2021年08月29日「福音賛歌Ⅰ‐十字架の法則」

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1節 従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。
2節 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
3節 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。
4節 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
ローマの信徒への手紙 8章1節~4節

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説教の要約

「福音賛歌Ⅰ‐十字架の法則」ローマ書8:1~4

 いよいよ今週からローマ書講解説教は8章に入ります。教会史の中で、多くの信仰者を励まし、慰め、悔い改めを与えて、天の国の確信を与えてきた御言葉であり、偉大な福音賛歌であります。

 この福音賛歌は、「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません(1節)」この宣言から始まります。実は、この「キリスト・イエスに結ばれている」、という言葉が非常に大切で、ギリシア語でエン・クリストー・イエスー(ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ、)です。ギリシア語のἐνという前置詞は、英語に置き換えるとinになりますので、ここは英語でin Christ Jesusとなります。もともとは、キリストの中に入ってしまう、そういう意味なのです。そして、実は、このエン・クリストー・イエスー(ἐν Χριστῷ Ἰησοῦ、)という表現は、8章の最後にも使われているのです。「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。(8:39)」、ですから、このローマ書の8章は、「キリスト・イエスに結ばれている」、「キリストの中に入ってしまう」、これが大きな枠組みを作っているわけなのです。ここで語られていることは全て、キリストとの結合によって与えられる恵みであるのです。

つまり、このローマ書8章が、信仰者の勝利の歌と言います時、その凱歌を謳う私たち勝利者には、何の資格も期待されていないのです。信仰が強いとか弱いとか、この世的な名声があるとかないとか、そのようなものとは全く無関係に、全ての信仰者が、何のはばかりもなくこの勝ち歌を歌うのであります。それが、「キリスト・イエスに結ばれている」、この状況なのです。

 ここでは、「命をもたらす霊の法則」という法則が登場し、「罪と死との法則」が対照的な法則として示されていることが大切で(2節)、この「命をもたらす霊の法則」が具体的に説明されます。

「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(3節)」、これが「命をもたらす霊の法則」でありまして、最も簡潔に申し上げればキリストの出来事であり、十字架の救いそのものです。ここで大切なのは、「肉の弱さのために」出来なかったことなのに、神様は、「御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り」、と聖書が言うところなのです。肉の弱さを、肉の弱さで解決しているのです。この御子であるイエス様が地上に送られた姿を示す「罪深い肉と同じ姿」、この同じ姿というのは、主イエス様の低い状態を端的に示す非常に重要な言葉です。

 この言葉は、新約聖書で6回しか見られない言葉ですが、そのうち5回はパウロが用いていて特に大切なのは、フィリピ書で、主イエス様の生涯を要約した御言葉です。「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。(フィリピ書2:7、8)」この「人間の姿で現れ」、の姿、という言葉です。ですから、キリストは、人間のようになってこの世にやって来られた、というのではないのです。まさに私たちと全く同じ、滅びに向かう弱い肉体もって、人間の一人になった、ということです。神様は、律法の要求を満たすことのできない私たち人間のために、律法の要求などいとも簡単に満たすことのできるヒーローとして御子を遣わされたのではないのです。律法を守れない私たちと全く同じ惨めな肉体を持つ者として御子を遣わされたのです。そのお方が、「十字架の死に至るまで従順でした」、と聖書は言うのです。以前この箇所を救い主のプロフィールである、と申し上げたことがありました。なんと惨めなプロフィールでありましょう。私たちの救い主は、最初から最後まで惨めであったのです。彼は、私たちと同じ弱い肉体をもってこの世に来られただけでなく、最後には英雄の死どころか、犯罪人の死を遂げられたのです。

律法の目的がレビ記で端的に示されています。「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい(レビ記11:45)」、これが律法の目的そのものです。しかし、私たち罪人が、この目的に達することが出来なかった時、神様は驚くべきことをされたのです。わたしは聖なる者であるにも関わらず、聖なる者になれなかった愚かな人間になってくださった。そればかりか、その愚かな人間を代表して、その罰を引き受けて下さった、ということなのです。これがイエスキリストの十字架と律法の関係であり、これが罪と死の法則を打ち破った「命をもたらす霊の法則」なのです。

主イエスは、神の子であり、聖なる方です。律法を守るどころか、律法を与えられる立場におられる方です。その律法の付与者であり、罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪とされたのです(Ⅱコリ5:21)。この驚くべき逆転が命をもたらす霊の法則なのです。これはそのまま十字架の法則と言い換えられましょう。そして、この十字架の法則の目的は、「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。(4節)」これです。

 実にこれは律法の目的と同じです。律法の目的は、「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」、これでありました。つまり、これは言い換えると、律法の要求を満たし、神と共に歩むことです。しかし、私たちは罪によって、この神様との関係を破壊してしまいました。それでも、律法が破棄されることはなく、むしろ、神様は、まるで私たちが律法の要求を満たしたかのように救いの御業を行ってくださったのです。「わたしたちの内に、律法の要求が満たされるため」、とはそういうことです。律法は、神様と私たちとの関係の絆です。契約書と言えます。ですから聖書は、律法を古い契約とも言い換えているのです。つまり、もし律法が破棄されたら、私たちと神様との関係はそこで終了するのです。そして本当はそれで当然であったのです。一方的な恩恵によって契約を与えられた側である私たちの方が律法を台無しにしたからです。神様は、ご自身がせっかく与えられた律法を踏みにじった上に、その聖い掟を無視し、罪と死の法則という違う掟に従う人間を見捨てて、律法を破棄にするのが当然でした。しかし、それをなさらなかった。どうしてでしょうか。それほどまでに、私たちを愛してくださっているからなのです。どうしてここまで愛してくださるのかは、私たちにはわかりません。しかし、この神の愛が、律法という古い契約を新しい契約に変えて私たちの救いを実現してくださったのです。たとえて見ますと神様は、私たちが、ゴミ箱に投げ捨てた神様との契約書のしわを伸ばして、それを御子イエスキリストに与えられたのです。古い契約の内容を何一つ割り引かずに、その契約の要求を主イエスに委ねた。これが新しい契約なのです。私たちは無力で、救われるために有効となることなど何一つできない。しかし、この契約を十字架によって主イエスが実行してくださったので、主イエスの中に入っている以上、私たちも契約によって命を得ることが許される、ということです。新しい契約は、ただこの十字架の法則によって成り立っているのです。

次週、一人の兄弟に洗礼を授けられ、この十字架の法則によって新しい契約に入れられる喜びが与えられます。それは私たちの教会だけでなく、天に歓声が起こるほどの偉大な喜びであります。私たちはこの一週間、来る主の日の洗礼式に備えて、心を合わせて祈っていきたいと思いま