2021年09月05日「福音賛歌Ⅱ‐死ぬはずの体が生かされる」

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福音賛歌Ⅱ‐死ぬはずの体が生かされる

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 8章5節~11節

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5節 肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。
6節 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。
7節 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。
8節 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。
9節神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり 、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
10節 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。
11節 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
ローマの信徒への手紙 8章5節~11節

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説教の要約

「福音賛歌Ⅱ‐死ぬはずの体が生かされる」ローマ書8:5~11

  この礼拝において一人の兄弟の洗礼式を執り行うことが許されました。先週から新約聖書の福音の頂点と言われていますローマ書の8章に入りまして、本日はその2回目ですが、これも主なる神様の憐れみでありましょう。驚くほどに洗礼式の主の日に相応しい御言葉が与えられました。今日洗礼を授けられた兄弟、そして同じようにただ主イエスの憐れみによって、もうすでに新しい契約によってキリストに接ぎ木された私たちの姿がここにあるからです。

本日の御言葉では、「肉に従って歩む者」と、「霊に従って歩む者」が、対比される形で登場いたします(5節)。よく誤解されるのが、肉は私たちのこの肉体であり、霊は心とか魂といった精神的なものである、という理解です。しかし、パウロの言います肉と霊というのは、これとはまるっきり違います。パウロの言います肉というのは、肉体も魂や心も全て含めた人間全体で肉なのであり、肉であるか霊であるか、というのは、主イエスに結ばれているかいないか、これによって決定される、ということなのです。キリストに結ばれていないのなら、肉体も魂も肉であり、キリストに結ばれているのなら、肉体も魂も霊に他ならないのです。

その上で、この主イエスに結ばれていて霊に従って歩む者の姿が明らかにされます。

「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。

キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。(9節)」

 この「神の霊が私たちの中に宿る」、この状態が主イエスに結ばれていて、「霊に従って歩む者」の

姿であり、私たちの復活と永遠の命の根拠であると申し上げてよろしいでしょう。

 その具体的な真理が最後の節で明らかにされます。

11節「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。(11節)」

ここで、「死ぬはずの体」が生かされる、この私たちの復活と永遠の命の根拠が3つ示されます。

 一つ目は、これは三位一体の神の御業である、ということです。ここでは、父、子、聖霊の三位一体の神様が躍動しています。

「イエスを死者の中から復活させた方」或いは、「キリストを死者の中から復活させた方」これは父なる神様です。そして、本日の御言葉で何度も繰り返されてきましたこの「霊」、これは聖霊なる神様です。その中心に御子イエスキリストの十字架と復活があるのです。すなわち、「あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」、この復活の約束は、主イエスの十字架と復活の事実を根拠に、父、子、聖霊、この三位一体の神様が保証される真理なのです。

 二つ目、この最後の、「あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」、の「生かす」、この言葉が非常に重要です。これは、無からの創造を示す言葉でありまして、新約聖書で11回使われますが、半分以上パウロが用いています。

 もうすでに学びました4章で使われています。「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」と書いてあるとおりです。死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。(4:17)」

この「死者に命を与え」、の「命を与える」、という言葉です。その死者に命を与えられる神は、存在していないものを呼び出して存在させる神である、無からの創造者である、世界万物を創造された生ける真の神である、その死者に命を与えられる創り主が私たちの復活の根拠である、ということなのです。これ以上に説得力のある復活の根拠がありましょうか。

さらに主イエス様は、この「命を与える」、或いは「生かす」、と訳されている言葉で決定的な約束をされています。

「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。(ヨハネ5:21)」ここで繰り返される、「命を与える」、この言葉です。私たちの復活の根拠は、最終的には十字架で死なれるほどに私たちを愛してくださった他ならぬ主イエスご自身の約束なのです。

最後に三つ目、もう一度「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。(11節)」

ここで繰り返される、「あなたがたの内に宿っている」、この宿る、という言葉です。9節から繰り返されるこの言葉は、キリストや聖霊が、或いは神の言葉が、私たちの内に住まわれる、内住されることを示す非常に大切な言葉です。一部の例外を除いて人が住むという文脈には使われないのです。この節で繰り返し使われる2回目の方は、さらに洗練された言葉になりますが、語幹は同じで両方を合わせても新約聖書で14回しか見られません。そしてパウロしか用いない言葉なのです。

パウロは、コリントの教会に宛てた手紙でこの言葉を使って、私たちキリスト者が聖霊の宮である、という真理を証しています。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。(Ⅰコリ3:16)」これです。「神の霊が自分たちの内に住んでいる」、私たちキリスト者の中に聖霊が住んでくださっている、だから私たちは死んでも生きるのです。永遠の命に今生かされているのです。しかし、それどころではないのです。神の霊が、キリストが、私たちの中に住んでくださる、というのは聖書的に全く理解不能ともいえるこれ以上ない恩恵なのです。

パウロは、それを死の直前の牢獄で賛美しました。私たちはこの御言葉で本日礼拝に招かれました。「唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。(Ⅰテモテ6:16)」

いかがでしょうか。本来、「近寄り難い光の中に住まわれる方」の御霊が、つまらない罪人の中に宿ってくださった。説教者が口に出すのも恐れるような恩恵を主なる神は実現してくださったのです(Ⅱコリ12:4、7を是非参照してください!)。

「唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方」、この三位一体の私たちの神の御霊が、私たちの中に住まわれる時、もはや死ぬはずの体が生かされないはずがありましょうか。今日一人の兄弟の内に住まわれた方は、「近寄り難い光の中に住まわれる方」であり、「だれ一人見たことがなく、見ることのできない」三位一体の私たちの神の御霊であります。そして、私たちの内にも同じ栄光の主が住んでくださっています。