、そのガリラヤ人は熱心党に属していたかもしれません。しかし、なぜ、そのガリラヤ人でなければならなかったのか。ここで、何という名前の人が殺されたのかは分かりませんし、何人のガリラヤ人が殺されたのかも分かりません。けれども、ある特定の人々が殺されたのは確かなことです。全てのガリラヤ人が殺されたわけでもなく、あるいは、全ての熱心党員が殺されたわけでもないのです。また、礼拝を献げてた全てのガリラヤ人が殺されたわけでもありません。殺されたのは、ある特定の人々であります。殺された人々と殺されなかった人々。イエス様の言葉で言えば、災難に遭った人々と災難に遭わなかった人々、その違いは一体何なのでしょうか。最近のニュースでは、無差別殺人という物騒な言葉を聞くことがあります。「誰でもいいから殺してやろうと思った」。こういう言葉を聞く、またこういう事件を取り扱う時、その関心は、犯人へと向けられることが多いように思われます。犯人の幼少時代から、人格形成期、そして現在に至るまでを調べ、そこからなぜ、そのように考えるようになったのかを分析するのです。そして、もっともらしい答えが見つかると、やっと安心することができるのです。その時、おそらく、無差別殺人の標的とされてしまった人、命を奪われてしまった人に対しては何も問われることがないと思います。問うてみても分からないからかも知れません。しかし、イエス様の時代の人々は、そう考えませんでした。彼らは、そのガリラヤ人たちが、そのような災難にあったのは、ほかのどのガリラヤ人たちよりも罪深い者であったからに違いない、そう考えたのです。また、当時すでに有名であったであろう、シロアムの塔が倒れて死んだ18人についても同じであります。これは、さきほどのピラトのものとは少し性質が違います。いわば、こちらは事故と言えます。しかし、その事故の被害者も無差別と言えば無差別です。この18人も名前は分かりませんけども、ある特定の個人であります。なぜ、この18人でなければならなかったのか。このシロアムの塔が倒れた事件についても聖書の研究者たちは様々な分析をいたします。例えば、ピラトが神殿の献金で行っていた水道工事と関係があるのではないかと考える人もおります。現代の私たちならば、おそらく、この塔の設計や、強度などを分析して、二度と倒れる事がないようにということで、このニュースの報告を終えるのではないでしょうか。しかし、ここでも、やはり触れられずに残っている問題があります。それは、なぜこの18人なのかという問題です。ユダヤの人々はどう理解したか。彼らは、その18人がほかのエルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも罪深い者であったからであると考えたのです。しかし、イエス様は、こう仰せになります。「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」。

 その災難にあった人を、他の人よりも罪深い者と考える時、人はその災難に遭っていない自分を、正しい者と考えているのです。

「罪深い者が災難に遭う」そう考える時、その災難に遭っていない自分を正しい者としているのです。しかし、イエス様はそのような考えを真っ向から否定されます。むしろ、イエス様はその災難にあった人と私たち自身を同一視することを求められるのです。災難のニュースを聞き、あるいは新聞で読む時、私たちに求められることは、その災難に遭った人々の姿に自分自身を見い出し、悔い改めることなのです

 私たちは、先週、時を見分けるということを教えられました。災難はその今の時を見分ける一つのしるしであると言えます。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。ここでの「滅び」は、この地上での災難による死というよりも、終末の裁きによる永遠の滅びを指しています。たとえ、誰かに命を奪われることなく、事故にも遭わず長寿を全うしたとしても、悔い改めなければ、皆同じように滅びるのです。私たちはこの地上の災難に来たるべき終末の裁きの確かさを見ることができるでしょうか。また、この地上の災難に来たるべき終末の裁きの厳粛さを見ることができるでしょうか。もし、そうでないならば、この地上の災難を、まだ私たちは正しく理解していないのです。近年、世界規模で大きな地震が起こっておりますけども、これについても同じことが言えます。それを分析して、地震対策だけに明け暮れたとしても、もし、その災難に遭った人々の姿に、自分自身を見い出し、悔い改めるのでなければ、その災難を正しく捉え、受け止めたということはできないのです。

 けれども、私たちが災難の知らせを聞き、また目にする時、私たちの心に浮かんでくるのは、むしろ神への不信感かも知れません。特に自然災害の場合には、神へ不信感は一層に強いものとなるかも知れません。しかし、自然災害もその根本的な原因が人間の罪にあることを正しく捉えたいと思います。私がここでいう人間の罪とは、個々人の罪のことを指しているのではありません。始祖アダムに始まり、全人類を覆っている罪の力のことです。創世記の3章を読めば、アダムの堕落のゆえに、土は呪われるものとなり、茨とアザミが生じたことが描かれています。また、ローマ書の8章を読みますと、この被造世界全体が虚無に服していること。被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されることを待ち望んでいることが記されています。ですから、自然災害についても、その根本的な原因は、神ではなく、私たち人間の罪にあるのです。しかしそもそも、なぜこのような神への不信感が出て来るのでしょうか。それは、私たちが神についてこうに考えているからではないでしょうか。神は私たちの人生を平穏無事なものとして保証すべきである。神は私たちの幸福のために仕えるべきである。けれども、このような前提それ自体が間違っているとしたらどうでしょうか。私たちは本来、皆滅ぼされるべき罪人であり、神がその滅びを延期し、忍耐しておられるとしたらどうでしょうか。

 神は私たちの裁きを延期し、忍耐しておられる。このことをイエス様は、6節以下の「実のならないいちじくの木」の譬えで教えておられます。当時、ぶどう園にイチジクの木が植えられることは珍しくありませんでした。イチジクは、ぶどうやオリーブと並ぶパレスチナの代表的な果物です。そして、旧約聖書において、イスラエルはしばしばイチジクに譬えられてきました。ですから、ここでのイチジクはイスラエルを指しているのです。主人はイチジクが実を付けることを期待して3年待ちますが、とうとう切り倒すようにと命じます。実を結ばない以上、それは当然の判断です。しかし園丁が、もう一年待って欲しいと願い出ます。園丁はイチジクのために執り成し、苦労して実りを待ち続けると約束します。もうお気づきだと思いますけども、この園丁はイエス様ご自身のことであります。悔い改めという実を結ばないイスラエルに、イエス様は福音を宣べ伝え、神に立ち帰るようにと教え続けられました。そしてついには、かたくななイスラエルを、また私たちを悔い改めへと導くために、自ら十字架へとおつきになられたのです。自分の罪を忘れた者たちは、イエス様がよほど大きな罪を犯したと思うかもしれません。あるいは、上から目線で、イエス様のことをかわいそうと思うことでしょう。しかし、神の滅びに値する自分の罪を知っている者たちは、その十字架のイエス様に自分自身を見出すのです。裁かれるべき、自分の罪を知る者にとって、イエス・キリストの十字架は、悔い改めへの招きなのであります。罪を犯し、滅ぶべき私たちに代わって、罪のないお方、イエス・キリストが死んでくださった。このことを本当に知った時、人は悔い改めずにおれないのです。イエス・キリストの十字架の光の中で、私たちは、この地上の災難を理解したいと願います。十字架の光の中で、私たちは悔い改めへの招きを聞き続けたいと願います。

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