復活されたイエス 2021年4月04日(日曜 朝の礼拝)

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復活されたイエス

日付
説教
村田寿和 牧師

聖書の言葉

28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
28:3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
28:8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。
28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。
28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。
28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイによる福音書 28章1節~10節

メッセージ

 今朝は、イエス・キリストの復活を記念するイースターの礼拝であります。今朝は、『マタイによる福音書』の第28章から御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 イエス様の復活の証人となったのは、婦人たちでありました。この婦人たちは、1節によれば、「マグダラのマリアともう一人のマリア」であります。マグダラのマリアは、イエス様から七つの悪霊を追い出していただいた女であります(ルカ8:2参照)。また、もう一人のマリアとは、ヤコブとヨセフの母で、イエス様の母マリアであります。この二人は、イエス様の十字架の死の目撃者であり、イエス様が墓に葬られたことの目撃者でありました(27:56、61参照)。その婦人たちが、週のはじめの日の明け方、日曜日の朝早く、イエス様のお墓を見に行ったのです。なぜ、婦人たちは、イエス様のお墓に行ったのでしょうか。『マルコによる福音書』を見ますと、イエス様のご遺体に油を塗って、丁重に葬るためであったと記されています(マルコ16:1参照)。イエス様を愛する二人の婦人は、イエス様のお体に油を塗って、自分たちの手で丁重に葬りたいと願ったのです。しかし、一つ問題がありました。イエス様が葬られたお墓は岩を掘ったもので、入口には大きな石が転がしてありました(マタイ27:60参照)。その大きな石をどうするかが婦人たちにとって問題であったのです。婦人たちが墓に着くと、大きな地震が起こりました。そして、主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのです。天使の姿は、稲妻のように輝き、衣は雪のように白かったとあります。その天使が婦人たちに、こう言うのです。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。婦人たちが捜しているのは、十字架につけられたイエス、死んで墓に葬られて横たわっているイエスでありました。しかし、天使は、「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と言うのです。天使が大きな石を転がしたのは、イエス様を墓から外に出すためではなく、イエス様が復活して、墓の中にはいないことを婦人たちに見せるためであったのです。天使の言葉、「復活なさったのだ」という言葉は、元の言葉を見ると、受動態(受け身)で記されています。つまり、イエス様は神さまによって復活させられたということです。イエス様は、かねてから、弟子たちに、御自分の死と復活について予告しておられました。イエス様は、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したときから、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められたのです。十字架につけられて死んで、三日目に復活すること。それが、聖書に記されている私の定めであると、イエス様は弟子たちに教えられたのです。そのイエス様の御言葉を、婦人たちも聞いていたのでしょう。そのイエス様の御言葉を思い起こさせて、そのイエス様の御言葉のとおり、イエス様は復活させられたのだと、天使たちは告げたのです。その状況証拠として、空っぽの墓を見せるのです。

 先週は、受難週でありまして、『詩編』の第22編からお話ししました。それは、イエス様が十字架の上で叫ばれた御言葉、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という御言葉が、『詩編』第22編の冒頭の言葉であったからです。イエス様は、十字架の上で、『詩編』第22編を祈られたのです。このことは、イエス様が、神様は自分を決してお見捨てにならないと信じて十字架の死を死なれたことを教えています。なぜなら、『詩編』第22編は、その結びで次のように歌っているからです。「わたしの魂は必ず命を得/子孫は神に仕え/主のことを来たるべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの業を/民の末に告げ知らせるでしょう」。イエス様は、復活の希望をもって、十字架の死を死なれました。そして、その十字架の死によって、主の救いの御業を成し遂げてくださったのです。弟子たちに、復活することを予告されたイエス様は、十字架のうえにおいても、復活することを信じていたのです。そのイエス様の信頼に応えて、神様は、イエス様を死から三日目に、週の初めの日に復活させられたのです。

 天使は婦人たちに、こう言います。「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」。この「弟子たち」は、イエス様が捕らえられた夜、イエス様を見捨てて逃げてしまった弟子たちであります(26:56参照)。一番弟子であるペトロは、呪いの言葉さえ口にして、イエス様との関係を三度否定しました(26:74、75参照)。そのような弟子たちのところに行って、「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」という福音を伝えよと、天使は命じるのです。この天使の言葉は、今朝、私たちに告げられている福音、良き知らせであります。十字架につけられたイエスは、復活させられて、今も活きておられる。それが、私たちにとっての福音、良き知らせであるのです。なぜなら、イエス・キリストの復活は、神様の救いがイエス・キリストの十字架において成し遂げられたことの確かな証し、確証であるからです。イエスさまが十字架の死によって成し遂げられた救い、それは何よりも罪からの救いでありました(1:21参照)。イエス様は、私たちの罪を担って、十字架の死を死んでくださったのです。イエス様は、御自分の罪のために、十字架の死を死なれたのではありません。御自分の民である私たちの罪を担って、十字架の死を死んでくださったのです。そのようにして、御自分を信じるすべての者を、神様の御前に正しい者とし、神様と共に生きる者としてくださったのです(イザヤ53章参照)。そのことの確かな証し、確証として、神様は、イエス様を十字架の死から三日目に復活させられたのです。また、イエス・キリストの復活の知らせが、私たちにとっての福音、良き知らせであるのは、イエス・キリストを信じる私たちも、イエス・キリストと同じように、栄光の体で復活させられるからです(一コリント15:20「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」参照)。ですから、イエス・キリストの復活をお祝いすることは、自分たちの復活を、前もってお祝いすることでもあるのです。

 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行きました。すると、驚くべきことに、イエス様が行く手に立っていて、「おはよう」と言われたのです。ここで「おはよう」と訳されている言葉(カイレテ)は直訳すると「喜びなさい」となります。復活されたイエス様が、私たちにかけてくださる第一声は、「喜びなさい」であるのです。私たちは、今、喜べない状況にあるかも知れません。しかし、イエス様は、その私たちに、「喜びなさい」と言われるのです。

 また、イエス様は、婦人たちにこう言われました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。ここで、イエス様は、弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と言われました。御自分を見捨てて逃げた弟子たちを、「わたしの兄弟たち」と言われるのです。このことは、イエス様が弟子たちを赦していることを示しています。弟子たちはイエス様を見捨てて逃げてしまいましたから、会わせる顔がなかったと思います。しかし、イエス様は、その弟子たちを「わたしの兄弟たち」と言われるのです。イエス様は、今朝、私たちにも、「わたしの兄弟姉妹たち」と言われます。私たちが罪を犯して、イエス様に会わす顔がないと思っても、イエス様は、私たちのことを「わたしの兄弟姉妹たち」と呼ばれるのです。

 イエス様と弟子たちの再会の場所、それはガリラヤであります(26:32も参照)。ガリラヤはイエス様が宣教を開始された場所であり、弟子たちと親しく過ごした場所でありました。そのガリラヤで、復活されたイエスは弟子たちを待っておられるのです。では、私たちにとってイエス様にお会いすることができるガリラヤはどこでしょうか。それは、イエス様の御名によって、二人または三人が集まる教会であります(18:20参照)。教会こそ、私たちにとってのガリラヤであり、イエス様にお会いすることができる場所であるのです。

 十一人の弟子たち(12人からイスカリオテのユダを除いた弟子たち)は、ガリラヤに行き、イエス様が指示しておかれた山に登りました。この山は、イエス様が山上の説教を語られた山ではないかと考えられています。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」とお語りになった山で、イエス様は弟子たちと再会されるのです。弟子たちは、イエス様に会うとひれ伏しました。「ひれ伏した」とは「礼拝した」ということです。しかし、ひれ伏しながら疑う者もいたのです。復活されたイエス様を見て、イエス様を礼拝しておりながら疑う者たちがいたのです。しかし、その疑いを吹き払うように、イエス様は近寄ってくださいました。そして、御言葉を語ってくださるのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。復活されたイエス様は、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言われます。この御言葉の前提は、「神様だけが天と地の一切の権能を持っている」ということです。天と地の一切の権能を持っている神様から、イエス様は天と地の一切の権能を授けられたのです。旧約聖書の『ダニエル書』の第7章に、「人の子のような者が『日の老いたる者』から権威、威光、王権を受けた」という幻が記されています。その幻の実現として、復活されたイエス様は、天と地の一切の権能を授けられたのです。「権能」とは「従わせることができる権利と力」を意味します。イエス様は、天と地の一切を従わせることができる権利と力をお持ちであるのです。ですから、イエス様は弟子たちに、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われるのです。イエス様は、日本人に対しても、従わせることができる権利と力を持っておられます。ですから、イエス様は、すべての日本人を御自分の弟子にすることを求めておられるのです。そのために、私たちは、日曜日の朝に集って、復活されたイエス様にお会いして、礼拝をささげているのです。何度も申しますように、伝道の最前線は礼拝であります。なぜなら、礼拝においてこそ、父と子と聖霊の名によって洗礼が授けられるからです。礼拝においてこそ、私たちは、イエス様の教えを学ぶことができるからです。そして、礼拝においてこそ、私たちは、イエス・キリストが世の終わりまで、いつも私たちと共にいてくださることを体験することができるからです。復活されたイエス・キリストは、今、天におられます。天と地の一切の権能を授けられた御方として、父なる神の右に座しておられます。そのイエス・キリストが、私たちと、どのように共にいてくださるのか。それは、イエス様が遣わされる聖霊と、イエス様が語ってくださる御言葉においてであります。聖霊と御言葉において、イエス様がいつも共にいてくださる。そのイエス様において、神様が共にいてくださるのです。私たちは、イエス・キリストにおいて、「神は我々と共におられる」というインマヌエルの祝福にあずかっているのです(1:23参照)。ですから、私たちは、恐れることなく、大胆に、イエス・キリストの福音を宣べ伝えていきたいと願います。「十字架につけられたイエス・キリストは、死者の中から復活されました。教会でささげる礼拝において、復活されたイエス・キリストは、あなたに出会ってくださいます」。そのように、私たちは大胆に宣べ伝えていきたいと願います。

お祈りいたします。

主イエス・キリストよ。

十字架の死から復活されて、天と地の一切の権能を授けられた、あなたの御名を心からほまたたえます。あなたが、ガリラヤならぬ、教会の礼拝において、私たちに出会ってくださり、「わたしの兄弟姉妹たち」と親しく呼びかけてくださる恵みを感謝いたします。どうぞ、私たちがあなたのご命令に従って、すべての人に福音を宣べ伝えていくことができますように。あなたの教会である私たちの歩みを、聖霊と御言葉によって守り導いてください。

主の御名によってお祈りいたします。

アーメン。

(主の2021年4月4日 主の日の礼拝 イースター)