待ち続ける父 2005年7月17日(日曜 朝の礼拝)

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待ち続ける父

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 15章11節~24節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。
15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。ルカによる福音書 15章11節~24節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、ルカによる福音書15章11節から24節より、「待ち続ける父」という題でお話をいたします。

 11節から13節をお読みいたします。

 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。

 申命記の21章17節によれば、長男は、他の兄弟よりも2倍の財産を受け継ぐことができました。父親には二人の息子がおりましたから、兄は、財産の3分の2を、弟は3分の1を譲り受けたことになります。当時、父親が生きている間に、財産を分配するということがあったようです。財産の所有権をまだ生きているうちに、子供に譲渡する。しかし、その財産を使用する権利、あるいは処理する権利は、父親が生きている限り、父親に属するものと考えられておりました。父親の生前に子供が財産を受け継ぐ、しかしそれは名目上のことでありまして、その使用に関しては父親の監督のもとに置かれたわけです。ですから、いくら財産を譲り受けたからと言って、それを勝手に売却することは、許されておりませんでした。しかし、弟息子は、何日もたたないうちに、父親から譲り受けた全部の財産を金に換えて遠い国へと旅だったのです。弟息子は、そのお金をもとでに何か商売をしようとしたのではありません。聖書に、「放蕩の限りをつくして、財産を無駄遣いしてしまった」とありますように、快楽を求めて、父の家を飛び出したのです。ここに父親と縁を切り、財産をとりまとめ意気揚々と故郷を後にする若者の姿を見ることができます。父親に従う生活、畑を耕すという生活から解放されて、人生を謳歌しようとする若者の姿がここにあるのです。しかし、そのような生活は長くは続きませんでした。14節から16節です。

 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。

 放蕩の限りを尽くし、財産を使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こりました。食べるものにも困った息子は、ある人のもとに身を寄せます。しかし、そこで与えられた仕事は、豚の世話でありました。ユダヤ人にとって、豚は汚れた動物であります(レビ11:7参照)。今もユダヤ人は豚肉を食べません。その豚の世話をさせられる。これはユダヤ人にとって、この上ない屈辱でありました。しかも、彼は豚のえさであったいなご豆すら、食べることができなかったのです。彼は今、豚以下の存在へと落ちぶれてしまいました。落ちるところまで落ちた、その時、彼の脳裏にある記憶がよみがえって参ります。17節から19節です。

 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 

 落ちるところまで落ちて、彼はようやく我へと返ります。彼は、全てを失ってはじめて、父の家での日々が、どんなに素晴らしいものであったか。どんなに豊かなものであったのかを悟るのです。彼は、父のところに戻り、自分の罪を告白し、雇い人の一人にしてもらおうと決心します。ここで、注目したいことは、彼が、赦しを乞うて、再び息子として受け入れてもらおうとはしていないことです。彼は自分にその資格がないことをよく分かっていました。父親から譲り受けた大切な財産、それはいわば、父親の血と汗の結晶であります。父親が何十年も労苦して築き上げてきたものです。それを勝手に金に換えて無駄使いしてしまった。父親は、どんなに怒っていることであろうか。彼は、そのような不安を抱きつつ、彼は父親のもとへと向かったのです。20節から21節です。

 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走りよって首を抱き、接吻した。

 まだ、息子が遠くにいるにも関わらず、父親はその姿を見つけました。

このことは、父親が息子の帰りを待ち続けていたことを教えています。おそらく、父親は門の傍らに立って、毎日のように息子の帰りを今か、今かと待っていたのだと思います。まだ遠くにいるにもかかわらず、父親にはそれが息子であることが分かったのです。ここで、「憐れに思い」と訳されている言葉は、直訳しますと「はらわたがちぎれる思い」となります。帰ってきた息子を見て、父親は、腸がちぎれるほどの激情にかられたのです。それは息子が、やつれ変わり果てた姿になっていたからです。イスラエルの人は、あまり走りません。大の大人が走ることは、みっともないと考えられていたのです。しかし、ここで父親はなりふり構わず、息子のもとへと走りより、首を抱き、接吻するのです。「接吻」は赦しの象徴であります。ここで、父親はもう息子を赦してしまっているのです。息子の罪の告白を聞くより先に、父親はこの息子を赦しているのです。そして、この父の愛が、息子を罪の告白へと駆り立てるのです。21節から24節です。

 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履き物を履かせなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

 息子は、父の家へと帰るまでに、何度も口の中で繰り返したであろう。その言葉を父親へ告げます。しかし、この21節の言葉と先程の18節を比べると、21節の方が短いということに気づきます。最後の「雇い人の一人にしてください」という言葉が、21節には記されていないのです。それはなぜか。それは父親がこの言葉を息子に言わせなかったからです。「もう息子と呼ばれる資格はありません」。この言葉を否定するかのように、父親は僕たちに一番良い服を持ってくるようにと命じます。一番良い服を着せ、手に指輪をはめ、足に履き物を履かせる。このことは、父親が彼を息子として迎え入れたことを表しているのです。それから、肥えた子牛を屠り祝宴を始めるのです。なぜなら、「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったから」です。いなくなった息子を見出した喜び、その喜びだけが父親の心を占めているのです。

 さて、このお話しは譬え話でありますから、その意味を考えてみたいと思います。ここでの父親は、神様のことを指しています。そして、弟息子は、神の掟に従わない徴税人や罪人を指しています。しかし、私は今朝、この弟息子を徴税人や罪人だけに限定せずに、神から離れてしまった全ての人間を指すものとしてお話ししたいと思います。弟息子の姿、それは、神を死んだものとして、自分勝手に振る舞う人間の姿なのです。神と共に歩むことを束縛と感じ、そこからの自由を夢見る人間、それが弟息子の姿なのです。確かに、彼は遠い国へと旅立ち、親元を離れ、自由になったかのように見えました。そして、そこで自分の欲望を満足させるために、放蕩の限りを尽くしたのです。けれども、彼は、そこに真の平安、あるいは幸福というものを見出すことができたのでしょうか。私はできなかったと思います。なぜなら、彼が何もかも失った時、思い浮かべたのは、昔の放蕩生活ではなくて、父親の家での日々であったからです。神を捨てた人間、その人間がやりたい放題やって、最後に発見したことは、神のもとにこそ、真の平安がある。真の幸福があるということです。また、ここで教えられていることは、神は、その子供たちの帰りを待ち続けているということです。弟息子は、遠い国で放蕩の限りを尽くしているとき、その心に父親の姿を思い浮かべたことがあったでしょうか。おそらく、なかったと思います。もし、あったならば、父親の血と汗の結晶である財産を、湯水のように使うことはできなかったはずです。しかし、人間が神様のことを忘れているときも、神様はご自分の子らを、その心にかけておられるのです。そして、その帰りを今か今かと待ち続けておられるのです。息子は、自分の足で父のもとへ帰って参りました。しかし、その息子を見つけ、迎え入れるのは父なのです。ここでも、失われた者を見つけ、救い出すのは神様であるのです。はじめの人類であるアダムが、エデンの園において、神の掟に背いた時、主なる神は「あなたはどこにいるのか」と呼ばれました。それ以来、人は、神の御前から失われた者となってしまったのです。そればかりか、待ち続ける神を、死んだ者と見なし、頭の中から追い払ってしまったのです。しかし、そこには、真の平安も幸福もありません。神から離れて、いくら人生を謳歌しようとしても、それでは本当の命に生きることができないのです。全てを失って弟息子が悟ったことは、まさにそのことでありました。17節で「我に返って」と訳されている言葉は、直訳すると「自分自身の中に返って」となります。口語訳聖書は、このところを「本心に立ち帰って」と訳しています。弟息子は、そこで本来の自分に立ち帰ったのです。それは、それまでの生活が本来の自分の生活ではなかったということです。彼は父の家を離れて、自分の好き勝手に生きるところに、本当の自分がある、自分らしい生き方があると考えました。けれども、そこには、本当の自分はいなかったのです。それでは、一体どこから本来の自分の人生とは言えない歩みを始めてしまったのか。それは、彼が天に対して、また父に対して罪を犯したことに始まるのです。父を捨て、故郷を捨てたときに、自分の人生とは呼べない歩みが始まったのです。

 現代において、神を信じて生きるということは、どこか時代遅れのように思われるかも知れません。また、神を信じないで生きる方が、どこか人間らしく生きていると思われるかもしれません。しかし、本当にそうなのでしょうか。神の存在を殺してしまって、この世界から神を追放それば、それで人間らしい歩みができるのでしょうか。弟息子はどうなりましたか。神から離れ、いくら人間の欲望を満足させる社会となりましても、そこで生きているのは、本来の私たちではないのです。神から離れしまっては、人は本当の人生を生きることができない。ただ神と共に生きるとき、人は本当の人となることができるのです。神から離れているならば、神が人に与えられた真の命には生きてはいないのです。神から離れているならば、それは神の目に、死んで者と同じなのです。ですから、イエス・キリストはこの地上へと来られたのです。ですから、教会は、この地上に存在し続けるのです。教会は、待ち続ける父を指し示し、失われた神の子らを、神との交わりへと迎え入れるために、この地上に存在しているのです。

 ある神学者は、この譬えには、イエス様の十字架に見られる罪の贖いは出てこないと語っております。そして、神はただ、私たちが悔い改めるならば、赦してくださるのであって、キリストの十字架は必要ないと結論するのです。これはとんでもない間違いです。確かに、この譬えには、イエス様の十字架や罪の贖いは出てきません。けれども、私たちは、この譬えを語ておられるイエス様が、御自分の民の罪を贖い、死から3日目に復活されるお方であることを忘れてはならないのです。そのイエス様が語られた譬えであるがゆえに、私たちは、罪を犯しながらも、なお父の子として迎え入れられる弟息子に自らの姿を重ねることができるのです。父なる神は、ただイエス・キリストのゆえに、私たちを無条件に神の子として受け入れてくださいます。待ち続ける父なる神のもとに、私たちは今朝も返ってゆきたいと願います。

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