無くした銀貨 2005年7月10日(日曜 朝の礼拝)

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無くした銀貨

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 15章8節~10節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
15:9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15:10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」ルカによる福音書 15章8節~10節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、「見失った羊」のたとえに続いて、「無くした銀貨」のたとえを学びたいと思います。はじめに、この譬えが、どのような文脈の中で語られているのかを確認したいと思います。

 1節、2節にこう記されています。

 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている」と不平を言い出した。

 徴税人や罪人は、イスラエルの民でありながら、神の民失格と見なされていた人たちでありました。なぜなら、彼らは、神の掟である律法に従っていなかったからです。もちろん、彼らが、自らを罪人と呼んでいたのではありません。「罪人」とは、ファリサイ派や律法学者たちからつけられた蔑称でありました。ファリサイ派の人々は、律法を守ることに熱心であり、自らを神に喜ばれる正し者と考えていたのです。そして、律法を守らない人々を罪人と呼び、彼らとの交わりを断っていたのです。そして、それが神の御心に適うことであると信じていたのであります。律法を守らない者を罪人と呼び、ユダヤの社会から排除する。それが神の御心であると彼らは信じていたのです。けれども、果たして神はそのようなお方なのでしょうか。私たちは今朝、「無くした銀貨」のたとえを通して、神がどのようなお方であるのかを教えられたいと思います。

 8節をお読みいたします。

 あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて探さないだろうか。

 「あるいは」とありますから、この「無くした銀貨」の譬えは、本来、「見失った羊」とワンセットであったということが分かります。「見失った羊」の譬えでは、九十九匹を野原に放置して、いなくなった一匹を捜し求める羊飼いの姿が描かれておりました。今朝の「無くした銀貨」の譬えでは、一枚のドラクメ銀貨を見つけるまで念入りに探す女の姿が描かれています。ドラクメとは、ギリシアの通貨単位で、当時の1日分の労働賃金に当たりました。10枚のドラクメ銀貨を持っている女が、その内の1枚を無くしたとすれば、どうするであろうか。彼女は、9枚あればかまわない、とは考えませんでした。ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて探すのです。ここで「ともし火をつけて」とあるのは、この女が、銀貨を無くしたのが夜であったからではありません。当時の家の造りは、小さな窓しか無く、扉からもれる僅かな光しか部屋に差し込みませんでした。ガラスがないわけですから、大きな窓は作れないわけです。薄暗い中で探すのは、困難でありますから、明かりを灯したのです。そして、シロの葉か何かをほうきの代わりにして、床を掃いたのです。ほうきで掃けば、銀貨が壁や床などにぶつっかて音がするかも知れない。その音を聞き取ろうと床を掃く、そのような女の姿を想像することができます。ここで、どの研究者も指摘していることは、この女が経済的に貧しかった、と言うことです。なぜならば、無くした1ドラクメは、当時それほど大きな金額ではありませんでした。その1枚のドラクメ銀貨を大掃除してまで探す。それは、彼女がよほど貧しかったためであると推測するのです。また、ある学者は、この銀貨は、彼女が結婚するときに、親から持たされた持参金であったと語っております。この10枚のドラクメ銀貨は、彼女が首飾りにしていたものであり、それが何かの拍子に、ばらけてしまい、1枚だけ無くしてしまった、こう考えるのです。確かに当時、親からもらった持参金を、首飾りにして肌身離さず身に着けるという風習があったそうです。よって、当時の人々には、このドラクメ銀貨がどのようなお金であるか、この女にとって、どれほど大切なお金であるかがすぐに理解できたと言うのです。

 当時の女性の社会的立場というものは、現代と比べれば、大変弱いものでありました。男性から、一方的に離縁状を突きつけられるということがしばしばあったようです。その理由も様々でありまして、料理が上手でないとか、あるいはもっと好きな人ができたとか、そのような理由とも言えない理由で男性の方から一方的に離縁されることがありました。ですから、親は、娘をお嫁に出して、これでもう安心とはいきませんでした。現代も同じかも分かりませんけども、その心配というものは現代よりも大きかったと思います。それで、何かあったときのために、親は娘に持参金を持たせたのです。10ドラクメでありますから、持参金としてはそれほど多い金額ではなかったでしょう。しかし、この10ドラクメは、親が苦労して作ってくれた、なけなしの10ドラクメなのです。そして、その1枚が失われてしまった。このように考えてきますと、ここでは、ただお金の価値だけが問題となっているのではないということが分かってきます。親がやっとの思いで持たせてくれた10ドラクメその一枚一枚が他のドラクメ銀貨とは交換することのできない大切な一枚一枚であったのです。なぜなら、その一枚一枚に、親の思いが込められていたからであります。

 イエス様は、9節で「そして見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう」と仰せになりました。ここでの「友達」はもとの言葉を見ますと女性形で記されています。つまり、彼女と喜びを分かち合ったのは、すべて女性たちであったのです。このことは、この銀貨が親からもらった持参金であったことを裏付けているのかも知れません。親からの持参金を無くしたら、どんなにつらいことか。そして、それが見出された時、どんなにうれしいことか。それは、同じ境遇に置かれた女性たちだからこそ、分かち合えた喜びであったのです。

 この譬え話を受けまして、イエス様はこう仰せになります。「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」。

 無くした銀貨を見つけ出す。それは一人の罪人が悔い改めたことであるとイエス様は仰せになります。無くした銀貨は、神の御前から失われた罪人であり、その銀貨が見つかることは、罪人が神に立ち帰ることなのです。しかし、明かなことは、この銀貨が自分で女のもとに戻ってきたのではないということです。銀貨に足が生えて、歩いてきたわけではありません。銀貨は、ただ見出されるのをひたすら持つことしかできないのです。見失った一匹の羊は、メエーメエーと鳴いて、自分がいる場所を知らせることができたかも知れません。しかし、銀貨は自分で音を立てることもできなのです。そのような意味で、この「無くした銀貨」の譬えは、救いが神の御業であることを、よりはっきりと教えています。神は、女が無くした一ドラクメを探すのに勝って、御自身の失われた民を捜し求めてくださるのです。それは、私たち一人一人が神の御前に交換不可能な存在であるからです。無くなった一枚のドラクメ銀貨。それは、このお金が持参金であることを知らない人にとって、ただのドラクメ銀貨に過ぎないかもしれません。けれども、彼女にとって、それは世界でたった一枚しかないドラクメ銀貨であったのです。私たちも、他人に、あるいは自分自身に固有の価値を見出せないことがあるかもしれません。自分の話をして恐縮でありますが、私が中学生の時、驚きをもって発見したことは、「自分が今、この地上からいなくなっても、世界は変わらずにまわり続ける」ということでありました。いや、私だけではない。このことは全ての人に言えることではないだろうか。そう考え、なんだか寂しく思ったのであります。しかし幸いにも後に、人は交換不可能な存在であることにも気づかされました。これはあるお店でアルバイトをしていた時のことでありますけども、子供がお店の中で迷子になる。そして子供は「お母さん」と叫び、探し回る。そのお店には、何人ものお母さんがいるわけです。子供たちを連れたお母さんは、他に何人もいる。しかし、その子供のお母さんは、たった一人しかいない。そして、その子は自分のお母さんにだっこしてもらえるまで泣きやむことはないのです。世の中にお母さんと呼ばれる存在はたくさんいても、わたしのお母さんと呼べる人は、ただ一人なのです。

 私たちが生きている社会というものは、自分を交換可能と見なす「あなたでなくても別によい」という社会と、また交換不可能な「あなたでなくては困る」という社会からなっているのかも知れません。そして、自分の周りから「あなたでなくては困る」という声が聞こえなくなる時、人は自分の存在理由を見失うのだと思います。しかし、聖書の神は、その私たちを見出して下さり、「あなたはわたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と仰せになるのです。あなたは、私の目にはかけがえのない存在であると、神は私たちの存在そのものを喜ばれるのです。

 ファリサイ派や律法学者たちは、イエス様が罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしていると不平を言いました。その不平に応えるように、イエス様は、この人たちは悔い改めた者たちであると仰せになるのです。しかし、このイエス様の言葉を聞いて、ファリサイ派の人々は、果たして納得したのでしょうか。私は、納得しなかったと思います。徴税人や罪人はすっかり罪から自らを清めて、神の掟に従うようになって、イエス様のもとにやって来たのではありません。徴税人であった者が徴税人の仕事をやめてイエス様のもとへやって来たのではないのです。彼らは、いわば徴税人のままで、罪人のままでイエス様のもとへとやって来たのであります。イエス様は、「一人の罪人が悔い改めれば」と仰せになりました。けれども、ファリサイ派の人から言えば、それは悔い改めでも何でもないように見えたわけです。ただ食べたり飲んだりしている罪人の集まりにしか見えなかったのです。けれども、イエス様は、わたしのもとに来ること。それが悔い改めであると仰せになるのです。なぜ、イエス様はそのように言うことができるのか。それは、イエス様が、これから彼らの罪の刑罰をその身に引き受けられるからです。イエス様は、これから、律法を守ることのできないすべての人の刑罰を受けるために、エルサレムへとのぼられるのです。その覚悟をもって、イエス様は罪人を喜んで迎え入れられるのです。

 この10節には、もはや「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」は出てきません。そのことは、全ての人が、神の御前に失われていることを明かにしております。ファリサイ派の人々は自らを正しい者とうぬぼれ、他人を見下しておりました。けれども、神様の聖なる基準からすれば、ファリサイ派の人々も神の掟に従い得ない罪人であったのです。中国の故事に五十歩百歩という言葉があります。戦場で、50歩逃げた兵士が、100歩逃げた兵士を臆病者だと笑った。しかし、どちらの人も逃げたことに変わりがないことから、たいした違いはないという意味の故事となりました。ファリサイ派の人々が徴税人や罪人を蔑んだ。それは神様の目からすれば、まさに五十歩百歩であったわけです。ですから、イエス様は、その譬えの最後に、共に祝おうと呼びかける羊飼いの姿、また女の姿を描くのです。イエス様は、ファリサイ派の人々や律法学者たちをも喜びの食卓へと招かれるのです。神が喜ばれることを共に喜ぼうではないか、と招かれるのです。失われた者を見出し、大喜びされる神、それが私たちの信じる神、イエス・キリストの父なる神であるのです。

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