2022年01月23日「一日中手を差し伸べた」

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聖句のアイコン聖書の言葉

18節 それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。
19節 それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、「わたしは、わたしの民でない者のことであなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。
20節 イザヤも大胆に、「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。
21節 しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。
ローマの信徒への手紙 10章18節~21節

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説教の要約

「一日中手を差し伸べた」ローマ信徒への手紙10章18節~21節

先週御言葉の最後の17節で、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」、と大切な真理が示されました。信仰の原点は、キリストの言葉であり、御言葉の説教である、と聖書は明確に宣言するのです。本日の御言葉では、それでも信じなかったイスラエルのために二つの弁明が試みられます。それは、「彼らは聞いたことがなかったのだろうか。(18節)」ということと、「イスラエルは分からなかったのだろうか(19節)」、この二つです。しかし、両方とも苦しい言い逃れで、すぐに却下されます。ところが、このその場しのぎが、結局、思いもよらぬ真理を導き出す契機となるのです。パウロは、ここでも旧約聖書の御言葉を用いてその真理を導き出します。「このことについては、まずモーセが、「わたしは、わたしの民でない者のことであなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。(19節)」、これは、荒れ野の40年の旅の終わりに、約束の地カナンに入る直前に語られた申命記のモーセの告別説教のしかもエピローグ部分にあります「彼らは神ならぬものをもって、わたしのねたみを引き起こし、むなしいものをもって、わたしの怒りを燃えたたせた。(申命記32:21)」、この神のメッセージの続きからの引用です。つまり、出エジプトと荒れ野の40年を総括したイスラエルの姿がここで謳われているわけです。しかし、それにしては、なんと不信仰な民の姿が描き出されていることでしょうか。結局神の民イスラエルは、偶像崇拝者の集まりである、ということだからです。しかし、その不信仰なイスラエルに対して、「それゆえ、わたしは民ならぬ者をもって彼らのねたみを引き起こし」、と主なる神は言うのです。神がイスラエルを妬んだように、イスラエルにも神を妬ませる、ということです。実に、これが親子関係ではありませんか。イスラエルの父なる神は、我が子イスラエルを愛するがゆえに、彼らが偶像崇拝に耽る時、妬むのです。逆に、父なる神様が、我が子イスラエルではなく、他の民を実の子のように養えば、本当の子どもであるのなら、今度はイスラエルが妬むのではありませんか。いいえ、親である以上そうあってほしいのです。妬んででも立ち帰って欲しいのです。親子の愛が正常であれば、その愛は妬みさえ生み出すのです。

 さらにパウロは「イザヤも大胆に、「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。(20節)」、とこのようにイザヤ書を引用して(イザヤ書65:1参照)、証拠聖句とします。ここは、最も簡潔に申し上げれば、異邦人の救いの預言です。しかし、大切なのは、それは、イスラエルと無関係には語られていない、ということです。

聖書は、異邦人の救いを神の民イスラエルと無関係には語らないのです。「わたしを探さなかった者たち」、というのは、私を探す者たちがいて初めて成り立つ言葉です。また、「わたしを尋ねなかった者たち」、これも同様に、私を尋ねる者たちがいるから成り立つ言葉です。ところが、私を探すはずの者たち、私を尋ねるはずの民であるイスラエルが、それを放棄したから異邦人に救いが向けられた、ということなのです。これが非常に大切です。簡潔ではありますが、実にこれが旧新両約聖書を貫くイスラエルと異邦人の救いの関係であり、我が民イスラエルを妬むほどに愛される神が、そのイスラエルとの関係で異邦人の救いも用意された、というこの真理が、この後11章終わりまで続くこのローマ書のイスラエル問題を解くカギにもなるからです(これは11章以下で詳しく教えられます)。

以上のように、結局パウロがイスラエルのために用意した弁明は、旧約聖書を網羅した御言葉の引用によって、ことごとく砕かれてしまいました。イスラエルは、確かに福音を聞いて理解した。ところがその上で、福音を無視した。その結果救いは異邦人に向けられた。もはやジ・エンドです。

しかし、まだ終わりではないのです。「しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。(21節)」、とこのように御言葉が言うからです。ここでは異邦人の救いが示されたにもかかわらず、再びイザヤ書の御言葉が引用され(イザヤ書65:2参照)それでも尚、イスラエルの救いが残されていることが示されるのです。すなわち「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」、と御言葉が言います時、神は最後の最後までご自身の民の立ち帰りを待っておられるということです。これは、あの放蕩息子のたとえ(ルカ15:11~24)の旧約版で、「一日中手を差し伸べた」、これは、罪人の立ち帰りを、来る日も来る日も遠くを眺めて待ち続けてくださる神様の姿です。しかも、その対象は、「不従順で反抗する民」なのです。つまり、正しくなくてもいいのです。罪も咎もあるまま、悔い改めて一日中手を差し伸べて待ってくださる父なる神の許に帰ればいいのです。私たちの罪は、主イエスが十字架で全て洗い流してくださった、だから何も償わなくてよろしい。ただ立ち帰ること、これが福音です。

 それでは、今私たちの置かれた現実の中でこの立ち帰りの福音はどのように響くでしょうか。

 一つは、この立ち帰りの福音にはジ・エンドがない、ということです。この地上の歩みの最後の最後まで、立ち帰りのチャンスはある、ということです。今日も主なる神は、一日中手を差し伸べておられるからです。死の床にある者は、対象外などと聖書は一切言わないからです。

 主イエスの隣で十字架につけられた強盗は、息を引き取る直前に救われました。しかも、最初のキリスト者はこの男です。最初にキリストの十字架を信じて救われたからです(ルカ23:39~43)。

私たちの大切な家族や友人が救われる日を、もう何十年も祈り続けてきたのに状況は一切変わらない。しかし、それでも尚、彼が或いは彼女が神の民にされるのなら、主なる神は、一日中手を差し伸べておられる、この神の救いの約束も一切変わらないのです。地上であと一時間しか生きられなくても、そこで悔い改めれば万々歳です。そこから永遠の命が始まるからです。私たちは最後の最後まで、大切な人の救いを願い続けなければならないのです。死の床でキリストを信じるために用いられる方もおられるからです。

 もう一つは、私たちのような役に立たない罪人のために、一日中手を差し伸べておられる主なる神様に対して、私たちは、あまりにもよそよそしくて、冷たく、鈍感である、という事実です。私たちは、こんな私たちのために、一日中手を差し伸べておられる主なる神様に対して、たった一日でも手を差し伸べ続けたことがありましょうか。いいえ、ありません。この私たちこそ、不従順で反抗する民なのではありませんか。しかし、主なる神は、その愚かな私たちを妬むほど愛してくださるのです。そして、神様は、私たちが神の子として妬むほどに神様を愛することを求めておられる。

 ですから、大切なのは、私たちの肉親が妬むくらいに、私たちが主なる神を十字架の主イエスを愛することではありませんか。家族や親友が嫉妬するくらいキリストを愛する、これがキリスト者の務めです。そしてそれが、信仰を持たない家族や大切な友人に対して、最高の信仰の証になるのではないでしょうか。肉親を大切に思って嫉妬するくらい愛するように、その肉親に嫉妬されるくらいキリストを愛す時、初めてその愛が本物であることが証明されるでしょう。