目を覚ましていなさい 2005年3月06日(日曜 朝の礼拝)

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目を覚ましていなさい

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
ルカによる福音書  12章35節~48節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。
12:36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
12:37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。
12:38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
12:39 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。
12:40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
12:41 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、
12:42 主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。
12:43 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。
12:44 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
12:45 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、
12:46 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。
12:47 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。
12:48 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」ルカによる福音書  12章35節~48節

原稿のアイコンメッセージ

 40節に、「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」とありますように、今朝の御言葉では、イエス様が栄光のお姿で来られるまでの、弟子たちのあるべき姿が教えられています。突然、ここで、イエス様が再臨についてお語りになることを、不思議に思うかも知れません。けれども、イエス様は、ペトロの信仰告白の後、御自分の死と復活について既に予告されておりました。イエス様は弟子たちを戒め、御自分がメシアであることを誰にも話さないように命じて、次のように言われました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。また、こうも仰せになりました。「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分の父と聖なる天使たちとの栄光に輝いてくるときに、その者を恥じる」。このイエス様の言葉は、先程の40節と同じ響きを持っています。この「人の子」とは、イエス様が御自分のことをいう時の決まった言い回しです。なぜ、イエス様は御自分のことを「人の子」と呼ばれたのか。それは、この言葉が、当時それほど明確な意味を持っていなかったからであると考えられています。「ダビデの子」や「メシア」といった呼び名よりも意味が曖昧であったのです。イエス様は、その「人の子」に、御自分がどのようなメシアであるかの意味を盛り込み、弟子たちに教えられたのです。そして、イエス様が教える来たるべきメシアとは、苦難の僕にして、栄光の人の子なのであります。イザヤ書53章とダニエル書7章に描かれる人の子が重なった姿、それがイエス様の教えるところのメシアの姿でありました。今朝の御言葉では、苦難の僕よりも、かの日にあらわれる栄光の人の子に比重が置かれています。ダニエル書の7章にはこのように記されています。

 夜の幻を見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み/権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。

 このダニエル書の預言を念頭に置きつつ、今朝の御言葉に聴いていきたいと願います。

 イエス様は、弟子たちにこう仰せになります。「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐあけようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」

 時は、夜です。主人は、婚宴に出かけています。当時、婚宴はいつ終わるか分かりませんでした。38節にあるように、終わるのが真夜中になるのか。あるいは、明け方になるのか。全く予定が立たなかったのです。僕は家で、その主人が帰ってくるのを待っている。いわば、寝ずの番をしているのです。この「腰に帯を締める」とは、長い裾をからげて、すぐに行動に移ることのできる姿勢のことを言います。通常、夜はくつろいで帯をはずすものですが、イエス様は、腰に帯をしめ、いつでも主人を迎える用意をしておくようにと言われたのです。主人の帰りを今か、今かと待つ僕のようにしていなさい、とイエス様は仰せになるのです。また、イエス様は、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだと言われます。なぜなら、主人自らが、帯を締めて、この僕たちを食卓に着かせ、そばに来て給仕してくれるからです。主人が僕に給仕する、これは本来あり得ないことであります。そして、このことは、この主人が他でもないイエス様ご自身であることを暗示しているのです。イエス様は、主の晩餐の席において、「食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなた方の中で、いわば給仕する者である」と仰せになります(ルカ22:27)。また、ヨハネによる福音書の13章では、イエス様自らが、弟子たちの足を洗うのです。当時、足を洗うことは、奴隷の仕事でありました。そのことをイエス様は弟子たちになされたのです。ですから、この主人は、まさしくイエス様ご自身を表しているのであります。

 この「目を覚ましている」というのは、文字通りに言えば、眠らないということですが、信仰的に言えば、いつも生き生きとした信仰に生きているということです。主がいつ帰ってきても喜んで迎えることができる。それが目を覚まして待つということです。私たちは、日々、祈りの時を持ち、祈祷会や、礼拝に出席することによって、緊張感をもって主の再臨に備えたいと願います。

 続けてイエス様はこう仰せになります。「このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやってくるかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。

 今度は私たちが家の主人に例えられています。そして、この「泥棒」は、「人の子」であるイエス様ご自身を指しています。イエス様は、御自分を泥棒に例えられてまで、かの日が、突然やって来ることを教えられたのです。泥棒と聴きますと、来てほしくないものであります。先程の給仕してくれる主人とは違って、ありがたくないものです。しかし、イエス様の再臨は、用意をしていない者にとっては確かに破滅の日であるのです。なぜなら、イエス様は教会の主であるばかりでなく、全世界の主でもあるからです。使徒パウロは、テサロニケの信徒への手紙一の5章で次のように語っています。

 兄弟たち、その時と時期についてはあなたがたに書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ。安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそこから逃れられません。しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、他の人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。眠る者は夜眠り、酒に酔う者は夜酔います。しかし、わたしたちは昼に属していますから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいましょう。神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。

 私たちも、このテサロニケの教会の人々のように、互いに励まし合い、信仰のともし火を燃やし続ける者たちでありたいと願います。

 イエス様の話の腰を折って、ペトロがこう尋ねます。「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それともみんなのためですか」。

 ここで、ペトロがいう私たちとは、使徒である12人を指していると考えられます。ペトロを初めとする使徒たちは、後に教会の礎を築いた人たちでありました。ペトロも、ヨハネもその手紙において、自分のことを「長老」と呼んでいます。今でいえば、牧師、長老、執事という教会を指導する立場の人に対して言われたのか。それとも、全ての教会員に対して語られたものなのか、とペトロは問うたのです。

 イエス様は、そのペトロの質問に直接答えられず、こう仰せになりました。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるに違いない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる」。

 イエス様は、ペトロの言葉に応えられるかのように、教会指導者たちを念頭においてたとえを語られています。ここで、まず注目したい言葉は「主人が召し使いたちの上に立てて」という言葉です。教会指導者は、主が立ててくださった。このことを先ず覚えたいと思います。今朝の週報に政治規準から一部抜粋したものを挟んでおきましたが、私たちの教会では、一切の教会権能をつかさどる教会役員として、教師、治会長老、執事が立てられています。そして、この教会役員はどれも、主が召して、私たちの上に立ててくださった人たちなのです。政治規準の言葉で言えば、主の召命を受けた人たちなのであります。その第116条に、召命の教理というものがありますが、そこにはこう記されています。

 教会における職務は、聖霊による神の召命によって任じられる。この召命は、通常、良心の内的なあかし、教会員による明白な認可、教会会議による判定を通して明かとなる。

 例えば、教師になりたいという思いが与えられた人がいたとします。少なくとも、自分は将来牧師になりたいと思う。しかし、他のすべての教会員がもし反対するならば、つまり、その人が牧師にむいていないと判断するならば、その召命は本物であるかどうかが怪しいということなのです。もし、その召命が神様からのものであれば、神の民もそのことを認めるはずであります。ですから、「良心の内的なあかし」という内的召命と「教会員による明白な認可、教会会議による判定」という外的召命が一致したところに、神様からの召しがあると考えられているのです。

 天におられるイエス様は、聖霊における召しによって、教会役員を立ててくださいます。しかし、それは教会員の上にたって、権力を振るうためではありません。むしろ、教会の一番底辺に立って、皆に仕えるために教会役員が立てられているのです。弟子たちに給仕してくださったイエス様の模範に倣って、仕えるというかたちで教会権能を行使するのであります。そして、ただ主が召してくださったゆえに、教会役員は謙遜へと導かれるのです。主がこの私を役員として立ててくださった。この主からの期待に応えようと忠実に振る舞う。これが教会役員の健全な姿勢なのです。また、教会員には、主が立ててくださった器である教会役員を重んじることが求められます。もっと大胆に言えば、主が教会に備えてくださった賜物として喜ぶことができるのです。私たちの牧師、私たちの長老、私たちの執事、そのようにその方を喜び、共に主に仕えていく。これが教会員の健全な姿勢なのです。また、主イエスが、教会役員を立ててくださったことは、教会の全ての営みを最も深いところでイエス様が支えておられることを教えています。教会の全ての営みを最も深いところで支えておられるのは、主イエス・キリストであられるのです。

 教会役員は、委ねられた権限が大きいゆえに、その誘惑も大きなものとなります。その最たるものが、「主人の帰りは遅くなる」と心に思い込むことです。イエス様の再臨はまだまだ先だろうと思い込むのです。そして、自分が僕であることを忘れて、主人のように振る舞う。主人から言われたことを忘れて、自分の欲望のままに振る舞うようになるのです。けれども、主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来る。そして、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせるとイエス様は警告されるのです。 

 さらにイエス様はこう仰せになります。「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」。

 このイエス様の言葉を聴くと、教会役員の方は何だか損な気分になるかも分かりません。しかし、私たちはその報いにも正しく目を向けるべきです。43節でイエス様はこう仰せになっています。主人が帰って来た時、言われた通りにしている僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。

 主の期待を裏切るならば、その罰は厳しいものとなりますが、主の期待に応えるとき、その報いも大きなものとなるのです。先週、私たちは「天に宝を積みなさい」というイエス様の言葉を共に学びました。言ってみれば、教会の奉仕をするということは、天に宝を積むということであります。そして、それは何も、教会役員だけに限られたことではありません。私たちの一切の奉仕が天に宝を積む行為なのです。私がまだ、信仰に入って間もない頃、主の日の午後に、教会の物置を片付けておりました。夏でしたから、汗をかきながら、一人で片づけをしておりました。教会堂では、執事会をやっておりまして、終わったのでしょう。ある執事さんが出てきて、私を見てこう言ったのです。「村田君、天に宝がたくさん積まれたねぇ」。そう聞いたとき、何ともうれしく思いました。目に見える報酬がないのに働くなんてばからしい、そう思っていた私が、その言葉を聞いて嬉しく思ったのです。主に仕える喜び、それはここに集う全ての人が知っている喜びであると思います。その喜びに生きている私たちが、どうして、眠りこけることができましょうか。目を覚ましているのは、私たちが主人を恐れるからではありません。私たちは主イエスを愛するゆえに、目を覚まして待っているのです。それはちょうど花嫁が花婿を待っているのと同じであります。主イエスが来られるとき、真っ先に出迎えたい。そして「よくやった。忠実なよい僕よ」と言って頂きたい。ただこのイエス様への思いが私たちの目をいつも覚まさせてくれるのです。

これから、私たちは聖餐にあずかります。そこでは、イエス様に代わって長老たちが皆さんに給仕するのです。そして、私たちは、この聖餐を通して、かの日にあずかる祝宴の前味をも味わうことができるのです。この聖餐を通して、私たちの思いを、再び来て下さる主イエス・キリストへと向けたいと願います。

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