2021年12月12日「アドベントに響く賛歌」

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アドベントに響く賛歌

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ルカによる福音書 1章46節~55節

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46節 そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、
47節 わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
48節 身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう、
49節 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、
50節 その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。
51節 主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
52節 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
53節 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。
54節 その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、
55節 わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。
ルカによる福音書 1章46節~55節

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「アドベントに響く賛歌」ルカによる福音書1章46節~55節

 本日の御言葉は、先週教えられました受胎告知に対して、「お言葉どおり、この身に成りますように」と潔く回答したマリアが、その後エリサベトの許に駆けつけた時に謳った賛歌が記録されています。この賛歌の最初の一句は、「わたしの魂は主をあがめ(46節)」、となっています。そして、この「あがめる」、という言葉がラテン語では、magnificat(マグニフィカト)でありますので、この詩の最初に来るmagnificatという言葉を取って、通常このマリアの賛歌をmagnificatと呼んでいます。

本日招きの詞で、旧約聖書からサムエルの母親となったハンナの歌が与えられましたが(サムエル記上2章1~10節)、あのハンナの歌の新約版が、マリアの賛歌である、と申し上げてよろしいでしょう。ハンナの歌で謳われたこの世の地位の逆転、高ぶるものが低くされ、へりくだるものが高められる、この救いの秩序が、このマリアの賛歌ではさらに大胆に展開され、「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、(52節)」「飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。(53節)」、とこのように謳われます。

実際、最初期の教会では、主のために飢えに耐えて、貧しい人々に目を向けて援助する執事的活動が、御言葉の宣教と一体的になっていたのです。ローマの平和の中で、全く力のなかったキリスト教が躍進したのは、勿論御言葉の力と、聖霊の働きを示すものですが、この愛の業が用いられた帰結でもあるのです。これをそのまま私たちの時代に当てはめるのは、少々乱暴であり、間違った方向に舵を取る可能性さえあります。しかし、今でも御言葉によって「権力ある者と身分の低い者」、「飢えた人と富める者」が対照的にされていることには変わりがありません。もし教会が、富める者の側に立って富める者に目を向けているのでしたら、そこに教会の命はありますでしょうか。教会は、大きければ良いというのではないのです。聖書は、100人教会を作りなさいとは言いません。キリストの教会を建てなさいと言います。そして、キリストの教会は、富める者の側にはないのです。現代教会の規模がそのまま、祝福の大きさのように理解されているのなら、それは大きな間違いです。

 この救いの秩序が大胆に謳われるうえで特に大切なのは、この賛歌では、「憐れみ」、この言葉が繰り返され(50、54節)、この歌の存在理由とさえなっているところです。イスラエルの神は、憐れみ深い神であり、神の民はこの神の憐れみに頼るしかないのです。

 丁度私たちが今続けていますローマ書講解は、イスラエル問題と通常呼ばれています9章から11章の文脈に入っています。実は、この「憐れみ」、という言葉は、あのイスラエル問題全体を解くカギのような役割をしていまして、イスラエル問題を扱う前提は、「神の憐れみ(ローマ9:16)」であり、イスラエル問題を解決するのも「神の憐れみ(ローマ11:32)」である、とローマ書は言うのです。異邦人であれ、イスラエルであれ、神の「憐れみを受ける」、これが唯一の救いの道なのです。

 そして、実にナザレの乙女は、この真理を見事に理解し、パウロに先立って謳っているのです。

無学な乙女が、その神学と信仰において、新約の大伝道者と肩を並べているわけです。ですから、「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。(54、55節)」、非常に短くはありますが、これはローマ書のイスラエル問題を要約したような立派な信仰告白であります。

 このマリアの賛歌について、3つのことを確認しなければなりません。

一つは、取るに足らないナザレの乙女がこの歌を賛美している意味です。それは、昔も今も終わらないジェンダー問題と、格差社会に対する毅然とした聖書の立場です。昨今ジェンダーの平等が叫ばれてはおりますが、依然として海の外では、例えば「女性だから」という理由で教育さえ受けられない、そういう地域があります。しかし、これは海の外だけでなく、私たちの国でも抱え続けている問題です。「この聖書の時代は、今とは比べようもないくらい女性の立場が弱かった」、と繰り返し申し上げてきましたが、私たちの国でも、ほんの数十年前までそうでした。戦後急に女性蔑視がなくなったわけではありません。歳を重ね、今老いを生きておられる女性が、どれほど辛く悔しい思い、肩身の狭い思いをされたかと思うと胸が痛みます。しかし、今でも、これは続いています。私たちの国は、先進国と呼ばれる国の中では、社会制度と慣習において女性の地位が最低水準であり、実際私たちの群れの中でも何度も不当な目に遭われた方がおられるでしょう。格差社会も深刻です。「おやがちゃ」など、やるせない言葉が流行る背景に、この国の現実があります。貧しい人はいつの時代も、経済的差別を受けざるを得ない、教育も満足に受けられない。しかし、聖書は2000年前に見事にそれを打ち破っているのです。それがこのマリアの賛歌なのです。最も貧しく、無学で取るに足らない田舎の少女が、世界史の分岐点に立ってアドベントの暗闇に謳っている、それは、旧約聖書を総括し、新約聖書の頂点に立つ信仰の歌である。これが、聖書のジェンダー理解であり、格差社会に対する糾弾なのです。アドベントに響く賛歌は、まずジェンダーの平等であり、格差社会との戦いなのです。

2つ目、このマリアの賛歌で謳われる神の御業が、全て過去形で示されている、ということです。これは預言過去、という表現方法でありまして、神の約束がすでに実現したことのように謳われているのです。ですから、直訳しますと「主はその腕で力を振るった、思い上がる者を打ち散らした(51節)」とこのように、もうすでに起こった出来事のように謳われているのです。さらに、「権力ある者をその座から引き降ろした、身分の低い者を高く上げた、(52節)」、「飢えた人を良い物で満たした、富める者を空腹のまま追い返された。(53節)」これが直訳なのです。究極的に、これらのことが全て実現するのは、終わりの日、キリストの日のことであります。しかし、まだ、マリアは子を身ごもったばかりで、その子の誕生さえ未来のことです。そのような状況において尚、マリアは信仰に立ち、終末の救いに目を向けて謳いきっているのです。今日私たちも謳おうではありませんか。アドベントの暗闇に響く賛歌は、再臨の主イエスの救いがすでに完成した確信に満ちた喜びの歌であります。

しかし、3つ目、これらは、キリストの十字架と復活があって、初めて意味を持つということです。

一番大切なのは、このキリストの十字架と復活なのです。キリストの十字架と復活がなければ、権力ある者は、その座に座ったままです。身分の低い者は、低いままです。飢えた人は飢えたままで滅び、富める者は、さらに満ち足りるでしょう。しかし、神の御子主イエスが十字架で死なれたから、これらが全て逆転したのです。実に、最も権力ある者であるのに、自らその座から降りてくださったのが主イエスなのではありませんか。だから、身分の低い者、であるこの私が高く上げられたのです。最も富める者のはずが、空腹のまま追い返されたのが、主イエスなのではありませんか。だから飢えた者である私が良い物で満たされたのです。主は飢えて、私は満たされる、アドベントの暗闇に最も響く賛歌は、この驚くべき逆転であり、教会からこの世に響く十字架の凱歌であります。