2022年01月09日「信仰告白と救い-Ⅱ」

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5節 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。
6節 しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
7節 また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
8節 では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
9節 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10節 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
11節 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
12節 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
13節 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
ローマの信徒への手紙 10章5節~13節

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説教の要約

「信仰告白と救い-Ⅱ」ローマ信徒への手紙10章5節~13節

 本日の御言葉は、先週の最後に示された「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある(8節)」、この信仰告白の言葉の具体的な展開となっています。そして、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです(9節)」、実にこれは、その信仰告白の内容そのものです。

 最も簡潔に言えば、信仰告白とは、「イエスは主である」、という公的表明でありますが、「イエスは主である」、ということと、「神がイエスを死者の中から復活させられた」、ということは二つの別々のことではないのです。つまり、この口でイエスは主であると公に表明する時、その主イエスは、十字架と復活の主以外ではないということです。さらに、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。(10節)」と続けられます。信仰告白は、心の問題ではないということです。心で信じて義とされて、「めでたしめでたし」、でお仕舞いではなくて、それを、口で公に言い表して始めて信仰告白となるのです。そもそも、信仰告白を心の問題として、内側に秘めておくことは出来ないはずなのです。「イエスは主である」、この信仰告白に導かれるのは聖霊なる神であり(Ⅰコリ12:3参照)、この聖霊の力を内側にコントロールすることなどできないからです。

そして、さらに大切なのは、口で公に言い表して救われる者たちの群れが、教会という信仰共同体を形成していくというこの事実です。信仰告白とは、一人一人の罪人を導かれる聖霊の働きでありますが、同時にそれは集団行為となり、「イエスは主である」、この信仰告白が、キリストの教会を形成していく土台であるのです。信仰告白は、必然的に教会を形成するのです。

 その上で信仰告白の特質が示されます。「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。(12節)」これです。信仰告白は、人種や、ジェンダー、或いは、身分と言ったこの世における区別や差別をすべて取り除き、一つの民族共同体を形成していく、それが神の民であり、キリストの教会なのです。

そして、「御自分を呼び求めるすべての人」、とありますように、神の民の資格は「御自分を呼び求める」すなわち、「イエスは主である」、この信仰告白だけで十分なのであります。これほど取りやすい資格がありましょうか。しかし、それとは正反対に「イエスは主である」、と集まってくる全ての人に与えられる報いの大きさが続けて示されます。「豊かにお恵みになるからです」、これです。ギリシア語本文でこれは、裕福である、或いは富んでいる、そう言う意味でありまして、宗教改革者J・カルヴァンは、この御言葉を「積極的な恵み」、と注釈しています。私たちは、何の功績もなく、何も持たず、むしろ罪と腐敗にまみれて、ただ「イエスは主である」と集まってくるだけです。しかし、そこに神は極めて積極的に恩恵を与えてくださる、思いもよらぬプレゼントを用意してくださる、それが「御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです」この御言葉の示す意味なのです。

そして、この救いの恵みも旧約聖書の御言葉によって証明されて結論づけられます。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです(13節)」、この御言葉は、ヨエル書3:5からの引用で、ペンテコステの時、使徒ペトロも紐解いた御言葉です(使徒言行録2:21参照)。ユダヤ人に福音を伝えたペトロも、異邦人の使徒とされたパウロも、「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」、この御言葉によって非常にスケールの大きい救いを語ったのです。「主の御名を呼ぶ者は皆」という以上、そこにはもはやユダヤ人も異邦人もないからです。ですから、ユダヤ人と異邦人の垣根など取り壊して、地の果てまでの全ての国民に対する救いを福音宣教の先駆けに両者は語っていたことになります。

とても簡潔ではありますが、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」これは、信仰告白と救いをそのまま結び付ける言葉、信仰告白と救いの一体性を約束する御言葉です。

最後にこの御言葉を受け取った最初期の教会の立場に立って、二つのことを確認いたします。

一つは、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」この主がイエスキリストであることの重大さです(11節も参照)。現代の信仰者であります私たちは、旧新両約聖書を当たり前のように持っていますので、この点が非常に鈍感になっていますが、旧約聖書のヘブライ語で主は、「ヤーウェ」なのです。「ヤーウェ」は天地創造の神、出エジプトの救い主、アブラハム、イサク、ヤコブの神であります。そして実に、この「ヤーウェ」である主なる神が、新約ではイエスキリストに置き換えられているのです。まだ新約聖書が完結する前に、信徒たちは、「ヤーウェ」=イエスキリストである、旧約の主は、新約の主である、とこのように信仰告白したのです。この事実が非常に重要です。教会は最初から旧約の神と新約の神を区別しなかったのです。それが「イエスは主である」、この信仰告白であり、これが用いられて、新約聖書は書き上げられていったのです。「イエスは主である」、この信仰告白は、教会を形成するばかりでなく、旧新両約聖書を一体化させた上に、新約聖書作成のためにも用いられたわけなのです。そして、これはその背後に聖霊の偉大なお働きがあることの証でもあります。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えない(Ⅰコリ12:3)」、逆に言えば、「イエスは主である」、と信仰告白をする者は、誰でも聖霊に導かれた者であり、聖霊なる神の偉大な御業のために用いられる者に他ならないのです。最初期のキリスト者にとって、これがいかに大きなことであったでしょうか。どのような小さな群れであっても、それは聖霊に導かれた偉大な群れであり、永遠の命の共同体であるからです。私たちは、悔い改めてこの最初の頃の信仰に立たなければなりません。地上の教会は小さい群れであっても、聖霊なる神に導かれる精鋭部隊であります。

二つ目、繰り返しますが「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」、これは信仰告白と救いの一体性を約束した言葉でありまして、迫害などよく知らない私たちには平安を与える御言葉であります。しかし、忘れてはならないのは、殉教と背中合わせにあった群れにこの御言葉が語られた、という事実です。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」どころか、「イエスは主である」と信仰告白したばかりに殺されてしまった時代なのです。むしろ、「主の名を呼び求める者はだれでも殺される」、そのような殺伐とした現実の中で、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」、この御言葉が語られたのです。しかし、信徒たちは、この御言葉に躓くどころか、この御言葉に縋ったのです。パウロもペトロも、他の多くの立派な伝道者も全て殺されていった、という事実は、この御言葉の約束を打ち破るどころか、確立したのです。それ以降の教会史も殉教と迫害の歴史でした。ある者は、目を奪われ、他の者は腕を奪われた。それでもこの信仰告白は何ら変わることなく継承されていったのです。それは、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」、これが真理であるからです。

 新しい年の歩みが始まっています。キリスト者であっても、平安でありたい、健康でありたい、と願わない者はおりません。しかし、それが壊された時こそ、信仰告白と救いの一体性を思いだしていただきたい。「イエスは主である」この信仰告白と救いは一つであります。