2021年11月28日「アドベントのつまずき」

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30節 では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。
31節 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。
32節 なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。
33節 見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。
ローマの信徒への手紙 9章30節~33節

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説教の要約

「アドベントの躓き」ローマ信徒への手紙9章30節~33節

今年は、本日からアドベント(待降節)に入ります。アドベントというのは、旧約の数少ない信仰者が、神様の約束の救い主を、希望をもって待ち続けた時を指します。そして、これはそのまま、この終わりの時代に福音宣教に仕えている私たちに当てはめることが出来ます。両者とも「残りの者」である、ということもその共通点の一つです。本日の御言葉は、この「残りの者」とは正反対の立場で救い主を待ち望んだ神の民イスラエルの姿が、とても分かりやすく指摘されていまして、ローマ書講解の途中でありながら、丁度アドベントの第一週に与えられる御言葉に相応しいものであります。

そして、先週の箇所までは、神の厳然たる主権とその選びによる救いが示されてきたのですが、本日の御言葉は、それに対する私たち人間側の応答が問題とされているのです。神の主権と選びに対して、私たちはどのように回答するのか、これが異邦人とイスラエルの対照的な姿によって描かれているわけです。これが本日の御言葉の概要です。

 さて、その上で、神の主権と選びに対する異邦人の回答が、「義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました(30節)」、そして、イスラエルの回答が、「しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。(31節)」、とこのように示されているのです。結果的に、イスラエルはだめだったのです。そしてその理由は、「イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。(32節)」とパウロは指摘し、そして、そのイスラエルの間違いを、「彼らはつまずきの石につまずいたのです」、とこのように比喩的に表現します。実に、「つまずきの石につまずいた」、これが救い主を待ち望んでいたはずの神の民イスラエルの過ちであったのです。では、この「つまずきの石」とは何でしょうか。

 パウロは、イザヤ書8:14と28:16を組み合わせて引用して、「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。(33節)」と「つまずきの石」の回答とします。言うまでもなく、この「つまずきの石」は主イエスです。

 「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く」、この預言の通り、主なる神は、御子イエスキリストをシオン、すなわちエルサレムに遣わしました。ところが、エルサレムは、よもやナザレのイエスが、彼らの待ちに待った約束の救い主であるなどとは微塵も思わず十字架につけて殺してしまった。救い主を待ち望んだイスラエルはその救い主に見事につまずいたのです。ところがイスラエルが、つまずきの石につまずき、イエスを十字架につけたことで、人類の救いが実現し、この十字架の主イエスを信じる者は、失望することがない、という驚くべき事態が始まり、義を求めなかった異邦人が、義を得たのです。イスラエルは自分たちの行いを正当化し、律法を遵守していると勘違いして、イエスを殺し、どんどん救いから離れていきました。しかし、取り残された異邦人は、罪人の友十字架のイエスに頼るしかなかったので、どんどん救いに近づいていったわけです。これが両者の正反対の関係で、そしてこの異邦人の救いのあり方が、残りの者である全ての信仰者と同じなのです。すなわち、主イエスの十字架の後、神の民であるかないかは、民族的な枠組みのユダヤ人か異邦人かではなくて、信じるか信じないか、このいずれかにされたのです。そして、十字架の主イエスを信じるのであれば、民族や性別、或いは身分のようなものとは一切無関係に神の憐れみをそのまま受けて救いの中に入れられるのです。私たちも、かつては神の民ではなかったのに、ただ神の憐れみにより、神の民とされた者たちであり、義を追い求めなかったのに、義とされた虫のいい連中です。その私たちが今、数少ない残りの者として、再臨の主イエスを待ち望んでいるわけなのです。

旧約のイスラエルは、救い主を待望しつつも躓きました。 それは信仰ではなく、行いで救われようと勘違いしていたからです。しかし、神様は、人の行いに頼るような方ではありません。彼らの行いは、救い主の誕生とは無関係でした。むしろ、約束の救い主は、神の民イスラエルが、全く気が付かないうちに神様が用意してくださったのです。私たちが忘れてはならないのは、主イエスの再臨も同じである、ということです。再臨の主イエスも、私たちには計り知れない神のご計画によって、私たちが、全く気が付かないうちに、すぐにでも実現しようとしているのです。

約束の救い主誕生の歴史が、系図によって新約聖書の最初の頁に示されていて、それによりますとダビデの父エッサイのそのお父さんオベドは、ルツという女性から生まれたことがわかります。そしてこのルツは、モアブの女性であったのです。これが大切なのです。

先週ソドムとゴモラの滅亡の記録に触れましたが、そのソドムから唯一救われた家族がいました。それはアブラハムの甥のロトの家族です。しかし、この家族は、その後決して平安ではありませんでした。ソドムから脱出したのはいいのですが、すぐに妻を失って、残されたロトと二人の娘は、その後洞穴で細々と暮らしました(創世記19:30以下)。しかし、その後、この二人の娘の企てで、あろうことか近視相姦が行われてしまいました。「このようにして、ロトの二人の娘は父の子を身ごもり、やがて、姉は男の子を産み、モアブ(父親より)と名付けた。彼は今日のモアブ人の先祖である。(創世記36、37節)」この痛ましい事態です。ですから、モアブ人は、神の律法によれば、その最初から呪われた民族であったのです。この呪われたモアブ人の女性ルツが、救い主の系図に登場し、ダビデと非常に近い関係にあったのです。そして、これが神のご計画であり、神の御業なのです。

こんなこと一体誰が予想したでしょうか。ソドムの滅亡から救われた親子の罪から、救い主の系図の女性が現れたのです。ソドムから命からがら救い出されたロトの家族はそのまま残りの者であり、ルツも、そして羊飼いの末っ子であったダビデも残りの者です。残りの者とは、救われる価値のない罪人でありながら、神の奇しき御業によって選ばれた救いの民なのです。そしてその残りの者が用いられて主なる神様の御業は必ず実現していくのです。彼らから約束の救い主が誕生したように。

主イエスは、私はすぐにでも来る、と御言葉で約束していて(黙22:12)、私たちは、その神の国の完成の日を心待ちにしています。しかし、何時になっても来られないその再臨の主イエスに躓く者がいます。或いは、キリストの身体である教会の弱さや、交わりの中で躓く方もいらっしゃる。いずれにしても、大切なのは、私たちの救いの道には十字架がそびえている、ということなのです。丁度教会の屋根に十字架が立てられているように。弱さの象徴、愚かさの象徴、不名誉極まりない印、それが十字架です。この十字架の許で、神の国は完成に向かっているのです。ですから、この世の力や、この世の論理で、或いは私の都合で十字架を仰ぐ時、必ず躓きます。主イエスに躓くのです。

しかし、私たちは、主イエスに躓くのではなく、主イエスに立ち帰る者であり、行いで救われようと躓くのではなく、立ち帰ることによって救われる者であります。私たちは、信仰の目で十字架を見上げ、御言葉によって約束された終わりの時に希望をあずけ、罪を犯しても悔い改めて、主イエスに立ち帰るものであります。その時、つまずきの石、妨げの岩こそが、我が櫓であり、我が盾となりましょう。