2021年11月14日「神の主権」

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聖句のアイコン聖書の言葉

14節 では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。
15節 神はモーセに、「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」と言っておられます。
16節 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。
17節 聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。
18節 このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。

19節 ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。
20節 人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。
21節 焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか。
22節 神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、
23節 それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう。
ローマの信徒への手紙 9章14節~23節

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説教の要約

先週は、神の自由な選びについて教えられ、神の選びであれば、人種や身分や性別、或いは性格、そのようなものとは一切関係なく救われる、という真理が確認されました。しかし、その場合、もし選ばれていないのなら、最初から救われる見込みなどないではないか、という疑問が浮上いたします。先週予告いたしました通り、その問題が今週から扱われます。この選びの真理は、非常に大切な問題でありますので、この後11章の終わりまで最終的な結論は出されず、丁寧に議論されていきます。そのような連続性を持った文脈の中で、本日の御言葉では、神に不義があるのかという問題(14~18節)と、人の責任についての問題(19~23節)に光が当てられます。

 まず、神に不義があるのか、という問題について、ここでパウロは、神様の選びの公正さを論理的に証明しようとはせずに、ただ聖書の御言葉を引用して、神の選びの理由の証拠聖句とするだけです。特に、どうして滅びに予定された者たちが存在するか、という疑問について、「聖書にはファラオについて、「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」と書いてあります。(17節)」、とエジプト王ファラオの実例をあげます。

聖書的には、悪役中の悪役である、あのファラオを歴史という舞台に登場させたのも神様である、ということです。そして、それは、そのファラオによって、主なる神様の力を現し、その名を全世界に告げ知らせるためである、ということなのです。主なる神様は、堕落して、創り主である真の神を忘れたこの世に、魔法のようなものを用いてご自身を知らしめるのではなくて、人を用いて、歴史の事実の中で、ご自身の存在を啓示されるのです。

 次に、「ところで、あなたは言うでしょう。「ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか」と。(19節)」とこのように、人間の責任について示されます。

しかしパウロは、この人間の責任の問題に対しても、その謎を解明しようとはいたしません。むしろここでは、人間の立場に立った回答を探すどころか、逆にその人間の立場を明確にして、「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、「どうしてわたしをこのように造ったのか」と言えるでしょうか。(20節)」、とこの問題の愚かさを際出せます。

 さらにパウロは「貴いことに用いる器」と「貴くないことに用いる器」の例から、創り主である主なる神様の主権を示し、「どうしてわたしをこのように造ったのか」、という不平がそもそも最初から成り立たないことを明確します(21節)。ここで、「器」、という言葉が繰り返されていまして、聖書的に、この言葉は、創り主の自由な意志の許にある作品を指して使われる言葉です。これが本日の御言葉のキーワードと言えましょう。

  まず、「怒りの器として滅びることになっていた者たち」に対する神の忍耐が示されます(22節)。

 役に立たない器は、即刻粉砕されて然るべきです。しかし、神はそれをも忍耐されるのです。

具体的には、この「怒りの器」は、17節で語られているファラオ、或いは、それ以後の歴史の中で福音宣教を妨害し、神の民を苦しめてきた多くの者たちです。しかし、「怒りの器」である彼らも全て、いずれかの仕方で神に奉仕している、そのご計画の中で生かされているのです。神様の主権とは、冷酷な独裁ではないのです。逆です。神様の主権とは、憐れみの行使なのです。

 そして、次に、「憐れみの器」が「怒りの器」とは対義的に使われます(23節)。この「憐れみの器」、これは、具体的には、神の選びの民であり私たち信仰者です。そして、「怒りの器」が、すぐに滅ぼされない理由は、「憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであった」、とこのようにパウロは言うのです。これも17節のあのファラオの実例で説明されている通りです。確かに、私たちは、聖書の御言葉のあの出エジプトの場面から、神の力とその豊かな栄光を教えらえています。何よりも、神の御子の十字架がそれです。「怒りの器」が用いられて、キリストを十字架につけた、だから「憐れみの器」である私たちの救いが実現したのです。実に、神の子の十字架こそ、「憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであった」、この御言葉そのものです。

 この十字架の主イエスによって「憐れみの器」とされた男がいます。それは、他ならぬこのローマ書の執筆者パウロです。パウロの回心の場面で、まるで「怒りの器」であった彼が、「憐れみの器」へと大逆転させられたことが、鮮やかに描かれています(使徒言行録9:13~16を参照)。パウロは、もともとキリスト教の迫害者であり、キリスト信徒なら見つけ次第牢に放り込んで皆殺しにすることに生きがいさえ持っていました。神の民への迫害に対する熱意はファラオの比ではありません。最初期の愚直な信徒で、彼の迫害によってこの世を去っていった者や、残された家族もいたでしょう。

 しかし、その男に対して、主イエスは、「わたしが選んだ器である(使徒言行録9:15)」とこのように言われたのです。こんなバカな話がありましょうか。しかし、これが神の計り知れないご計画であり、選びなのです。主なる神様は、まさかという人物でさえ、「わたしが選んだ器である」とこのように言われてはばからないのです。

 そして神様が「選んだ器」である以上、必ずや「神が前もって準備してくださった善い業のために(エフェソ書2:10)」用いられるのです。これでも尚、「神様ずるいよ」の論理は残りますでしょうか。或いは、神様を信じない世の人々に、神様は不公平じゃないか、と迫られた時、彼らに説得力のある回答は出せないでしょうか。しかし、その場合、聖書の回答は、御子イエスキリストの十字架です。神の御子が私たちのために十字架についた以上、この世の全ての不公平は公平にされるはずです。最も公平なお方が最たる不公平を忍ばれたからです。そして、この十字架によって初めて私たちは「神様ずるいよ」の論理から解放されて、この私が憐れみの器に他ならないことを知るのです。

しかし、それでも頑なにイエスキリストの十字架を信じないこの世の多くの方にはどうすればよいでしょうか。現実問題として、私たちの大切な家族や友人がなかなか信じてくれないのです。どうすればよいのでしょうか。その時私たちのすべきことは、信じさせることではありません。この私が信じることです。大切なのは、この私が徹底的に信じることです。

 ヨブは、家族の悲報を聞いた直後に叫びました「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。(ヨブ記1章21節)」、と。苦難の時に、それでも尚、神の主権の下で主を賛美する、ここに信仰者の真があります。そしてその時、憐れみの器とされている私どもは証人となりましょう。私たちは弱く貧しく、知識も乏しく、神の主権を説得力のある言葉で伝えることが出来ない者であります。しかし、それは、問題ではありません。大切なのは、私たちが神の主権に額ずくことです。「神様ずるいよ」とつぶやくこの世で、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」この御言葉に立つことです。

伝道と真の奉仕は、ここから始まるのではありませんか。