2021年10月24日「イスラエル」

問い合わせ

日本キリスト改革派 高島平キリスト教会のホームページへ戻る

Youtube動画のアイコンYoutube動画

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

1節 わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、
2節 わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。
3節 わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。
4節 彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。
5節 先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。
ローマの信徒への手紙 9章1節~5節

原稿のアイコンメッセージ

説教の要約

「イスラエル」ローマ書9:1~5

本日から、ローマ書講解は9章へと入って行きますが、この9章から11章までは一つの大きな文脈でありまして、この部分全体を指して通常「イスラエル問題」、というような表題がつけられます。

紀元49年クラウディウス帝によって発令されたローマからのユダヤ人追放令によって周辺地域に追い出されたユダヤ人が、クラウディウス帝の死後ローマに戻ってきたという歴史的背景の中で、ローマの諸教会でユダヤ人と異邦人との間に混乱が起こり、その解決のためにパウロはこの部分を認めました。まずパウロは、「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、」と始めます。これはつまり、私のこの存在の主はキリストである、と同時に、私の行為の主は聖霊である、ということで、これから11章の終わりまでパウロが語ることは、キリストとの結合と聖霊の証によって保証されている、ということです。パウロは、真っ先にそれを宣言して始めるわけです。これは、ローマの教会を揺るがすこのイスラエル問題に関わるパウロの宣誓であり、その問題解決のための方法論を明らかにしているのです。

その上で、パウロは、自らの「深い悲しみと絶え間ない痛み」の原因から簡潔に語ります。「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。(3節)」、わかりやすく言いますとパウロの「深い悲しみと絶え間ない痛み」は、同胞でありますイスラエルの人々の救いでありました。しかし、このパウロの発言はいかがなものでしょうか。特に、この神から見捨てられた者、の見捨てられる、これは非常に厳しい言葉でありまして、特に大切なのは、コリント第一の手紙の結びの部分で呪いの言葉として用いられているところです。「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。(Ⅰコリ16:21)」この「神から見捨てられるがいい」、の「見捨てられる」、この言葉です。このコリント書の結びで、「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい」、と呪いの言葉を語ったパウロが、本日の御言葉のローマ書の方では、「神から見捨てられた者となってもよい」、と言い出すわけです。

これは矛盾ではないでしょうか。十字架の救いを宣教し続けた伝道者が、自らその十字架の救いを放棄するわけです。

しかし、この矛盾に、この謎に、パウロの愛があるのです。パウロが、救いを祈り続けた同胞のイスラエルは、「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束(4節)」、を与えられた神の民です。しかもこれらの特典をはるかに凌駕する特典が、「肉によればキリストも彼らから出られたのです。(5節)」このキリストの誕生なのです。そして、実にここにこそ、パウロの「深い悲しみと絶え間ない痛み」の原因があるのです。イスラエルの民は、神から与えられた特典をことごとく踏みにじりました。「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束」、これらをいとも簡単に手放してしまった。それは取り返しのつかないことです。しかし、それらを手放しても、決して手放してはならない恵みがあった。それがキリストなのです。あらゆるものを投げ捨てても、救い主キリストだけは、いただかなければならない。しかし、このキリストを無視して自分たちこそ神の民であると勘違いしていたのが、パウロの同胞であるイスラエルなのです。その悲惨な姿に、パウロは「深い悲しみと絶え間ない痛み」を覚え、彼らの救われることを昼も夜も祈り続けていた、ということなのです。そして、その絶え間ない祈りから導き出された回答が、「キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよい」、これなのではありませんか。パウロは、それだけ彼の同胞イスラエルを愛したのです。

実は、最初にイスラエルの指導者として立てられたモーセも、この同胞に対する愛を持っていたのです。それは、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から救われたのにもかかわらず、すぐにその恩恵を忘れて金の子牛の像を作ってしまった時です。「今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。(出エジプト32:32)」これがイスラエルの最初の指導者モーセの同胞に対する愛です。パウロは、勿論この御言葉を諳んじていたはずです。彼は、イスラエルの最初の指導者であるモーセの姿を見ていたのではないでしょうか。それに加えて、いいえそれ以上にパウロは、十字架の主イエスを仰いでいたのではありませんか。栄光の神の御子、生ける真の神である主イエスが、愚かな罪人のために十字架に向かわれた、この救い主の姿です。

主イエスは十字架を前に言われました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(ヨハネ15:13)」、実に、パウロは、この愛を愚直に追いかけたのではないでしょうか。

この愚直な信仰者は、自分の都合ではなくて、主イエスの愛に従ったのです。そしてその帰結が、「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」、この告白であったのです(ヨハネ10:11も参照)。

キリストの愛から私たちを引き離すことなど誰にも出来ないのです。「高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない(8:39)」、この通り、この世のあらゆるものが束になってかかってきても、神の愛から、わたしたちを引き離すことは、不可能である。

しかし、それでも尚真の愛は、引き離されることさえ願うのです。パウロにはその愛があったのです。実に真の愛は、愚かであり、人間の視点からは矛盾と謎を含むのです。そしてその矛盾と謎の頂点が神の御子キリストの十字架ではありませんか。主イエスは、父なる神と永遠から一体でした。そのお方が十字架で死なれる時になんと叫んだでしょう。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか(マルコ15:34)」、主イエスは、私たちのために、御父との永遠の結合から見捨てられた。ここに真の愛があります。そしてこの十字架の愛を証するのがキリスト教です。パウロは、その全身全霊でこの十字架の愛を証したのです。十字架の愛、矛盾ともいえる同胞に対する愛、実に現代の教会に最も足りないのは、この愛ではありませんか。私たちの持っている愛は、自分の立場を守ったり、論理を通したり、見返りを求める上に成り立つ愛ではありませんか。真の愛、十字架の愛とは、この世的には矛盾し、大損し、傷つくことさえある、ということです。そして、この真の愛を注がれてきた対象がイスラエルなのです。彼らには、ほんのわずかでもそれをいただける価値などなかった、しかし、ただ神の憐れみによって、真の愛をいただいた神の民、それがイスラエルなのです。実に、このイスラエルの姿は、今の私たちの姿ではありませんか。今日からイスラエル問題と呼ばれる御言葉が始まりました。その問題は、決して他人事ではなく、私たちの中で起こりうる、いいえ、すでに起こっている問題なのです。私たちは、真の愛をいただいているのにも関わらず、真の愛で互いに愛し合うことが出来ないからです。

私たちが、十字架の愛以外に救いがないことを本当に認めるのなら、この十字架の愛で互いに愛し合うはずではないでしょうか。十字架の愛をキリストを信じようとしない家族や友人に向けるのではありませんか。パウロのように。

深い悲しみと絶え間ない痛み、それは、キリスト以外に救いはない、この真理に立った時、必ず与えられるもので、私たちにそれがないのであれば、キリストを信じなくてもそれなりにやっていけると心のどこかで思っているからです。

イスラエル問題、それは私たちの問題です。私たちは、この御言葉を自分たちのこととして悔い改めながら、読み進めていきたいと願います。