抜け目のない管理人 2005年8月07日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

抜け目のない管理人

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 16章1節~13節

聖句のアイコン聖書の言葉

16:1 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。
16:2 そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』
16:3 管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。
16:4 そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』
16:5 そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。
16:6 『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』
16:7 また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』
16:8 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。
16:9 そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。
16:10 ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。
16:11 だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。
16:12 また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。
16:13 どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」ルカによる福音書 16章1節~13節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝から16章に入ります。15章において、イエス様は、ファリサイ派の人々や律法学者たちに対して譬えを話されました。今朝の16章では、話しかける対象が変わりまして、イエス様は弟子たちに対して語っておられます。14節を見ますと「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて」とありますが、今朝の御言葉は、1節にあるように弟子たちに語られたものなのです。ファリサイ派の人々がいる前で語られたお話でありますけども、イエス様が、弟子たちに語っておられることを今朝はじめに確認しておきたいと思います。

 イエス様は、「ある金持ちに一人の管理人がいた。」と語り出します。管理人とは、主人に代わって財産の管理を取り仕切る者のことを言います。この金持ちは、自分で農場には住まずに、管理人に全てを委ねる不在地主であったようです。管理人が、主人に代わって、小作人や商人に貸し付けをし、その取り立てをしていたのです。この管理人は、主人の財産を無駄遣いしていることを告げ口され、主人のもとへと呼び出されます。ここで、管理人は、主人から「もう管理を任せておくわけにはいかない」と解雇通告を言い渡されます。主人が、会計報告を出すよう求めたのは、そのうわさが本当であるかどうかを確かめるためではなくて、いわば次の人への引き継ぎのためでありました。主人は、会計報告ができ次第、この管理人を家から追い出そうとしていたのです。

 主人のもとを後にした管理人は、「どうしようか」と思案いたします。もともと、自分が主人の財産を無駄遣いしてしまったのが原因なのですから、自業自得なのですが、彼にしてみれば大問題でありますね。これからどのように生活していけばよいのかを真剣に考えます。この管理人は自分をよく知っている人でありました。自分には、土を掘る力もない。自分の体は肉体労働には向いていない。そうかと言って、物乞いをするには自尊心が高すぎる。その管理人が「そうだ。こうしよう。」と思いついたことは、「管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。」ということでありました。管理人は、主人に借りのある者を一人一人呼び出し、証文を差し出して、油百バトスを五十バトスに、小麦百コロスを八十コロスに書き換えるようにと命じるのです。こうして、管理人は、彼らに大きな貸しを作り、自分が解雇されても、受け入れてくれる者たちを作ったのであります。そして、ここで、驚くべきことに、主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方をほめたのです。この8節を読んで、私たちは誰もが、おかしいと感じます。叱るならまだしもほめると何事か。そう不可解に思うのです。

 実を言いますと、今朝の御言葉は、大変難解なところであります。その難しさの一つは、どこまでがイエス様の譬えであり、どこからが譬えを受けてのイエス様の教えであるかを区別しにくいことです。ある人は、7節までを譬えであるといたします。8節の「主人」と訳されている言葉は、「主」とも訳すことができますから、ここでほめたのは主イエスであると理解するのです。またある人は、8節の前半までを譬えであるといたします。またある人は、8節の後半までを譬えであるとするのです。私としては、8節の前半までを譬え話と理解したいと思います。つまり、8節前半の言葉を、譬え話の主人の言葉として理解し、後半の「この世の子らは云々」は、譬えを受けてのイエス様の言葉であると理解したいと思います。私は、先程、この8節は不可解であると申しました。そして、この不可解さを何とか取り除こうと様々な解釈がなされてきたのです。例えば、管理人が減らした分は、管理人の手数料や利子であったと説明する研究者もおります。しかし、私は、この不可解さこそが、イエス様のねらいなのだと思います。なぜなら、この不可解さのゆえに、この譬えを聞いたものは、強い印象を受け、忘れることができなくなるからです。もし、この8節が「主人が管理人を叱りつけ、即座に家から追い出した。」というものなら、おそらく、この譬え話はすぐに忘れ去られてしまったことでしょう。しかし、この主人は、なんと、この管理人をほめたのです。そこがポイントです。そこに主イエスは引っかかってほしいのです。そこで聞く人に、なぜだろうと考えてほしいのです。これまでにイエス様のたとえ話を幾つか学んできました。イエス様のお話は、当時の日常を題材とした大変分かりやすいものであります。しかし、そこに、いつも非現実的な、到底信じられないようなことが含まれているのです。そして、実はそこにイエス様が強調したいことがしばしば含まれているのです。例えば、14章15節以下には、「大宴会のたとえ」が記されておりました。この状況設定である宴会を催すこと自体は、よくある光景であります。しかし、ここで異常なことは、皆が皆そろって招待を断り始めたということです。また、15章の「見失った羊のたとえ」では、羊飼いが見失った一匹を見つけるまで捜すのは普通のことでありますが、99匹を荒れ野に放置して1匹を捜し求める羊飼いは非現実的なのです。また、「放蕩息子のたとえ」では、帰ってきた息子を喜んで迎え入れる父親はいるでしょうが、財産を食いつぶして帰ってきたどら息子のために肥えた子牛を屠る父親は非現実的なのです。このように、イエス様のたとえ話には、日常の中に非日常が織り込まれており、そして、その非日常こそがしばしば譬えの中心となっているのです。ですから、主人が管理人をほめた非現実的なところに、この譬えの強調点があると考えられるのです。

 それでは、この主人は何をここでほめたのでしょうか。ここで主人がほめたのは、管理人の不正についてではありません。ここで主人がほめているのは、管理人の抜け目のなさ、管理人の思慮深さであります。彼は不正が主人にばれて、管理の職を失うことが確定したとき、残された可能性を最大限に生かして、自分の将来のために備えました。彼は、解雇された後も、自分の住む家を確保しようと頭をフル回転させて、そく実行へと移したのです。イエス様は8節後半からこう仰せになります。

 この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友だちを作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。

 「この世の子ら」とは、イエス・キリストを信じず、この地上の歩みことしか考えていない人々のことです。そして、「光の子ら」とはイエス・キリストを信じ、死後の世界を信じる人々のことであります。この世の子らを代表する管理人は、地上の住みかのために、これ以上にないほどに賢く立ち回りました。それと同じように、光の子らである弟子たちも、永遠の住まいに迎え入れてもらえるように賢く振る舞うべきなのです。ここで「不正にまみれた富」とありますが、これは悪いことをして手に入れたお金のことではなくて、「地上の富」のことです。そして「友達を作りなさい」というイエス様の言葉は、これまでの教えを考えますとき、「貧しい人々に施しなさい」「困っている人々に分け与えなさい」と理解できるのです。もちろん、永遠の住みかに迎え入れてくださるのは、主なる神様であります。しかし、貧しい人に施し、友となるならば、やがてその人々と一緒に永遠の住まいに憩うことができるとイエス様は仰せになるのです。そのことは、19節以下に記されている「金持ちとラザロ」のお話しを読む時、よりはっきりといたます。金持ちは、生前ラザロにまったく憐れみを示しませんでした。それゆえに、金持ちは後の世では、ラザロと共にアブラハムのふところに憩うことができなかったのです。

 よく、人間が生きていくのに必要なものとして、衣・食・住の3つが上げられます。三番目の住とは、住まいのことです。住む家がない。それはせっぱ詰まった死活問題であります。住むところがなければ困ってしまう。だから、どうにかしようと躍起になるのです。主人の富を用いてでも、自分を家に迎え入れてくれる友を作ろうとするのです。しかし、永遠の住まいのことになるとどうでしょうか。何だか現実的に思えない。まだまだ先のことのように考えてしまう。それゆえ、地上の富を用いてでも、天の友を作ろうとはしないのです。しかし、それではだめだとイエス様は仰せになるのです。この地上の住みかを慕い求めるように、いやそれ以上に、永遠の住みかを慕い求めなさい。永遠の住みかに迎え入れられる備えを今しなさいと、イエス様は仰せになるのです。

 今朝の御言葉で、イエス様が弟子たちに教えておられることは、地上の富をどのように考え、用いればよいか、ということです。1節で、管理人が主人の財産を無駄遣いしてしまっていたことが記されておりますけども、15章にも財産を無駄遣いした男のお話が記されておりました。それは、放蕩息子と呼ばれる、弟息子のことであります。弟息子は、遠い国へ旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまったのです。「財産を無駄遣いしてしまった」、この点において、弟息子と管理人は同じです。しかし、管理人は弟息子よりも思慮深く立ち振る舞ったのです。弟息子は、おそらく、気の合う仲間と一緒に放蕩の限りを尽くしたのだと思いますね。そこには兄息子が想像したように娼婦たちもいたかも知れません。しかし、彼らは、弟息子の金がなくなった時、彼を迎え入れようとはしませんでした。彼らは、「昔は、よくおごってもらった」と言って、自分の家に迎え入れたのではなかったのです。しかし、管理人は、主人の財産を、自分の将来のために、自分を迎え入れてくれる友を作るために用いたのです。その点では、管理人は弟息子より賢かった。けれども、イエス様は私たちにさらなる賢さを求めておられるのです。それは光の子としての賢さ、永遠の住みかに迎え入れてもらうために、地上の富を用いる賢さであります。 

 10節からは、管理人は、もう模範として語られていません。なぜなら、管理人は、小事に不忠実であり、この世の富に不忠実であり、他人のものについても不忠実であったからです。ある研究者は、いままでほめられていた管理人が、10節以降では、ひどい見せしめとなっていると申します。管理人は、いくら抜け目なく思慮深くとも所詮は「この世の子ら」でありまして、すべてにおいて光の子らの模範となる者ではないのです。もし、なんでしたら、10節以降では、もう管理人のことを忘れてくださってもよいと思います。

 イエス様は、ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きなことにも不忠実であるという当時のことわざを引用して、不正にまみれた富に忠実でなければ、誰が本当に価値のあるものを任せるだろうか。と仰せになります。「不正にまみれた富」とは、先程申しましたように、「この地上の富」のことです。そして、「本当に価値のあるもの」とは、「イエス・キリストの福音」を指すと考えられます。使徒パウロは、第一コリント書の4章でこう語りました。

 こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。

 また、使徒ペトロは、第一の手紙の4章でこう語っています。

 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕する人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。

 使徒だけではない。すべてのキリスト者が、キリストの福音、あるいはそれぞれの賜物の善い管理者となることが求められているのです。 

 また、12節で、イエス様はこう仰せになります。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。

 ここで「他人のもの」とは「いずれ手放さなければならないこの地上のもの」を指しています。私たちは何も持たずに生まれてきて、何も持たずにこの地上を去っていく。ですから、今私たちが手にしているものは「他人のもの」と言うことができるのです。そして、「あなたがたのもの」とは、「天において永遠に相続するもの」を指しているのです。ここで、覚えていただきたいことは、天上のものを受け取るのに、地上のものを忠実に用いているかどうかが問われているということであります。地上のものと天上のものには、対立するものではなくて、連続性をもっているということであります。いわば、この地上の富をどのように扱うかは、永遠の課題と言えるのです。

 キリスト教会の歴史の中で起こった富に対する考え方として、富を悪いものと見なし、そこから遠ざかったということがあります。イエス様がこの世の富を「不正にまみれた富」と仰せになられたように、確かに富には、不正の臭いがいつも付きまとっています。なぜなら、富を生み出すもっとも手っ取り早い方法は、不正を働くことであるからです。ですから、教会の歴史において、多くの人々が富を捨てて、富をまるで敵のように見なして、この世の富から遠ざかったことも理解できると思います。私たちにもこういう思いはあるかも分かりません。地上の富をいまいましく思う。本来、道具であるはずのお金が、自分を支配しているような錯覚に陥ってしまう。お金を儲けるために自分は生きているのではないか、と思ってしまう。そして、いっそのこと、全て捨てられたらどんなに楽だろうと思う。しかし、現実には、生きていくためにお金が必要でありますから、捨てるわけにはいかずに生きている、それが私たちの現実かも知れません。しかし、そのような私たちに、イエス様が今朝求めておられることは、この地上の富を、神の管理人として、賢く管理せよ、ということであります。富に支配されることを恐れて、富から遠ざかるのではなくて、主の管理人として、富を賢く管理せよと言われるのです。

 イエス様は、富が人間を支配してしまう、そのような大きな力を持っていることをご存じでありました。ですから最後にこう警告なされるのです。

 どんな召使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。

 ここで富と訳されている言葉は、「マモン」という言葉です。マモンとは元々「頼りになるもの」「信頼できるもの」という意味でありましす。それがいつの間にか富を意味するようになったのです。これは、わたしたちにもよく分かることではないでしょうか。お金を頼りにする。お金さえあれば大抵のことは何とかなる、そう考えやすいのです。しかし、それは、富を神とする偶像崇拝に他なりません。富みに仕えるならば、神に仕えることはできない、そうイエス様は教えられるのです。人は、神に仕えるか、富みに仕えるかのどちらかである。そして、神に仕えるとき、人は富みの奴隷にならず、主の御前に富を正しく管理することができるのです。

 私たちが手にする全てのものは主のものであり、主からその管理を委ねられたものに過ぎません。その意味で、私たちキリスト者は誰もが神の管理人なのです。しかし、私たちが富を手にする時、そこにはいつも誘惑があることも事実であります。その誘惑とは、「全てを自分のために用いてみたい」、「全てをこの世の生活のために用いてみたい」という誘惑です。それは、給料を手にするときに起こる誘惑でもありましょう。この誘惑から私たちを守ってくれるものは何か。富を自分のものと考えるのではなく、神から委ねられたものと正しく認識するにはどうすればよいか。それは、その一部を主のために捨てることです。「捨てる」というと語弊がありますが、その一部を主のために献げることです。収入の一部を主に感謝して献げることによって、この富が自分のものではない。神からの賜物であり、管理を委ねられているに過ぎないことを実感させていただくのです。私はここで、献金について詳しくお話ししようとは思いません。ただ一つお奨めさせていただきたいことは、給料をいただいたら、その初穂を感謝をもって献げていただきたいということです。残ったお金を献金として献げるのではなくて、給料を頂いたその最初に、自分が祈って決めた金額を感謝をもって献げていただきたいということです。初めての実りである初穂は、その畑で採れる収穫全体を代表するものです。ですから、その初穂を献げるということは、収穫全体を献げる、収穫全体を聖別していただくという意味を持つのです。文字通り全てを献げなくとも、その初穂を感謝をもって献げる時、私たちは、全てが主からの授かりものであることを告白しているのです。私たちは喜んで地上の富を主に献げることによって、この世の富の力から解放されていることを身をもって確認するのです。また、この世での見返りは期待できない人々に施し、その人の友となることによって、富ではなく神に仕える者であることを身をもって確認するのです。私たちは、地上の富を主から委ねられたものとして、賢く、忠実に管理する光の子でありたいと願います。

関連する説教を探す関連する説教を探す