2021年09月26日「福音賛歌Ⅴ‐聖霊の執り成し」

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24節 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。
25節 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。
26節 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。
27節 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。
ローマの信徒への手紙 8章24節~27節

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説教の要約

「福音賛歌Ⅴ‐聖霊の執り成し」ローマ書8:24~27

本日の御言葉では、先週教えられた「神の子の希望」の性質が、「見えるものに対する希望は希望ではありません、現に見ているものをだれがなお望むでしょうか(24節)」、と記されていますように、それは、肉眼では全く確認できないものである、ということがまず示されます。

勿論、希望というものは未来に対する願いに関わることですから、どんな希望も肉眼では確認できません。「見えるものに対する希望は希望ではありません」、それは当たり前のように思えます。

しかし、ここで言われている「見えるものに対する希望」、というのは、人間の計画や努力のようなもので実現可能となる希望です。「見えるものに対する希望」、と言われる通り、可視化しながら実現に近づけていく、そう言う性質の希望で、それは目標ともいえましょう。それに対して、「見えるものに対する希望は希望ではありません」、とここでパウロが言う見えないものに対する希望とは、人間には実現不可能で、主なる神によってのみ実現される希望です。ですから、ここで言われている見える希望であるか見えない希望であるか、それは人間のものか、神のものかの違いなのです。

ですから、この見えない希望に対する私たちの姿勢が「忍耐して待ち望むのです(25節)」と記されます。努力ではなくて忍耐なのです。むしろ忍耐することしかできないのです。「目に見えないもの」、すなわち、神からのものをいただくのにいくら頑張っても何もできません。ただ主なる神が与えてくださる時を待ち望むしかできない。私たちは、ただ忍耐して待ち望むことしかできない弱い者なのです。

そして実に、その弱さを憐れんでくださるのが、主なる神様なのです。

「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。(26節)」

この「同様に」、この言葉が大切です。ここで「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます」、と言います時、聖霊なる神様が、弱い私たちとの同じようになってくださる、ということが約束されているからです。それは、私たちが、忍耐して待ち望むしかできない弱い者であるように、聖霊なる神様が、まるで私たちと同様に、忍耐して待ち望むしかできない弱い者のようになってくださる、この驚くべき約束なのです。

 実は、ここで、「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます」、と訳されています部分、ギリシア語の本文で読んでいますと少しニュアンスが違いまして、この部分を直訳しますと「同様に、“霊”もわたしたちの弱さの中で、加勢してくださいます」こうなります。聖霊は、弱いわたしたちを助けるのではなくて、わたしたちの弱さの中で助ける、加勢してくださる、そう言う状況です。(ギリシア語の本文では、わたしたちの弱さの中でと同じ表現がⅡコリ12:9でも使われます。是非参照してください。)

 神の絶大な力を直接私たちに注がれる聖霊が、弱い私たちを外から眺めて憐れんで助けてくださる、というのではないのです。その聖霊なる神様が、この弱い私たちの中に入って、あたかもご自身が弱い者であるかのようにこの弱い私たちと一体になって加勢してくださる、「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます」、これはそう言う状態なのです。

そしてそれゆえ、その後、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」、と続くのです。これは、聖霊が弱い私たちと一心同体となってくださったときのみ可能なことだからです。

 ここでパウロは、「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが」、と言います。これは、主なる神様との関係で言われていまして、祈祷文の定型句のようなものを知っていて、それを口に出していても、主なる神様が聞き届けてくださるのにふさわしい祈りには程遠い、ということです。

 私たちはあまりにも主なる神様の御心について無知でありますから、何を言っても嚙み合わない、会話など成立しないのです。どう祈るべきかを知らない、とはそういうことです。しかし、「“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」、その私たちの祈りにならない祈りを聖霊なる神様が、「言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」、というのです。私たちのささげる祈りは、主なる神様の御心とかけ離れて、その御前に情けなく惨めに消えていくようなうめき声です。しかし、実に聖霊なる神様もまた私たちと共にうめき声をあげてくださる、永遠の主、三位一体の神である聖霊が、私たちの弱さの只中で共に呻いてくださる、これが、「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます」、と示されている状態なのです。そしてこれが聖霊の執り成しなのです。

弁護者としてとりなしてくださる聖霊は、弁護人の席から第三者的に私たちをとりなすのではなくて、神の御前に立つ私たちの弱さそのものになってとりなしてくださる、そこからキリスト者の祈りはささげられるのです。

本日の御言葉は、全能者である聖霊なる神が、私たちの弱さの中で、いいえ、その弱さそのものになって執り成してくださる、この聖霊なる神様の愛と恩恵が示されていました。

 実にこれは、主イエスが地上を歩まれた時の姿とぴったり重なるのです。

 主イエスも、私たちの弱さを担い呻いてくださった方なのです。

 先週の箇所から、3回「呻く」という言葉が繰り返されていまして、これは私たちと被造物全体の弱さを象徴する言葉であり、同時に聖霊なる神の愛を示す言葉でありました。

 主イエスもまた呻かれたのです。

 「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。(マルコ7:32~34)」

 この「深く息をつき」、これがローマ書の方では呻く、と訳されている言葉です。

 主イエスは耳が聞こえず舌の回らない人の立場に、ご自身を置かれたのです。

 その苦しみをご自身の苦しみ、その弱さをご自身の弱さとしてくださった、これが主イエスの執り成しです。

 私たちは、弱い者です。貧しい者です。罪深いものです。しかしそれが一体何でしょうか。

 主イエスが、その私たちの弱さになり、私たちの貧しさとなり、私たちの罪となってくださった、そしてその極めつけが十字架です。そうである以上、もはや私たちの全ての惨めさは問題ではありません。主イエスは、この無様な私のために十字架につき、恩知らずの私に代わって呻いてくださった。

 この十字架の救いを今日、同じように聖霊が私たちの弱さになって呻き執り成してくださる。

 私たちが天の故郷にたどり着くまで、この御霊なる神の導きは絶えることがないのです。