2021年08月15日「罪を知れ~敗戦の日に~」

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聖句のアイコン聖書の言葉

7節 では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。
8節 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。
9節 わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、
10節 わたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました。
11節 罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。
12節 こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。
13節 それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。
ローマの信徒への手紙 7章7節~13節

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説教の要約

「罪を知れ~敗戦の日に~」ローマ書7:7~13

 先週からローマ書は、7章に入りまして、簡潔に言えば、この7章では、律法と私たちの聖化との関係が示されている、とこのように申し上げました。その枠組みの中で本日の聖書個所は、罪の本質を非常に鋭くとらえた御言葉であります。ここでパウロは、「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか(7節)」と始めます。今までの議論で、罪から解放される、そして律法から解放される、これが救いであるのなら、「では、律法は罪であろうか」、すなわち「律法=罪」、そう言いうこじつけも出てくるからです。しかし、パウロは、間髪入れずに「決してそうではない」、と否定し、「しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう」、と律法と罪との正しい関係をまず示します。律法は罪ではなく、律法が罪を暴く、それが律法と罪の関係である、ということです。そしてそれを説明するために、パウロが提示した律法は「むさぼるな」でありました。これはあの十戒に置き換えて見ますと最後の10番目の戒め「あなたはむさぼってはならない」これに当たります。しかし、十戒の最後の戒めに背いた時、実はそれ以外の戒めにも違反しているのです。他ならぬパウロ自身が、この「むさぼる」という罪の本来の姿をコロサイ書で明確にしています。「貪欲は偶像礼拝にほかならない。(コロサイ3:5)」、実は、この「貪欲」という言葉が、本日の御言葉で「むさぼる」と訳されている同じ言葉です。すなわち、「むさぼる」という罪はそのまま偶像崇拝であるということです。そうである以上、これは、唯一の神を否定する罪であり、十戒の1戒と2戒にもそのまま違反しているのです。

その上で「むさぼり」という偶像崇拝ほど、人間の罪の本質を言い表す言葉はないことがこれから証明されていきます。続く8節でも、「ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました」、と言われていまして、これはそのまま「あらゆる種類の偶像崇拝」、と言い換えることも可能でしょう。ここで「罪は掟によって機会を得」、と語られているところが大切で、実は、ここからアダムが犯した人類最初の罪を下敷きにしながら罪と掟との関係を解明していくのです。

アダムが善悪の知識の木の実を食べた、これが人類の犯した最初の罪です。しかし、その前に神の掟があったのです。「主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。(創世記2:16)」これが、神が人に与えた最初の掟です。しかし実に、この最初の神の掟が最初の罪のきっかけとなったのです。「罪は掟によって機会を得」、というのは、これがベースになっているのです。

アダムは、この最初の戒めを最初の罪に変えたからです。「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と命じられたのにも関わらず、「女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた(創世記3:6)」、とこのように見事に背いてしまったわけです。ですから、同時に律法は罪ではないということが御言葉によって証明されているわけです。

律法である神の戒めは、神様の御心であり、アダムが楽園で幸せに生きるための言葉、つまり律法はそのまま神の愛でもあるのです。しかし、その神の愛を罪に変えた、それが人間の最初の罪でありました。そして、これこそがむさぼりなのです。この最初の罪の引き金となったサタンの唆しは、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」これだからです。神のようになれる、つまり自らを神とする、これが人間の最初の罪の動機でありました。これがむさぼりすなわち偶像崇拝でなくて何でありましょう。そして、これこそが人間の罪の本質なのです。

 この最初の罪だけではありません。神様がその御心を示すたびに、人はそれに逆らう、実にこれが律法と罪の関係なのです。イスラエルは、エジプトの奴隷状態から救い出された時に、神と共に生きるために十戒を中核とした神の律法を授けられました。イスラエルに対する神の愛がそのまま律法でありました。しかし、イスラエルの人々は、それを罪に変えたのです。アダムにしろ、イスラエルの民にしろ、この旧約聖書の歴史的事実が証言していることは、罪の作者は神ではなく、私たち人間の方である、ということです。

その上で、結論として律法と罪との関係が整理されます。「それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。(13節)」律法は神の御心であり、神の御性質をそのまま反映するものでした。しかし、罪は、あの蛇に扮したサタンが、神のご命令の背後に忍び込んできたように、律法の背後から忍び込んできた、ということです。神の愛であり、本来私たち人間の命を育むはずの律法が、人間によって罪に変えられ、死をもたらすことになってしまったのです。この律法と罪と死の関係が非常に大切です。繰り返すようようですが、神の律法が先で、人間の罪はその後、そして死はその帰結なのです。それは神が先で人間が後である、と同じことです。神のご命令の後に、人間が罪を犯し、死をもたらしたのです。実は、これがひっくり返った時、「では、律法は罪であろうか」、という勘違いが起こるのです。律法と罪の正しい関係を無視するからこのようなことを言い始めるのです。これは、人間が神より先になっている時に頭をもたげる詭弁なのです。

実にこの律法と罪を同一視する傾向は、現代のように人間中心になればなるほど強まるのではないでしょうか。戦争や災害が起こる時、人々は「もし神がいるのならどうしてこうなるのだ」、とつぶやきます。「神が悪いのだ」、ということです。「律法は罪であろうか」、これは現代「神が悪いのではないか」にそのまま置き換えられています。しかし、災害も戦争も人間のむさぼりがこしらえた作品ではありませんか。むさぼりが環境を破壊し、それが災害を引き起こす。そして同じむさぼりが戦争も引き起こすのです。このむさぼりの本質は真の神を神としない偶像崇拝です。本日の御言葉は、この私たち人間に宣告しているのです「罪を知れ」と。

戦後76年今私たちの国は、非常に豊かになり平和の祭典も行われました。しかし、私たちの国は平和でしょうか。平和が安っぽく使われ、実態のない言葉にすり替えられていないでしょうか。

私たちが聖化の歩みを続ける場所は、まさにこの偽りの平和に支配されたこの世であります。

実に、「神が悪いのだ」という立場に立って偽りの平和を求めるこの世に、「神は愛である」と真の平和を叫ぶのが私たちの務めです。律法を与えてくださった神は、それを罪に変えてしまった私たち人間を尚憐れみ、御子イエスキリストを賜ったのです。この十字架の愛、ここにだけ真の平和があります。私たちは欺かれてはなりません。罪の欺きは私たちを死へと誘います(Ⅱコリ11:3)。

そのために私たちは「初めに、神は(創世記1:1)」でなければならない。「初めに私は」ではないのです。「初めに、神は」この聖書の最初の言葉がキリスト者の生き方ではありませんか。疲れているのなら倒れていてもよろしい、それでも御言葉が先に立ち上がるからです。私たちはその後立ち上がればいいのです。来る朝毎に、苦難の日に、「初めに、神は」と諳んじて立ち上がる者は幸いです。