2021年10月03日「福音賛歌Ⅵ‐神のご計画」

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28節 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
29節 神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。
30節 神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。
ローマの信徒への手紙 8章28節~30節

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説教の要約

「福音賛歌Ⅵ‐神のご計画」ローマ書8:28~30

 一つの御言葉が、人生を変えてしまった、という証をよく耳にいたします。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(28節)」実に、この節の御言葉は、その最たるものではないでしょうか。

 ここでは、特に、この「御計画」という言葉が大切です。これはパウロが、人間ではなくて、神のご計画を示す時に使う言葉で、特に神の予定を示す非常に大切な聖書的真理が、この言葉によって示されています(エフェソ1:11参照)。パウロが、死の直前に書いた彼の最後の手紙の冒頭でも、同じ言葉を用いてさらに明確に神の予定の真理を語っています。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ(Ⅱテモテ1:9)」、ここでは、「御自身の計画」、この神の永遠からのご計画が、「わたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださった」ことが、同じ言葉を用いて明確に語られています。しかも、ここでは、「わたしたちの行いによるのではなく」、と私たちの側には何の要因もないことまで示されています。

特に、大切なのは、ここでパウロが、神のご計画によって、私たちが救われるだけでなく、聖なる招きによって呼び出してくだされたことも同時に示していることなのです。これが、ローマ書の御言葉での方では「御計画に従って召された者たち」、と私たちの呼び名として用いられているわけです。神のご計画によって救われる以上、必ず私たちは召し出されるのです。そして、私たちが、神のご計画によって召し出された、この一点で私たちには、「万事が益となるように共に働く」、という約束が与えられているのです。私たちの神は、天地創造の神であり、歴史の支配者であるからです。

つまり、「万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」、これは、全能の神とその摂理に対するこれ以上ない信仰告白なのです。

その上で、この摂理信仰の土台にあります神の御計画が29節、そして私たちの召命が30節で説明されていく、本日の御言葉はこのような構造になっているのです。

まず、神の救いのご計画が簡潔に示されます。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。(29節)」、ここで、「御子の姿に似たもの」、この部分で「似たもの」と訳されていますが、ここは「同じもの」とも訳せまして、むしろそちらの方が良いと思われます。この言葉は、新約聖書で2回しか使われませんが、2つともパウロが用いていまして、もう一箇所は、フィリピ書に見られます。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。(フィリピ書3:21)」この「同じ形」、この部分です。このフィリピ書では、全く同じ言葉が使われて、わたしたちの卑しい体が、キリストの栄光ある体と同じ形に変えられる、という驚くべきキリストの日の逆転が約束されているわけです。

私たちは、いくら頑張ってみても、キリストに似たものにさえなれません。結局、キリストとは似ても似つかない者として地上を去って朽ちていくだけの者です。7章の最後の聖化でクライマックスを学んだ時に教えられましたが、私たちが、最も信仰的に充実している時でも、「私はなんと惨めな人間なのでしょうか」、と悲鳴を上げるのがやっとです。しかし、キリストの日に目覚めた時、その卑しい身体、さらに朽ちているはずの身体が、キリストの栄光ある体と同じ形に変えられている、この約束がなされているのです。もはや罪を犯さなくてもいいのです。なんという恩恵でありましょう。

 そして続いて、この世における私たちの救いと召命の全体像が、簡潔に説明されます。「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。(30節)」ここでは、私たちの召命が神のご計画によって、最後まで導かれることが、示されていまして、神のご計画に始まり、そして私たちの召命、義認、最後に栄光化されるまでの順序で示されています。ここで大切なのは、ギリシア語の本文でも、この節で使われている動詞が全て過去形である、ということなのです。私たちに永遠の命が与えられ、栄光とされるキリストの日は、まだ未来のことです。しかし、それにもかかわらず、それがもうすでに起こったかのように、過去形で記されている、ここでも預言的過去、という文法表現で、その確実性が謳われているのです。これが「万事が益となるように共に働く」という約束のゴール地点と申し上げてよろしいでしょう。その遠いゴールは、過去形で示されるほどに確実だ、ということです。

キリスト教は思想ではありませんし、平坦な道でもありません。もしそうだったら、「万事が益となるように共に働く」なんて約束はいりません。私たちキリスト者の実際の地上での信仰生活が、万事が益となるように見えない事ばかりだから、「万事が益となるように共に働く」この約束が必要であり、これが慰めであり、響くのです。この御言葉が私の人生の最後の砦にもなり得るのです。

 実に、万事が無益に思えてしまうような、私たちの日々の信仰生活の現実の中にあってこそ「万事が益となるように共に働く」ことが約束されているのです。これがパウロの生涯であり、全てのキリスト者の生涯であったのではありませんか。全てが上手くいっていると喜んでいる人に、「万事が益となるように共に働く」なんて約束は、何の力にもならないし、むしろ余計なお世話でしかないのです。

 すなわち「万事が益となるように共に働く」と御言葉が言います時、私たちには運命や偶然は一切ないということです。思わぬ不幸に陥った時、世の人は運が悪かったとあきらめたり、その運命を呪います。しかし、「御計画に従って召された者たち」である私たちには、それさえも益となるように共に働くという約束がされているのです。思わぬ不幸どころか、私の罪深さによってもたらしてしまった状況さえ、「万事が益となるように共に働く」ことから除外されないのです。

 さらに、「万事が益となるように共に働く」その対象は、「御計画に従って召された者たち」だけであります。そしてそれは、天地創造の前に遡る神の永遠の愛によって保証されているのです(エフェソ1:4)。この神の絶大な愛と偉大なご計画を私たちが悟れば悟るほど、私たちは「神を愛する者たち」にならざるを得ないのではありませんか。私たちを「神を愛する者たち」にしてくださるのは、私たちを天地創造の前に愛され、御子を十字架につけてまで救いを実現してくださったこの神の絶大な愛と偉大なご計画なのです。御子を十字架につけてまで私たちを愛してくださった神が、どうして万事が益となるようにしてくださらないはずがありましょうか(次週の箇所の32節をご参照ください。)。キリストの十字架に神の愛の頂点がある以上、万事が益となる、これさえもむしろ周辺部分なのです。

 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」これは、神にとことん愛され十字架の恵みを全身に受けて、「神を愛する者たち」にされた私たちの勝利の歌であります。