見失った羊 2005年7月03日(日曜 朝の礼拝)

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見失った羊

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書 15章1節~7節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
15:2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
15:3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
15:4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
15:5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
15:6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
15:7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」ルカによる福音書 15章1節~7節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、ルカによる福音書15章1節から7節より「見失った羊」という題でお話しいたします。

 1節、2節にこう記されています。

 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人を迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。

 徴税人や罪人、これらの人々は、イスラエルの民でありながら、神の民と見なされていなかった人々です。当時、イスラエルは、異邦人であるローマ帝国の属国となっておりました。徴税人は、そのローマ帝国の手先となって同胞のユダヤ人から税金を取り立てておりました。それゆえ徴税人は、裏切り者、売国奴として嫌われていたのです。また、割り当てられた税金よりも、多くの金額を取り立てて私腹を肥やしていたので泥棒と同じように見なされておりました。そして、罪人とは、必ずしも犯罪人を意味するのではなくて、律法を守らない人々のことを指しおります。律法学者の教える細々とした規定、いわゆる口伝律法を守らない人もそこには含まれておりました。ただ積極的に律法に背く人だけではなくて、職業柄、律法を守ることができない人。あるいは、病や障害のゆえに、律法を守ることのできない人も罪人と呼ばれていたのです。

 徴人や罪人、彼らはイスラエルの民でありながら、神の民失格と烙印を押された者たちでありました。それでは、その烙印を押したのは、一体誰なのか。それは、イエス様を非難したファリサイ派や律法学者たちであったのです。彼らは、神の掟である律法を守らない人々を罪人と呼び、神と関わりのない者たちと見なしていたのです。よってファリサイ派の人々にとって、罪人と交わる、ましてや食事を共にするということは考えられないことでありました。ユダヤにおいて食卓の交わりは最も親密な交わりであります。誰と一緒に食事をするのか。そのことによって、その人の社会的地位や人となりが判断される社会であったのです。ですから、罪人と一緒に食事をすることは、自分も罪人の仲間入りをすることであり、自分も罪に汚れると考えたのです。しかし、ここで私たちは、ファリサイ派の人々や律法学者たちを、意地が悪いとか、愛が足りないとか、単純に非難してはなりません。ファリサイ派の人々や律法学者は、当時、最も真面目で善良な人々でありました。彼らは熱心に律法を学び、先祖の教えを、その時代においても完全に守り抜こうとした人々でありました。ギリシャ文明の影響によって、ヘレニズム化していく中で、先祖の教えに固く留まり、イスラエルらしさを保とうとした人々であります。神の民イスラエルの姿はどのようにして、この地上に現れるのか。それは、神の掟を守り、神が王であられることを明かにすることによってである。そう彼らは考えたのです。しかし、そこで、問題が起こります。それは、律法を守ろうとしない人々、守れない人々がいるということです。ユダヤには、シナゴーグ、会堂という制度がありましたから、そこで律法を教えるということはもちろんいたしました。それでも、神の掟に反する者たち、神の掟を守ろうとしない人々がいたわけです。そう言う人々を彼らはどうしたか。彼らは、そのような人々を罪人と呼び、切り捨ててしまったのです。ユダヤの社会から排除しようとしたのです。そして、そうすることが神の喜ばれることであると信じていたのです。ここが大切です。彼らは、ただ自分の思いでそうしていたのではないのです。神様が、そのことを喜ばれる。イスラエルから罪人を排除することを喜ばれる。そう考えていたのであります。もし、神の掟を教える者が、神の掟に背く者と交際するならば、それは神の掟を軽んじることになるのではないか。神の掟を守らなくてもいい、そのような無言のメッセージを発することになるのではないか。そう考え、彼らは罪人と交わりを持たなかったのです。そして、イスラエルの社会は、このようにして秩序を保っていたのです。悪人との交わりを避け、善人と交わる。それは、何もファリサイ派の人々や律法学者たちだけがしていたことではありません。いわば、社会の常識であります。しかし、その社会の常識に反することをイエス様はしておられたのです。ですから、彼らが、イエス様に不平を言いだしたのは、むしろ当然のことと言えるのです。

 イエス様は、彼らに、次の譬えをお話しになります。あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。

 もともと遊牧民であったイスラエルの人々にとって、この「見失った羊」の譬えは、身近で分かりやすいものであったと思います。羊飼いの働きとは、羊の群れを牧草地へと導き、十分な食べ物と飲み水を与えること。また、襲いかかる野獣や、盗み人から、羊を守ることでありました。羊飼いは、長い杖をもっており、その杖で、羊が迷わないように、道を踏み外さないようにと導きました。詩編23篇を思い浮かべていただければ、羊飼いの働きというものは、おおよそ想像することができると思います。羊飼いは、羊の群れを洞窟か、もしくは、石を積み上げた囲いの中に入れる際、羊の数を数えたそうです。イエス様の譬えでも、羊飼いは羊の数を数え、百匹いるはずの羊が九十九匹しかいないことに気がつきます。一匹の羊が途中ではぐれてしまったことに気づくのです。さて、この羊飼いはどうするでしょうか。イエス様は、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回るに違いないと仰せになります。なぜなら、それは彼の羊であるからです。その羊は、本来、その群れにいなければならない存在だからです。失われるということは、本来在るべき場所からいなくなるということです。よって、失われた者は、本来在るべき場所に回復されなくてはならないのであります。イエス様は、「九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回る」ことを当然のこととしてお語りになりました。しかし、ここで「野原」と訳されている言葉は直訳すると、「荒れ野」でありまして、九十九匹を荒れ野に残していくことは、考え難いことです。荒れ野には、羊を襲う野獣がおります。石を積み上げた囲いに入れていたとしても、99匹を荒れ野に残していくことは考え難いことなのです。ここで、私たちが心配に思うことは、むしろ残された九十九匹のことかも知れません。この人は九十九匹をどうしたのだろうか。見失った一匹を見つけ出すために、九十九匹を失うことになりはしないかと入らぬ心配をしてしまうのです。けれども、この羊飼いの関心は、九十九匹には向けられていないのです。ただ、見失った一匹の羊にのみ、彼の関心は向けられているのです。群れからはぐれた羊は、自分の力で帰ってくることはできません。羊は、目の弱い動物であります。近くのものしか見えないためにとても臆病で迷いやすい動物であります。犬のように、臭いをかいで、自分で家に帰ってくることはできないのです。その羊の弱さを知るがゆえに、羊飼いは懸命に見失った羊を捜し回るのです。

 羊飼いは、その羊を見つけると、喜んで肩に担いで連れて帰ります。羊飼いは、自分一人で喜ぶのではなく、友達や近所の人々を呼びを集めて祝宴を開きました。一匹の羊が見つかった喜び。それは、自分の中だけでは収まりきれない。分かち合わずにはおれない大きな喜びなのです。

 この譬え話をうけて、イエス様はこう仰せになります。

 言っておくが、このように悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてより大きな喜びが天にある。

 「悔い改め」とは神に立ち帰ることです。また、「大きな喜びが天にある」とありますから、先程の羊飼いは、主なる神のことを指していたことが分かります。聖書は、しばしば、神とイスラエルとの関係を羊飼いと羊の群れに譬えて語っております。ですから、ファリサイ派の人々や律法学者たちも、この羊飼いが神様のことを指していると、すぐに気づいたと思います。けれどもここで、イエス様が教えておられる神様の姿は、彼らが信じていた神様の姿とはかけ離れたものでありました。彼らは、律法を守らない人々、また守れない人々を罪人と呼び、切り捨てる。そのことによってイスラエルを聖なる民にしようといたしました。旧約律法の至るところに、「わたしは聖なるものであるから、あなたたちも聖なる者となれ」と記されています。イスラエルが聖なる者となる。それをどうやって実現するのか。目の前には、神の律法を守らない人々がいる。また、守れない人々がいる。神様の期待と現実をどうやって一致させるのか。彼らはそれを、罪人を切り捨てる。ユダヤの社会から排除するという仕方で実現しようとしたのです。そして、それは、神の御心に適うことでもあると信じていたのです。当時のユダヤのことわざには、次のようなものがありました。「神を怒らす者どもがこの世から消え去る時、神の御前に喜びがある」。これは、イエス様が教えられる神様とは全くかけ離れております。また、当時のラビたちは、「罪人についてそうであるなら、まして義人についてはなおさらである」と教えておりました。神様の目は、罪人よりも義人に、律法を守るものに注がれている。そう彼らは考えていたのです。しかし、イエス様が教えられたことは、これと全く逆のことでありました。私は、今朝の説教を準備しながら、この7節の言葉、「悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも」という比較の言葉を、なぜイエス様は言われたのだろうと悩みました。なぜ、イエス様は「悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも」と仰せになられたのか。そう考え抜いた末に、私がたどりついた結論は、イエス様はここで、ファリサイ派の誤った教え、誤った考え方を援用しているのではないかということです。イエス様は、ここでファリサイ派の人々の語り口を用いて、悔い改める一人の罪人について、神様がどれほど喜んでおられるかを教えられたのです。神は、九十九匹が無事であれば、一匹はいなくなっても仕方ないというお方ではありません。そうではなくて、九十九匹を荒れ野に放置されるほどに、この見失った一匹を捜し求めるお方なのです。

 ファリサイ派の人々、彼らは、自分は正しい者だとうぬぼれて、他人を見下していた人々でありました。そのような人々をイエス様はここで、「悔い改める必要のない九十九人の正しい人々」と言い表したのです。ファリサイ派の人々は、自分たちは律法を守っている、自分たちは神に喜ばれていると考えていました。神の掟を守っていない罪人よりも神は自分たちを喜んでいてくださる、そう信じていたのです。けれども、イエス様がお越しになって、その事態が逆転するのです。神は、ファリサイ派や律法学者よりも、徴税人や罪人を喜んでくださる。それはなぜか。それは、徴税人や罪人たちが、イエス様の話を聞こうと集まってきたからです。彼らが、イエス様のもとに集うことによって、神へと立ち帰ったからです。

 誤解のないように申しますけども、ここでイエス様は、彼らの自己理解を用いられただけでありまして、ファリサイ派の人々は悔い改める必要がないと仰っているわけではありません。なぜなら、イエス様は、7章29節、30節でこう仰せになられたからです。

 民衆は、皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ。

 ヨハネの洗礼とは、悔い改めの洗礼でありました。そして、イエス様はファリサイ派や律法の専門家たちもその洗礼を受けるべきであった。それが神の御前に正しいことであったと教えているのです。そうであるならば、「悔い改めを必要としない」と言われるのは、イエス様、神様の方からではないことが分かります。神様が、ファリサイ派の人々を御覧になって、あなたたちは悔い改める必要がないと言われるのではありません。それでは、誰が「悔い改める必要がない」と判断しているのか。それは、自分たちを正しい者と考える彼ら自身なのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、自分を正しい者と考えていたために、イエス様のもとに立ち帰ることができなかったのです。そればかりか、イエス様のもとに立ち帰った人の喜びの食卓を台無しにしようとするのです。イエス様は、徴税人や罪人を喜んで迎え入れ、食事を共にになされました。ここに一匹の羊を見つけ出した祝宴がすでに始まっているのです。

 イエス様は、見出された一匹の羊を、悔い改める一人の罪人と仰せになりました。しかし、よく考えてみますと、この羊は自分の力で羊飼いのもとへと戻ってきたわけではありません。この羊が戻って来れたのは、羊飼いに見出され、その肩に担われることよってでありました。同じように、人は誰も自分の力によって、神へ立ち帰ることはできないのです。私たちが、神のもとへと立ち帰ることができた。立ち帰って、今、イエス様と食卓を囲むことができる。それは、ひとえに良い羊飼いであるイエス・キリストが私たちを愛してくださったゆえなのです。イエス様は、ヨハネによる福音書10章11節で「わたしは良い羊飼い。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」と仰せになりました。そのイエス様が私たちを担い、父なる神の御許へと連れ戻してくださったのです。そして、そのことを何より神様ご自身が喜んでくださる。私たちに先立って、神様が私たちを喜んでおられるのです。その神の喜びを、私たちは今朝、パンとぶどう酒を通して味わい知りたいと願います。

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