2021年11月21日「残りの者が救われる」

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24節 神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。
25節 ホセアの書にも、次のように述べられています。「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。
26節 『あなたたちは、わたしの民ではない』/と言われたその場所で、/彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」
27節 また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。
28節 主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。」
29節 それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう。」ローマの信徒への手紙 9章24節~29節

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説教の要約 

「残りの者が救われる」ローマ信徒への手紙9章24節~29節

先週は、神の主権による選びに対するこの世的な批判が退けられました。そのうえで、本日の御言葉では、この神の主権によって、本来ならば「怒りの器」であってしかるべき私たちが「憐れみの器」に選ばれている、この驚くべき恩恵に光が当てられ、「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました。(24節)」この御言葉の真理が、旧約聖書のホセア書(25、26節)とイザヤ書の御言葉(27~29節)によって証明されます。

まず、「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。(25節)」とホセア書の2:25の御言葉が引用されます。これはホセア書で示されている神の愛をそのまま要約した御言葉です。ホセア書は、偶像崇拝を繰り返すイスラエルを不貞の妻に喩え、それでもそれを赦し続ける神の計り知れない愛が描かれた旧約の御言葉であり、パウロは、このホセア書の中心的使信を引用して、「憐れみの器」とされたローマの教会の信仰者に適用しているわけなのです。それによって、ローマの教会の分裂の愚かさを根本的に示し、ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、「憐れみの器として」召されていることに目を向けさせるわけなのです。

次にイザヤ書の御言葉から、さらに、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、「憐れみの器として」召されていることに説得力が追加されます。

「また、イザヤはイスラエルについて、叫んでいます。「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる。主は地上において完全に、しかも速やかに、言われたことを行われる。(27、28節)」これは、イザヤ書の10:22、23からの引用でありまして、ここでは、「残りの者が救われる」、と語られていることが重要です。イザヤは、主イエスの誕生より700年ほど前、年代的には紀元前8~7世紀あたりの時代、アッシリアを始めとした周辺諸国の脅威に怯えるイスラエルに神のメッセージを語りました。その救いの使信が、「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても、残りの者が救われる」これなのです。イザヤは、決してイスラエル全体が救われるなどとは言いませんでした。むしろ、「たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても」、という以上イスラエルの多くの者は滅ぼされるのです。しかし、それでもその一掴みの選びの民が救われる、その選びの民が残りの者と呼ばれるのです。そして、この残りの者の立場がさらに明確にされます。

「それはまた、イザヤがあらかじめこう告げていたとおりです。「万軍の主がわたしたちに子孫を残されなかったら、わたしたちはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう。(29節)」これは、イザヤ書のプロローグ部分にあたる1:9からの引用です。万軍の主が「残りの者」を残されなかったら、わたしたちはソドムやゴモラのようになっていた、とイザヤは言うのです。つまり残りの者とは、ただ主なる神様が残してくださった、というだけで、その立場は、ソドムやゴモラと何ら変わらない、ということです。ここでは、残りの者側に何一つ残されて救われる理由などない、ただ、神の憐れみが全てである、ということが明らかにされているのです。立場はソドムやゴモラと何ら変わらない、しかしその待遇が全く違うのです。このイザヤが示した残りの者の立場と待遇の逆転を、パウロは本日の御言葉で「憐れみの器」にそのまま適用し、ローマの教会のキリスト者に示しているわけなのです。

すなわち、 「憐れみの器(24節)」が、そのまま「残りの者(27節)」である、とここでパウロは言いたいのです。どうして、ローマ教会の中でユダヤ人と異邦人との間で争いがあるのか。それは、この神の憐れみと神の愛を忘れているからです。クラウディウス帝の追放令によってユダヤ人が留守にしている5年以上の間、ローマの教会を支え、迫害に耐えながら伝道を続けていたのは、異邦人キリスト者でした。その異邦人キリスト者がリーダーシップをとっていた教会にユダヤ人が戻ってきた時、両者の間で確執が生まれた、つまりそれは、リーダー争いの類でありましょう。「残りの者」ではなくて人気者に、無名ではなくて有名になりたいのが、私たち人間の常であるからです。

いつの間にかローマの教会の信徒たちも、この世の論理に従った教会形成を始めていたわけなのです。そのこの世の常であったり、この世の論理に左右される教会に、パウロは神の真理を投入した、それが、「残りの者が救われる」、この御言葉の真理なのです。

そして本日は、「残りの者が救われる」、この御言葉がそのまま説教題として与えられました。

最後に、この御言葉から3つの点を確認いたします。

 一つは、パウロが徹底的に聖書主義を貫いて、「残りの者が救われる」、という真理を導き出した、という点です。本日の御言葉でもパウロは、自分の思想のようなものには一切頼っていません。

 大切なのは、私はこう思うではなくて、聖書がどういうかなのです。ただ、御言葉を引用して、「残りの者が救われる」、この真理を導き出して、そして、この御言葉を決め手にしてパウロは速やかに議論を閉じているのです。教会に問題が起きた時の決め手は聖書の御言葉以外ではないのです。

それゆえに二つ目、聖書が「残りの者が救われる」、と言います時、教会は「残りの者が救われる」、という真理を一切曲げてはならない、ということです。「残りの者」とは、この世的に見れば不名誉であり、つまらない者、仲間外れ、愚かな者であります。しかし、そういう者が救われる、と聖書は言うのです。どうしてでしょうか。彼らは、神に頼るしかないからです。

現代教会にもリーダーシップをとっておられる方がいらっしゃる。立派な論文を書かれておられる先生も多くいらっしゃる。確かにそれは神の国の奉仕として豊かに用いられるでしょう。しかし、それは役割分担であって、救いとは無関係です。大先生が救われるなどとは聖書は一言も言っていません。「残りの者が救われる」、救いは100%神の憐れみであり、キリストの十字架にあります。

私たちはいつの間にか、この世の視点で救いを探して、立派なキリスト者と自分を比較して、不安になっていないでしょうか。これこそ大きな間違いです。逆だからです。その貧しく、罪深く、弱い私こそ救われるのです。この世に取り残されている無名の私が救われるのです、「残りの者が救われる」のですから。私たちには救われる要素など一つもないから、ただイエス様により頼むのです。

最後に3つ目、「残りの者が救われる」と聖書が言います時、最後まで希望があるということです。

その残りの者は、「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。(25節)」、このように謳われた者でもあるからです。ここでは、驚くべき逆転が繰り返されているのです。「自分の民でない者」が、「わたしの民」とされる、今キリストを信ぜず頑なに福音を拒む私たちの家族や友人は、聖書の言います「自分の民でない者」であります。しかし、それが「わたしの民」とされる、「愛された者」とされる、この逆転の対象でないと誰が言えましょうか。

「残りの者が救われる」、これは順当な救いではなくて、むしろ大逆転が起こって実現する救いであるのです。最も救いから遠いはずの罪人の頭であるこの私が救われた、これこそ「残りの者が救われる」、この御言葉の実現であり、そうである以上、一体誰が救いの恵みから漏れましょうか。