2022年02月06日「一致する教会・後」

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聖句のアイコン聖書の言葉

12節 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
13節 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
14節 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
15節 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
16節 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
17節 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
18節 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
19節 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
20節 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
21節 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
22節 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
23節 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
24節 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
25節 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
26節 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
27節 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
コリントの信徒への手紙一 12章12節~27節

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説教の要約

「一致する教会・後」コリント信徒への手紙一12章12節~27節

先週に引き続き、今年度の年間テーマ「教会の一致」について本日は21節以下の御言葉を中心にして教えられたいと願っています。先週は「足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない(15節)」とこのように、足が手に対して劣等感を抱いて、体から出ていこうとする、この教会員の自己卑下による群れからの離脱が問題とされて、議論が展開されていきました。しかし、今度は「目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず」、とありまして、逆にこれは、教会の中で強い者が弱い者を追い出そうとしている、そのような動きを咎めているわけです。実際、コリントの教会で、こういう痛ましい状況が見られたのでしょう。それに対して、パウロは、「お前は要らない」どころか、実は「お前は要らない」と言われる部分が「かえって必要」だと言うのです。目や頭があっても、手足がければ、動くことが出来ません。目や頭は、むしろ手と足に依存しているからです。コリントの教会が、強い者と弱い者で大きく分かれていたその基準は、まず経済力の差が挙げられましょう。或いは、古代ローマ社会におきまして識字率は、5%に満たなかったと言われていますので、そのような学識の差、これも信徒の間で、強い者と弱い者を分ける基準になったと思われます。たくさん献金が出来て、教養がある、そう言う信徒の一部の者が教会内で幅を利かせ、貧しい信徒や、読み書きのできない信徒を蔑んでいたわけです。パウロは、そのコリントの教会の現状に対して、「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」、とこのように指摘したのです。これはこの世の論理と正反対の神の国の論理です。この世は、常に強い者が強いのです。だから差別が生まれるのです。しかし、神の国、そしてその出張所ともいえます教会では、強い者が弱く、弱い者が強いのです。パウロは、教会でありながら、この世の論理に染まり切っているコリントの教会を、神の国の論理で諭しているのです。パウロはさらに「体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします(23節)」と弱い部分を積極的に発展させます。「見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします」これは言い換えると「体系カバー」です。古代から人間は「体系カバー」をしてでも、体全体をよく見せたいという願望があったわけです。パウロはこの人間の習性をそのまま一つの体である教会に当てはめているわけです。

 そして、より大切なのは、このウイークポイントの配慮が、人間の習性だけではなく、神の創造の御業に遡ることです。「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。(24節)」私たち人間は、それぞれウイークポイントを見つけた時、「体系カバー」のような方法でよく見せようと工夫します。しかし、それはあくまでもカバーに過ぎず、実体は何ら変わらないのです。

ところが、「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」、とこのように神は、積極的に見劣りのする部分を用いて、私たちの体を創造されたのです。創り主である神は、ウイークポイントをカバーするどころか、それを積極的に用いる形で、私たちの体を作られたのです。それが神の創造の御業なのです。創り主にあっては、私たちは、自分の体をcover、と覆うのではなくて、discover、つまり発見することさえ許されるわけです(この礼拝の招きの詞で与えられた詩編139:13~16を参照ください!)。そして、私たち人間の体が、この神の創造の御業の驚くべき作品であるゆえに体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っている(25節)、パウロは、これをそのまま教会に適用するわけです。私たちが体のその弱い部分を配慮してよく見せようとする、これは当然のことです。しかし、教会に分裂が起こらず、調和が生まれるのは、神が、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられたから、つまり教会が神の作品であるからなのです。これが大切なのです。教会は私たちの心がけや、私たちの意志で分裂が起こらないのではない。私たちが、配慮しあって調和が生まれるのでもない。神の作品だからです。神が、まるでご自身が創造された人間の肉体のように、調和のとれた体として、教会を建てて、信徒を集めてくださったから、そこに分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合って、調和がとれているのです。それゆえに、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(27節)」と結論づけられるのです。

ところが、実際このコリントの教会は、非常に問題の多い群れでありまして、一致するどころか、倫理的な腐敗が蔓延り、紛争の絶えない、そう言う教会でありました(1:10、12、5:1、6:1参照)。

信仰的も、倫理的にも、これが教会ですか、と疑いたくなる信徒の群れ、叩けばいくらでも埃が出てくるような痛ましい集会、それがコリントの教会であったのです。

しかし、パウロは、その教会に対して、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」と言ってはばからないのです。パウロは、あなたがたはキリストの体になりなさい、とは言っていません。あなたがたはキリストの体であり、とこのように断言しているのです。どうしてでしょうか。それは、神がこのコリントの教会の作者だからです。神がコリントの地に教会を建て、一人一人の信徒を集めてくださったから、その群れにつながれ、一人一人はキリスト体の部分なのです。ここに「一致する教会」の本質があるのではないでしょうか。私たち信仰者一人一人は、罪深く汚れた存在ですが、十字架の贖いによって、神に招かれた群れ、それが教会です。だから、パウロは、コリントの教会がどのような群れであっても、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」と宣言するのです。結局続編のコリント第二の手紙の最後まで、パウロがコリントの教会に煩わされていたことが伺えます。しかし、このコリント第二の手紙は、非常に有名な祝祷の言葉で終わります。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。(13:13)」これです。これは私たちの教会の礼拝の最後の祝祷でも毎週用いられ、恐らく、改革派教会の群れでも、これほど多用される祝祷の御言葉はないでしょう。実に一番乱れた群れに、教会史の中で世の終わりまで、最も用いられる祝祷が用意されたのです。これ以上ひどくなりようがない教会の現場から、この祝祷は生まれこの祈りは始まったのです。これが神の御業ではありませんか。礼拝式文では、これ以外にも祝禱の聖書個所が参照されていますが、今の私の信仰におきまして、これ以外の祝禱は出来ません。皆さんをそれぞれの場所に送り出すのに、これ以上の派遣の祈りはないからです。この群れの中には、休む暇もなく毎日夜遅くまで勤しまれる方がおられる、家庭や職場に悩みを抱えておられる方もおられる、悲しむ方も病の方もおられる。しかし、傷だらけの教会にパウロが最後に送った言葉は、三位一体の神にある平安であったのです。パウロは「一致する教会」を三位一体の神に委ねて、筆を置いたのです。この年、私どもは、この伝道者の愚直な信仰に学びたいのです。私たちがいかに疲れていても、困難を抱えていても、或いは罪深くても、「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」この御言葉は、何一つ変わらない。そして、その根拠にあるのは、「仰ぎ乞い願わくは、我らの主イエスの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき御交わりが、会衆一同と共に限りなくあらんことを。アーメン。」、この永久の祈りなのです