2021年09月12日「福音賛歌Ⅲ‐アッバ、父よ。」

問い合わせ

日本キリスト改革派 高島平キリスト教会のホームページへ戻る

Youtube動画のアイコンYoutube動画

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

12節 それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。
13節 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。
14節 神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
15節 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。
16節 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。
17節 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
ローマの信徒への手紙 8章12節~17節

原稿のアイコンメッセージ

説教の要約

「福音賛歌Ⅲ‐アッバ、父よ。」ローマ書8:12~17

本日の御言葉の中心は、私たちが神の子である、という真理です。

実は、新約聖書を探しても信仰者を神の子、と呼ぶ箇所は意外と少なく、パウロの書いた手紙に集中しています。 そして、そのパウロ書簡の中でもこのローマ書8章に一番多く出てくるのです。

特に14節で、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」、とここでローマ書では初めて信仰者が神の子と呼ばれていまして、そうかと思えば、この後15節で「神の子」、16節では「神の子供」さらに17節では「子供」と繰り返されております。ここまで、私たちが神の子であることを強調する箇所は見当たりません。さらに私たちが神の子である、というのは、私たちの思い込みではなくて、「神の子とする霊を受けたのです(15節)」と聖書が言いますように、私たちの内に住まわれる聖霊なる神様の御業である、ということなのです。そして、「この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。」と記されていますように、この内住の聖霊によって私たちは、天の父を「アッバ、父よ」と呼ぶことまで許されているのです。

この「アッバ、父よ」の「アッバ」というのは、主イエスの時代に日常語であったアラム語で、幼子が父親を呼ぶ時に使う言葉でした。「お父ちゃん」くらいの意味合いです。当時のユダヤ教でも神様を「我らの父」という習慣はありました。それでも、旧約聖書を調べますと神が父と呼ばれている箇所は思いのほか少なく、全部で14箇所しかありません。そして、それらはいずれも「父」であって、「アッバ」、すなわち「お父ちゃん」と呼んでいるところはありません。また、主イエス以前のユダヤ教文献を紐解いてみても、神を「アッバ」と記しているものは、一切見当たらないのです。

 もともとこのアッバというのは、片言の発音であり、幼子が乳離れした時に最初に学ぶ言葉が、アッバ、「お父ちゃん」、そして、「お母ちゃん」の方は「イマ」でありました。誰もその言葉で天の神を呼ぼうとはしなかったはずです。つまり、天の神様を最初に「アッバ、父よ」、「お父ちゃん」と呼びだしたのは他でもない主イエスであったのです。主イエスだけが、真のお父ちゃんを知っていたからです。

 ですから、この主イエスに結びつけられて、その御霊が私たちの中に住んでくださったとき、私たちもまた、真のお父ちゃんとして「アッバ、父よ」、と呼ぶことが出来るわけなのです。

 加えまして、ここで「アッバ、父よ」と呼ぶのです、の呼ぶという言葉は、むしろ叫ぶと訳す方が普通です。もともとこれは激しく叫ぶ、金切り声をあげる、悲鳴をあげる、そう言う言葉だからです。

 「アッバ、父よ」と悲鳴をあげる、お父ちゃんがいないと生きていけない、ここはそう言うニュアンスです。実に、これが真の信仰ではありませんか。父なる神がいないと生きていけない、これが信仰です。生ける真の神を知っているだけでは、それは信仰とは言えないのです。サタンでさえそんなこと十分知っています。その真の神と生きた関係にあって初めて信仰と言えます。主イエスによって、私たちは、この真の信仰が与えられているのです。それが、「アッバ、父よ」、と叫ぶ信仰であり、この「アッバ、父よ」、と叫ぶ信仰こそが神の子の身分なのです。

 さて、続いて神の子に与えられる祝福が示されます。「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。(17節)」ここで、「もし子供であれば、相続人でもあります」、とパウロは断言しますが、これが非常に大切です。

 神の子であることと、神の相続人である、というのはセットなのです。パウロは、ガラテヤ書で同じ真理を記しています。「あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。(ガラテヤ4:6、7)」

 ここでも、パウロは、「神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった」ことを証言するや否や、「子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」、と断言しています。神の子=相続人、というこの定式が、ローマ書とガラテヤ書の「アッバ、父よ」の箇所で繰り返されているわけです。これが「アッバ、父よ」の祝福です。

 さらにエフェソ書では、私たちに神の子の身分が与えられることも、私たちが相続人とされることも、神の永遠のご計画に基づくことが、これ以上ない壮大なスケールで示されています。

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。(エフェソ1:4、5)」神が、私たちをイエス・キリストによって神の子にしようと定められたのは、実に、天地創造の前である、と聖書は言うのです。神の子という私たちの身分は、主なる神様の、この気の遠くなるような偉大なご計画に裏打ちされた驚くべき恩恵なのです。

そればかりではありません。ここでも私たちが相続人であることが示されます。「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。(エフェソ1:11)」如何でしょうか、ここでも相続者が神の子とセットになっていて、しかもこの両者とも神の永遠の御計画によって前もって定められていた、と御言葉は言うのです。先週に引き続き、ここでも理解不能ともいえる神の憐れみと恵が示されています。

天地創造の前から私たちを愛してくださった神の愛とは一体どのようなものでしょうか。「アッバ、父よ」、それは主イエスの十字架の贖いによって、私たちが神の子とされるという、天地創造の前からのこの神の計り知れない愛に対する心からの信頼です。

 宗教改革者カルヴァンは、「父なる神」に対して「母なる教会」、という言い方をします。それは教会が信徒の信仰を養う場所だからです。神の子である私たちを預かり、主イエスの愛によって豊かに育み、霊的な成長が与えられる場所、それが教会です。ですから、神が「アッバ」である以上、教会は私たち信仰者の「お母ちゃん・イマ」でなければなりません。

 神の国の価値観によって救われた私たちが、神の国の価値観によって育まれる場所、それが教会であり、私たちの「お母ちゃん・イマ」であります。主イエスは、罪人、娼婦、そして徴税人まで招き、彼らにも天の神を「アッバ、父よ」と呼ぶ資格を与えました。この役割は今教会に委ねられています。

 J・カルヴァンは、54歳の若さで地上を去る遺言の最後に次のように謳っています。

「私は、理由なしに子としてくださった神の恩恵の他には、救いのためにどのような砦も避け処もない。私の救いはただこの恩恵にのみ依拠しているのである。」、何という徹底した価値観の逆転でしょうか。彼にとって、理由なしに子としてくださった神の恩恵が全てでありました。

「アッバ、父よ」とただキリストと共に生きて、「イマ、母よ」と教会に仕えた信仰者の潔い信仰がここにあります。