金持ちとラザロ 2005年8月21日(日曜 朝の礼拝)

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金持ちとラザロ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 16章19節~31節

聖句のアイコン聖書の言葉

16:19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、
16:21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
16:22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
16:23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。
16:24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
16:25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
16:26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
16:27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。
16:28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
16:29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
16:30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
16:31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」ルカによる福音書 16章19節~31節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝のイエス様の譬え話には、対象的な二人の人物が出て参ります。一人は、ある金持ちです。彼はいつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。紫の衣や柔らかい麻布、これらは高級な衣服です。その高級な衣服をいつも身に着けていたのです。また、時々ぜいたくに遊んだのではなくて、毎日ぜいたくに遊び暮らしていたのです。この金持ちは、それほどの富を持っていたのです。

 そして、もう一人は、ラザロです。彼は、できものだらけの貧しい人で、金持ちの門前に横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていました。横たわっていたラザロからは、どうやら金持ちの食卓の様子が見えたようです。当時、裕福な人々は、パンをナプキン代わりに使っていました。ちぎったパンで手を拭き、それをテーブルの下に投げたと言います。それをラザロは遠くから眺めて、そのパンで何とか腹を満たしたいものだと考えていたです。犬もやってきては、そのできものをなめたとあります。私たちが犬と聞きますと、かわいらしい存在と考えがちですが、当時のユダヤの人々にとって犬は、汚らわしい存在でありました。野良犬がよってきてできものをなめていた。その犬を追い払う力すらラザロにはなかったのです。ラザロは、病を負って、もはや生ける屍であったのかも知れません。

 この対象的な二人にも同じように死が訪れます。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれました。そして、金持ちも死んで葬られます。毎日ぜいたくに遊び暮らすほどの金持ちですから、その葬儀もさぞかし豪華なものであったと思います。それに対して、ラザロには「葬られた」という言葉はありません。ラザロは、墓に葬られることもなく、人知れず息を引き取ったのかも知れないのです。

 ここまでがこの地上での歩みです。23節以降は、死後の世界において二人がどうなったかが記されています。金持ちは陰府でさいなわれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。

 ここには、当時の民衆が信じていた死後の世界観がよく現れています。人は死ぬと陰府というところに行く。そこには、燃え尽きることのない釜戸がある地獄と、アブラハムたちが宴会を開いている天国の2つがあると考えられていました。金持ちは、自分が陰府でさいなまれるゲヘナにいることに気づいたのです。そして、目を上げると遥か彼方に、アブラハムの宴席に連なるラザロの姿を見るのです 

 金持ちは、大声で叫びます。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』

 金持ちは、「父アブラハムよ」と呼びかけます。金持ちは、私もイスラエルの民です。アブラハムの子孫です。だから、わたしを憐れんでくださいと願います。そして、更に「ラザロをよこして」と願っています。この金持ちは、自分の門前に横たわっていた貧しい人が「ラザロ」という名前であったことを知っていたのです。知っていながら彼はラザロに憐れみをかけなかった。そして、依然としてラザロをまるで召使いのように考えているのです。自分は炎の中でもだえ苦しんでいる。どうかラザロをよこして、私の舌を水で冷やしてほしいと願うのです。しかし、アブラハムはこう言います。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えてくることもできない。』

 「父アブラハムよ」と呼びかける金持ちに対して、アブラハムは「子よ」と答えます。ここでアブラハムは、この金持ちも自分の子孫であることを認めています。しかし、それだけでは、天国に入ることはできないのです。洗礼者ヨハネが、「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。」と警告したように、アブラハムの子孫であるというだけでは、救われる保証にはならないのです。

 誤解のないように申しますが、ここで教えられていることは、金持ちは地獄に行き、貧しい者は天国に行くということではありません。そもそも、この譬え話は誰に対して語られたのか。それは、14節にあるように、「金に執着するファリサイ派の人々」でありました。イエス様の「神と富とに仕えることはできない」という教えを聞いて、あざ笑ったファリサイ派の人々に対して「金持ちとラザロ」の譬えは語られているのです。前回もお話ししたことでありますが、ファリサイ派の人々は、神と富とに仕えることができると考えておりました。富こそ神の祝福であって、律法を守る者たちにふさわしいものであると考えていたのです。彼らの考えからすれば、いつも紫の衣や柔らかい麻布をまとって毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちは、死後世界において、アブラハムの宴席に連なるはずでした。けれども、イエス様のたとえ話によれば、金持ちは何と炎の中でもだえ苦しむことになるのです。また、ファリサイ派の人々の考え方からすれば、貧しい者や病める者は、神から見捨てられた者たちであり、これらの人々は天国には行くことができずに、炎の中で苦しむはずでありました。しかし、イエス様は、ラザロが天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた、天国へ連れて行かれたと語るのです。イエス様の譬え話は、ファリサイ派の人々の価値観をひっくり返すものです。ファリサイ派の人々は、富は神の祝福であり、よって金持ちは、死後も神の祝福に生きる、天国に入ることができる。それに対して貧しい人は、神から見捨てられた者であり、死後も神から見捨てられた地獄に落とされる。と考えておりました。しかし、イエス様はその状況が逆転することを、地上の豊かな生活が天国を保証するものではないことを教えられるのです。それでは、この二人の死後のあり方を決定したものはなんでしょうか。はじめに、ラザロについて考えてみたいと思います。この人がどのような人であったのかは、ラザロという名前によって示されています。実は、イエス様のたとえ話で実名が出てくるのは「ラザロ」という名前だけなのです。なぜ、イエス様は「ある貧しい人」とはせずに、貧しい人にラザロという名前を付けられたのか。それはこの名前が「神は我が助け」という意味であり、この貧しい人の生き方そのものを表しているからです。神に助けを求める人、神に望みをおき、神により頼んで生きる人、それがこの貧しい人であったのです。13節のイエス様の言葉でいえば、ラザロは、神を愛し、神にのみ仕える人であったのであります。

 次に、この金持ちについて考えてみましょう。この金持ちが、天国に行くことができず、陰府でさいなまれるようになったのはなぜか。それは、以前学んだ「不正な管理人」のたとえを思い起こすならば、お分かりいただけると思います。イエス様は、9節で、「わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」と教えられました。「地上の富を、自分の欲望を満足させるためにだけ用いるのではなくて、貧しい人々に施し、その友となることによって、永遠の住まいに迎え入れられるための備えをせよ」とイエス様は仰せになったのです。しかし、この金持ちは、その備えを全くしませんでした。彼は毎日遊び暮らすほどの富を持ちながら、それを貧しい人のために用いず、ただ己の快楽や満足のためにのみ用いたのです。彼は地上の富を用いて、永遠の住まいに迎え入れてくれる友をつくらなかった。貧しい人ラザロに施しをせず、その友とはならなかったのです。13節のイエス様の言葉でいえば、この金持ちは富を愛し、富に仕えるものであったのです。ラザロが「神は我が助け」とする者であったのに対し、金持ちは「富は我が助け」とする者であったのです。ラザロは、主に仕え、金持ちは富に仕えた。ここに、ラザロが天国に入り、金持ちが地獄に落とされた理由があるのです。

 誤解のないように申しますが、この譬えは、死後の世界を積極的に教えようとする譬えではありません。ですから、このイエス様の譬え話から死後の世界を思い描くことはある限界があります。例えば、この所から、天国と地獄は互いの様子を見ることができるとは言えません。むしろ、イエス様はここで、当時の人々に親しまれた民話を題材としてこの譬え話を語っておられるのです。けれども、この譬えから、これだけは確かなこととして言うことができます。それは、今、この地上の人生が、死後のあり方を決定するということです。そして、死んでからではその決定をもはや覆すことはできないということです。死者の世界である陰府に入ってからは、もう悔い改めることができない。死んだ後に、地獄に入ってから、悔い改めますと言ってももう遅いのです。悔い改めの機会は、この地上を生きている今しかないのです。

 アブラハムの言葉を受けて金持ちは、そのことを理解いたしました。ですから、彼はもう苦しみから逃れようとは考えません。金持ちの関心は、自分の苦しみから、まだ地上にいる兄弟たちへと向けられます。27節。

 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が5人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることがないように、よく言い聞かせてください。』

 おそらく、兄弟も同じように、毎日ぜいたくに遊び暮らしていたのでしょう。自分と同じような生活をしていたら、兄弟たちも同じように炎の中で苦しむことになってしまう。そのようにならないようにするにはどうすれば良いのか。金持ちは、ラザロを父の家へ遣わし兄弟たちに警告してほしいと願うのです。

 それに対してアブラハムはこう答えます。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』

 モーセと預言者、これは、16節に出てきた「律法と預言者」と同じ意味です。アブラハムは、ラザロを遣わす必要はない。彼らにはモーセと預言者、旧約聖書があるではないかと答えるのです。モーセと預言者たちの声に耳を傾けるならば、天国に入ることができる。救いに至るには、モーセと預言者、つまり聖書だけで十分であるとアブラハムは答えるのです。これに対して金持ちは申します。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』

 この金持ちの主張には、しるしを求めるユダヤ人の姿がよく現れています。金持ちは、聖書だけでは不十分だ。もっと悔い改めを迫るしるしが必要であると考えたのです。金持ちがこう考えるのは当然であると思います。なぜなら、金持ち自身も、聖書をもっていながら、その声に耳を傾けてこなかったからです。また、ここにはアブラハムへの非難が込められています。モーセと預言者だけでは不十分だ。もっと明確なしるしを与えてくれないから、自分は悔い改めずに、今このような苦しみの中にあるのだ。そのような責任逃れ、責任転嫁がこの言葉には込められているのです。

 しかし、アブラハムはその考え方をを真っ向から否定いたします。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』

 ここで、イエス様がアブラハムを通して教えていることは、聖書が救いをもたらすのに十分であるということであります。聖書の権威を教える聖句としてよく第二テモテの3章15節が用いられます。そこにはこう記されています。

 この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。

 これは、使徒パウロの言葉でありますけども、それではイエス様は聖書について何も教えていないかというと、そうではありません。イエス様も、「金持ちとラザロのたとえ」の中で、聖書が救いをもたらすのに十分であることを教えているのです。なぜなら、聖書は、イエス様御自身について証をするものであるからです。また、旧約聖書の中にすでに、人は神と富とに仕えることはできないことが教えられているからです。イスラエルの人々が一日に三度唱えたと言われるシェマー、申命記6章4節にはこう記されています。

 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

 ここで、はっきりと「主は唯一の主である」と教えられています。ですから、富を主とするならば、それは唯一の主を否定する偶像崇拝に他ならないのです。また、貧しい人への施しについても旧約聖書ははっきりと教えています。例えば、モーセは申命記の15章7節から11節でこう教えています。旧約聖書305頁です。

 あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。「七年目の負債免除の年が近づいた」と、よこしまな考えを持って、貧しい同胞を見捨て、物を断ることのないように注意しなさい。その同胞があなたを主に訴えるならば、あなたは罪に問われよう。彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きをすべて祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。

 また、預言者イザヤもこう語っています。旧約聖書の1157頁です。イザヤ書58章6節から8節をお読みいたします。

 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を立ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。

 このようにモーセと預言者は、主を唯一の主とすべきことを、貧しい人に施すべきことを教えているのです。ですから、金持ちには弁解の余地はありません。彼はアブラハムの子孫でありました。律法と預言者をもっておりました。しかし、それにも関わらず、彼は自分の家の門前に横たわっているラザロに憐れみをかけなかったのです。

 ルカによる福音書に戻ります。141頁です。

 イエス様は、アブラハムを通して、「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」と仰せになりました。誤解のないように申しますが、ここでイエス様は、死者の復活には意味がないとか、新約聖書は必要がないと語っているのではありません。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないなら」とありますように、死者の復活は、旧約聖書に耳を傾けない者には何の意味も持たないのです。逆を言えば、死者の復活は、旧約聖書に耳を傾ける者にとってだけ、啓示としての意味を持つのです。そして、ここに復活されたイエス様が御自分を信じる弟子たちにだけその姿を現された理由があります。復活されたイエス様は、御自分を十字架につけた祭司長や律法学者たちの前に姿を現さずに、ただ弟子たちだけにその姿を現されました。それはなぜか。それは、イエス様を拒んだ祭司長や律法学者たちがモーセと預言者に正しく耳を傾けていない者たちであったからです。旧約聖書は、イエス・キリストを証しする書物であります。それなのに、彼らはイエス・キリストを受け入れることができなかった。イエス様への不信仰、これこそ彼らが旧約聖書を正しく読み解くことができなかった証拠と言えるのです。しかし、旧約聖書に正しく耳を傾ける者、聖霊によって耳の開かれた者には、イエス様の復活は、永遠の命の保証となるのです。

 イエス様は、アブラハムを通して、救いに至るには、聖書だけで十分であると仰せになりました。イエス様の時代、新約聖書はありませんから、ここでの聖書は旧約聖書のことです。旧約聖書だけで十分であるならば、新約聖書を併せ持つ私たちには、神の救いへの道がどれほどはっきりと示されていることでしょうか。イエス様は、ヨハネによる福音書14章6節で「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」と断言しておられます。

 現在、私たちは、神の言葉である聖書を自分の手に持っております。これは驚くべきことであります。神の言葉である聖書を母国語で読むことができる。読みたい時にいつでも読むことができる。これは奇跡であります。しかし、そこで私たちは安心してはならない。私たちがただ聖書を持っているだけならば、それは救いの何の保証にもなりません。私たちはこの聖書に耳を傾けなければならない。聖書によって、私たちの信仰と生活を整えていかなければならないのです。救いは、聖書を通して、誰にでも開かれています。イエス・キリストにおいて、神の国は告げ知らされ、誰でもそこに入ることができる、天国に入ることができる恵みの時が、今実現しているのです。聖書を持っている。そのことに安心するのではなくて、聖書に耳を傾けることによって救いを確かなものとしていただきたいと願います。

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