2021年07月25日「あなたは誰の奴隷か」

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15節 では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。
16節 知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。
17節 しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、
18節 罪から解放され、義に仕えるようになりました。
ローマの信徒への手紙 6章15節~18節

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説教の要約

「あなたは誰の奴隷か」ローマ書6:15~18

本日の御言葉では6:1で示された福音の曲解を繰り返すように、「律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよい」という問いから始まります。パウロが執拗にこれを語るのは、パウロの福音宣教の現場、特にこのローマ書執筆の場所であったコリントがこの姿であったからです。実際コリントの教会では「恵みの下にいるのだから、罪を犯してよい」このくらいのことは日常茶飯事であったようです(Ⅱコリ5:1、2参照)。パウロは、その事実から目をそらさないで、むしろ堕落している現実に目を向けて福音を語っていた、ということなのです。彼は、現実離れした思想などには全く興味を示さず、この世の現実の中で福音宣教に勤しんでいるのです。

 ここでパウロは鋭い指摘をします。「あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる(16節)」、これです。私たち人間は、自由だと思いつつ、実は必ず何かに束縛されているのです。どんな人でも絶対的自由という立場はあり得ないのです。王様になっても、億万長者になっても、罪や死から解放されるわけではありません。科学万能思想は、人間を神の領域へと誘いました。しかし、科学万能が過信であったことは、コロナウィルスに支配され、災害に恐れる私たちは嫌でも気が付いています。むしろ驕り高ぶりによって、自由どころか、日々束縛を自分たちでこしらえているのが私たち人類ではありませんか。

 さて、その上でパウロは、「つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」、と結論づけます。すなわち私たち人間には中立的な立場がないということです。罪か神か、「あれかこれか」の選択が求められているのです。

ですから、「恵みの下にいるのだから、罪を犯してよい」、という立場は自由でも何でもなくて、「罪に仕える奴隷となって死に至る」だけの話である、ということです。しかし、他方、「神に従順に仕える奴隷となって義に至る」、という道も示されています。すなわち、決して五つも六つも示された中から見事正解を選んだ者だけが運よく救われる、というのではないのです。福音は非常に単純でありまして、ただキリストの十字架を信じて従う、これだけで救いが約束されているのです。

ですから、「あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」、実にこれは、世の終わりまで全ての人に提供されている福音に対する選択であり、必ず全ての人がこれに回答をして生涯を終えていくのです。

そして「今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり(17節」、これがローマの信徒たちが悔い改めた後の姿なのです。ここでは「教えの規範」、この言葉が大切です。この「教え」、という言葉は、ギリシア語でディダケー(διδαχή)と発音しまして、これは最初期の教会の教えを指します。具体的には、ケリュグマと呼ばれる最初期の教会の最も大切な信仰告白であるキリストの十字架と復活を、キリストの出来事で肉付けしたもの、それがディダケー(διδαχή)であると言えましょう。それは、最初期の教会の礼拝と信仰の現場で成立した教えであり、もっと具体的に言えば福音書そのもの、と申し上げてよろしいでしょう。

 そして、実は、主イエスご自身の教えを聖書はディダケーと呼んでいるのです。主イエスがあの山上の垂訓を語り終えた後の記事です。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。(マタイ7:28、29)」この「その教え」がディダケー(διδαχή)です。すなわち、この権威ある主イエスの教えこそがそのままディダケーなのです。

実は、使徒言行録の最初で、成立したばかりのキリストの教会の全体像を要約している部分でもこのディダケーが使われます。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。(使徒言行録2:42)」この「使徒の教え」の「教え」、これが同じようにディダケー(διδαχή)です。つまり、キリスト教は、最初からキリスト教であったのです。キリストの権威ある教えが、そのままキリスト教だからです。そして、ローマの信徒たちは、このキリストの権威ある教えであるディダケー(διδαχή)によって悔い改め、「罪の奴隷」から神に仕えるように変えられたのです。

 さらに、「教えの規範」、とあります、この規範という言葉は、もともと痕跡とか像、と言ったものの姿全体を示す言葉です。ですから「教えの規範」でもよろしいと思いますが、あえて「教えの体系」くらいに訳したほうがわかりやすいでしょうか。キリスト教というのは、キリストの教えを勝手に取捨選択して都合のいいように並べるのではないのです。十字架と復活を中心に聖書全体から、体系的に正しく福音を理解し、宣教する、これがディダケーであり、このディダケーの上に教会は立っているのです。そして、「罪から解放され、義に仕えるようになりました。(18節)」これがディダケーによって罪の奴隷から解放されたローマの信徒たちの姿なのです。

ここで、「罪から解放され」、とありますこの「解放され」、という言葉は新約聖書で7回しか見られない比較的用例の少ない言葉です。もともとこれは、奴隷と正反対の市民権を持った自由な民を示す言葉でした。そしてその7回のうちパウロが5回使っていまして、パウロがキリスト者の自由を示す時に使うとても大切な言葉です。宗教改革者マルティン・ルターに「キリスト者の自由」を執筆させたガラテヤ書がこの言葉の意味を正確に示しています。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤ5:1)」ここで使われているこの「自由を得させる」という言葉、これが本日の箇所で、「罪から解放され」、とあります解放される、という言葉です。さらに「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。(ガラテヤ5:13)」ここでも使われているこの「自由を得る」この言葉です。パウロは、これが言いたいのです。「罪の奴隷」から解放されたローマの信徒たちにも「しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」、さらに、「この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」、これが言いたいのです。

 この「自由を得る」、或いは、「解放される」、と訳されている言葉は、新約聖書で7回使われるうちパウロが5回使っている、と申し上げました。実は残りの2つがさらに大切でありまして、主イエスご自身が使っているのです。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。(ヨハネ8:32)」これです(36節も参照)。ここで主イエスが言われている自由、これがキリスト者の自由です。

キリストの真理が、私たちを自由にするのです。このキリストによって与えられる自由です。

本日は、「あなたは誰の奴隷か」という説教題が与えられました。そして神か罪か、その二者択一が示されました。確かに罪の奴隷を選べば、永遠奴隷でしょう。しかし、神の奴隷、それは言い換えますと「あなたたちは本当に自由になる」、この神の国の市民権を持った自由人に他なりません。