律法と神の国 2005年8月14日(日曜 朝の礼拝)

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律法と神の国

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 16章14節~18節

聖句のアイコン聖書の言葉

16:14 金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。
16:15 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。
16:16 律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。
16:17 しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい。
16:18 妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」ルカによる福音書 16章14節~18節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、学んだことでありますが、イエス様は、13節でこう仰せになりました。

 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。

 イエス様は、人は神を愛するか、富を愛するかのどちらかでしかあり得ないと仰せになり、弟子たちに決断を迫りました。それを聞いていた、金に執着するファリサイ派の人々はイエス様をあざ笑います。ここで、「金に執着する」と訳されている言葉を直訳すると「金を愛する」となります。イエス様の教えによれば、金を愛するファリサイ派の人々は神を愛することはできません。しかし、ファリサイ派の人々は、そのようには考えませんでした。彼らは、富こそ神の祝福であって、神の律法を守っている者たちに相応しいと考えていたのです。確かに申命記の28章を見ますと、主は、御自分を愛し、御自分に従う者たちを祝福してくださる、その土地の実りを豊かなものとしてくださる、と記されています。しかし、それは神を愛する者への祝福であって、まず第一に富を愛するべきではなかったはずです。主を愛する結果として祝福が与えられるのであって、その祝福を求めるために神を愛するのではありません。そもそも、ファリサイ派の人々は、彼らが自負していたように、神の掟を正しく守っていたのでしょうか。15節。

 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」

 イエス様は、ファリサイ派の人々のことを「人々の前で自分を正しいとする者たちである」と仰せになります。これは、彼らの特質を見事に言い当てています。「ファリサイ」という言葉の元々の意味は、「分離した者」という意味です。神の掟である律法を守らない人たちを罪人と呼んで、彼らから離れて律法を完全に守ろうとした者たち、それがファリサイ派の人たちでありました。彼らは社会的に尊敬され、民衆に対して大きな影響力を持っていました。まさに、人々から尊ばれていたのです。しかし、イエス様は、彼らが神の御前に忌み嫌われる存在であると仰せになるのです。それはなぜか。それは、神が人の心を見たもうお方であるからです。ファリサイ派の人々、彼らは確かに律法を守るのに熱心でありました。しかし、それは、自分の正しさを見せびらかすためでしかなかったのです。

 続けてイエス様はこう仰せになります。

 「律法と預言者は、ヨハネの時までである。それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。しかし、律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」。

 「律法と預言者」とは、旧約聖書のことです。この時代、まだ新約聖書はありませんから、聖書と言えば旧約聖書のことです。イエス様は、律法と預言者、つまり旧約聖書は、ヨハネの時までである、と仰せになります。なぜなら、旧約聖書は、来るべきメシアによる神の国を待望する書物であったからです。旧約聖書が預言し、待ち望んでいた神の国は、イエス・キリストにおいて、到来しました。その意味で律法と預言者はすでにその目的を達したのです。イエス・キリストにおいて到来した神の国は、旧約聖書に収まりきれない新しい出来事でありました。ここに新約聖書が記されねばならない必然性があったのです。その神の国の新しさを一言で言うならば、それは、ユダヤ人という一民族に限定されない普遍性、熱心に求める全ての者に開かれた開放性であります。しかし、それならば、律法は廃止されてしまったのか、無効となってしまったのか、と言いますと、そうではありません。イエス様は、律法の文字の一画、もっとも小さな文字がなくなるよりも、天地の消え失せる方が易しいと仰せになります。すわなち、律法に代表される旧約聖書は、新しい時代、新約時代においても、神の言葉であり、私たちの信仰と生活の規準であるのです(ウ告1:2参照)。

 イエス様は、最後にこう仰せになります。

 「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」

 ここで、突然、「離縁」のことが出てきます。イエス様は、離縁について論じることによって、ファリサイ派の人々の正しさがうわべだけのものに過ぎないことをあばかれるのです。イエス様は、「妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる」と仰せになります。これは、他の女性と結婚するために、妻を離縁する者への断罪の言葉です。誤解のないように申しますが、ここでイエス様は、離縁全般について教えているのではありません。他の女と結婚するために、妻を離縁する者たちに対してイエス様はこのような厳しい言葉を語っておられるのです。旧約聖書のマラキ書にも、同じようなことが記されています。旧約聖書の1498頁。マラキ書の2章13節から16節をお読みいたします。

 同様に、あなたたちはこんなことをしている。泣きながら、叫びながら/涙をもって主の祭壇を覆っている。もはや、献げ物が見向きもされず/あなたたちの手から受け入れられないからだ。あなたたちは、なぜかと問うている。それは、主があなたとあなたの若いときの妻との証人となられたのに、あなたが妻を裏切ったからだ。彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約をした妻である。主は、霊と肉を持つひとつのものを造られたではないか。そのひとつのものが求めるのは、神の民の子孫ではないか。あなたたちは、自分の霊に気をつけるがよい。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。わたしは離婚を憎むとイスラエルの神、主は言われる。離婚する人は、不法でその上着を覆っていると万軍の主は言われる。あなたたちは自分の霊に気をつけるがよい。あなたたちは裏切ってはならない。

 ここには、若い時から連れ添ってきた伴侶を捨てて、他の女をめとる者への非難の言葉が記されています。若い女性に魅了されて、長年連れ添ってきた妻を捨てた者たちがいたのかも知れません。妻がおりながら、好きな人ができる。その時、どうすればいいのか。マラキは、主がその証人となられたのだから、若い時の妻を裏切ってはならない、と語るのです。これに対して、ファリサイ派の人々はどう考えたのか。彼らは、妻を離縁すれば、好きな人と結婚することができる。そして、それは神の掟に背くことにはならないと考えていたのです。

 そのことを教えているのが、今朝の御言葉の並行箇所でもあるマルコによる福音書の10章であります。新約聖書の80頁。マルコによる福音書の10章1節から12節をお読みいたします。

 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りなった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 ここには、離縁についてのイエス様とファリサイ派の人々との問答が記されています。ファリサイ派の人々は近寄ってきて「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねます。しかし、イエス様は彼らの悪意を見抜かれて、彼ら自身の口から答えさせます。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えました。それに対して、イエス様は、そのモーセの教えを受け止めならがも、初めからそうではなかったということ。結婚は天地創造の初めから神が定められた神聖な制度であることを教えられるのです。ここで、イエス様は、離縁という現実があることを認めておられます。しかし、それは初めからあったものではないのです。イエス様は、ここで、創世記2章24節の「男は父母を離れて女と結ばれ、一体となる」という御言葉を引用しておられます。創世記の2章といえば、まだアダムとエバが罪を犯す前のことです。25節には、「二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」とあります。まさに、二人は隠し事のない、裸の付き合いをしていたのです。しかし、アダムとエバが神の掟に背いて禁断の木の実を食べた時、何が起こったのか。それは夫婦関係の不和でありました。責任のなすりつけ、夫婦げんかがそこではじまったのです。アダムの堕落によって、神が結び合わせて下さった者たちが引き裂かれてしまう、その危険が生じたのです。そして、それは私たちキリスト者の夫婦にもある危険なのです。私たちは、その事実を厳粛に受け止めつつも、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」という主イエスの御言葉をしっかり胸に刻みたいと思います。

 ルカ福音書に戻りましょう。新約聖書の141頁です。

 もう一度確認しますが、イエス様は18節を、妻を離縁して、他の女をめとることを、罪とは考えないファリサイ派の人々に対して語っております。好きな人ができた。しかし、自分には妻がいる。それならば、まず妻と離縁して、好きな人と結婚すればいい、そうファリサイ派の人々は考えた。彼らにとって、離縁の理由、その動機というものは問題ではありません。彼らの関心は、律法に従ってなされているかどうか、正しい手続きを踏んでいるかどうか、であったのです。しかし、人の心を御覧になる主イエスは、もしそうするならば、「姦通の罪を犯すことになる」と仰せになるのです。姦通の罪とは、配偶者以外の異性と肉体的な関係を持つことです。なぜ、イエス様は「姦通の罪を犯すことになる」と仰せになるのか。それは、「他の女を妻にするため」という動機では、神が結び合わせた夫婦の絆を断ち切ることはできないからです。ファリサイ派の人々は、モーセの律法に従って、離縁状を書いて離縁すればいい。そして、新しい妻を迎えればいいと考えました。しかし、イエス様は、そのような勝手な理由で、神が結び合わせた夫婦の契りを破棄することはできないと仰せになるのです。

 最後の言葉は、誤解されやすい言葉かも知れません。「離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる」。これだけを読むと、一度離縁された女性は再婚することが罪となる、禁じられていると読むことができます。しかし、もちろんイエス様はそのようなことを仰っているのではありません。いわゆる不倫の関係にある時、男性が結婚しているだけではなくて、女性も結婚しているという状況が考えられます。自分には夫がいる。その時、彼女はどうするのか。当時、イスラエルでは、女性の方から離縁することはできませんでした。しかし、そうであるならば、夫の方から離縁を切り出すように仕向ければよいのです。ファリサイ派の人々が引用した申命記の24章1節にはこう記されています。

 妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなった時は、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。

 この言葉をうまく利用して、何か恥ずべき事をして離縁してもらえばよい。妻の働きとして求められる炊事、洗濯をしない。夫に事あるごとに言い逆らう。そうすれば、夫は妻を離縁せざるを得なくなる。そして、晴れて、好きな人と結婚することができる。しかし、人の心を御覧になる主なる神はその離縁をお認めにはなりません。イエス様は、他の男と結婚するために、自ら進んで離縁された女は、姦通の罪を犯すことになると仰せになるのです。

 このように、人の心を御覧になる神の御前に一体誰が、正しい者としていただけるでしょうか。もし、私たちが自分の力で、神の掟を守り、正しい者と認められようとするならば、それは到底不可能なことであります。なぜなら、人の目はごまかすことはできても、心をご存じである神様をごまかすことはできないのです。ですから、私たちは今朝、自分が神の掟に従えない罪人であることを認めたいと思います。そして、律法と預言者を実現されたお方、神の国そのものであるイエス・キリストに、私たちの望みを託したいと願います。イエス様は、私たちに代わって、神の掟を完全に守られました。うわべだけではない。神と人とを真実に愛して、喜びをもって神の掟に従ったのです。そして、神は、このイエス・キリストを救い主と信じ、より頼む全ての者を、正しい者として受け入れてくださる。神の国へと入れてくださるのです。

 私たちは、イエス・キリストを信じ、罪赦されながらも、罪の残る者たちであります。罪を犯す弱い者たちであります。しかし、私たちは神の御前に、強がらなくてもよいのです。弱い自分をそのままの姿で神の御前に差し出すことができるのです。イエス様は「神はあなたたちの心をご存じである」と仰せになりました。この言葉は、私たちにとって怖ろしいことではなくて、むしろ慰めであります。私たちは、神様の御前に、言い訳をしなくてよい。取り繕わなくてもよいのです。なぜなら、神様は私たちの罪をご存じであるからです。神の掟に従いえない私たちの弱さをご存じであるからです。それをご存じのうえで、いやご存じだからこそ、神様は、私たちに愛する御子を与えてくださったのです。私たちには、それぞれに弱さがあります。その弱さをなじり合うのではなくて、主にあって受け入れ合い、共に生きるものでありたいと心から願います。

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