2021年12月26日「律法の終わり」

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1節 兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。
2節 わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。
3節 なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。
4節 キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。
ローマの信徒への手紙 10章1節~4節

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説教の要約

「律法の終わり」ローマ信徒への手紙10章1節~4節

本日からまたローマ書講解に戻り、丁度10章に入ります。9章の最後で、「信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたイスラエルは、つまずきの石につまずいた(32節)」、とイスラエルが救いに到達できなかったことが示されたのにもかかわらず、パウロは、この10章に入るなり、「わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。(1節)」、とこのように始めているのです。ここにパウロの救いに対する理解があります。パウロは、神の国の救いを極めて現実的に描いていたのです。救いが思想に近づけば近づくほど、この世の現実から離れていき、仕舞には、所謂、極楽浄土的に、救いが夢物語のようにされていきます。しかし、聖書が示す救いは、非常に現実的なのです。意外かもしれませんが、それがよくわかるのが、ヨハネの黙示録なのです。ヨハネの黙示録では、救いが完成する場面が次々と描かれて行きますが、そこでは、建物やその素材、或いは数字によって、その描かれた世界の細部まで記録されています(ヨハネ黙示録21:15~18参照)。聖書の語る神の国、或いは天国というのは、非常に現実的なものであって、思想や夢物語の世界とはむしろ正反対なのです。よくヨハネの黙示録はわかりにくい、と敬遠されますが、到底理解出来っこない神の国の完成を、人が理解できるように描写している、それがこの書物です。この御言葉の配慮に目を止めることが大切であると思うのです。ですから、全く新しい世界に生まれ変わるのにも関わらず、「これは人間の物差しによって測ったもの(ヨハネ黙示録21:17)」、と記されるくらいに、神の国がこの世の現実の中で描かれるわけです。

パウロも同じように、思想レベルで天国を待望していたのではなく、むしろ、人間の物差しによって測れるほど現実的に、神の国を待ち望んでいたのです。だから、同胞の救いが大切なのです。

私たちも同じではありませんか。救いが思想に近づけば近づくほど、友人や家族の救いに無関心になっていくのです。救いが思想にならないためには、このパウロのように、大切な人の救いについて、常に熱心に祈り続けなければならないのです。もしもキリスト教が思想に過ぎないのでしたら、このような祈りは全く必要ないし、最初から存在しなかったはずなのです。

さて、パウロは、その祈りの対象である同胞イスラエルの姿を示します。それが、「なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかった(3節)」これです。ここでは、神の義と自分の義が激しく対立していることがわかります。神の義と自分の義というのは、相容れないものだからです。神の義と自分の義が、フィフティー・フィフティーとか、或いは7対3であるとか、聖書的にはそう言う折衷案はないのです(フィリピ3:9もご参照ください)。神の義をいただいて自分の義を放棄するか、自分の義を立てて神の義を放棄するか、そのいずれかなのです。キリストの十字架によって実現した神の正しさに追加するような、人間の正しさはあり得ない、それが聖書の示す真理だからです。

その上で、この問題に結論が出されます。「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。(4節)」これが、神の義と自分の義についての結論と言えましょう。ここで「キリストは律法の目標であります」、と示される、この「目標」、これは、ギリシア語では、テロス(τέλος)という、もともとは「終わり」という意味を持つ言葉です。そして、ここは、「終わり」と訳したほうが御言葉には忠実であるように思います。それは、聖書の御言葉が思想ではなくて現実だからなのです。

 実は、このテロス(τέλος)は、ギリシア哲学においても非常に大切な言葉で、行為の目標であります「最高善」をこの言葉で表現しました。つまり、ギリシア哲学におきましてこのテロス(τέλος)は、「終わり」という意味が後退し、「目標」の意味が強められていたわけです。しかし、新約聖書では、特に重要な箇所で、この言葉が「終わり」という意味で使われているのです(マタイ24:6、Ⅰコリ10、11、15:24他)。この「キリストは律法の目標であります」、ここもギリシア哲学の思想における行為の目標、という最高善的な意味で、「キリストが律法の目標」と言っているのではなくて、キリストが律法を終わらせた、決着をつけた、そう宣言されているのです。真の神キリストは、律法にとっても、人間にとっても、目標とされるようなターゲットではなく、全てを終わらす権威をもっておられる方だからです。律法だけでなく、この私たちの救いも、そしてこの世界も、キリストが決着をつける、全てのテロス(τέλος)は、キリストが握っているのです。そこには、私たち人間など想像すらできない恵みのご計画があるのです。だから、人は自ら命を絶ってはならないのです。

今年最後の主日礼拝であります本日は、ヨハネ黙示録22:12、13によって礼拝に招かれました。「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。」

キリストが、初めであり、終わりである、これが聖書全体の結論です。全ての始まりがキリストにあり、全ての終わりもキリストにある。この私の初めも、終わりも、私の真実な救い主イエスキリストのものである、これほど確実な慰めがありましょうか。私の救い主イエスが、私が最もふさわしい時にこの地上に命を与えてくださり、最もふさわしい時にこの地上から命を取り去られる、「わたしはアルファであり、オメガである」、これが思想ではなく、現実であるから、キリスト教なのです。

私がこの地に遣わされて、早六年が経ちました。特に初めの頃は、教会にお金の無心に来られる方が多くて苦労いたしました。ただでさえ寂しい財布の中身を空にして帰った覚えもあります。しかし、お金の無心に来られる方はいらしても、命の相談に来られる方は、待てど暮らせどなかなかいらっしゃらない。それが残念でなりませんでした。これが、この世の教会に対する理解で、教会の救いが、思想程度にしか受け取られていない証拠ではありませんか。

昨今若い方が自らの命を絶たれる、という痛ましい現実が私たちに向けられています。死という選択しかできない、こんなに悲しいことはありません。そのような報道の後必ず提示される「いのちの電話」、これは、もともとキリスト者が立ち上げたミッションでありまして、私たちの改革派教会の信徒さんで、そこで勤しまれておられた方をよく知っています。このようなところが用いられて、思いとどまる方が少しでも与えられることを祈りつつ、しかし、真のいのちの電話の機能は、神の言葉にあり、教会にそれが委ねられていることを忘れてはならないと思うのです。

 キリストの救いは、思想ではない、現実である、「これは人間の物差しによって測ったものである」、と記されるくらいに、その救いは現実です。そして、その物差しとして用いられるのが、私たちキリスト者ではありませんか。悔い改めて、この場所から遣わされた私たちが、御言葉に喜び祝い、天国の救いを思想ではなく、体全体で証する。キリスト教の救いが思想ではなくて現実である、それを証するのが私たちキリスト者の務めです。それは人間の物差しである以上、寸足らず、或いは計測ミスもありましょう。しかし必ず神の国の豊かさを証するものとなるはずです。

「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。」

このキリストの報いに与る終わりの時を待ち望んで勤しもうではありませんか。