2021年07月11日「罪に死んで神に生きる」

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ローマの信徒への手紙 6章5節~11節

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説教の要約

「罪に死んで神に生きる」ローマ書6:5~11

先週は、私たちの聖化のプロローグは、キリストとの結合にある、ということが示されました。本日の御言葉は、キリストに結ばれて、「新しい命に生きる」、その聖化の本質が示されていきます。

ここでパウロは、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられた(6節)」と語ります。この「古い自分」、これは、4節で示された、「新しい命に生きる」、この正反対の姿です。神を知らず、或いは知っていても悔い改めず信じないで、滅びに向かっていた私の姿、それが古い自分です。その私が、キリストと共に十字架につけられた、とパウロは言うのです。これが非常に大切です。

つまり、2000年前のあのゴルゴダの丘で十字架につけられた主イエスは、今生きている私たちの全ての罪も担ってくださった、ということだからです。私たちの過去現在未来のあらゆる罪があの十字架で清算されたのです。だから、新しい命が始まったのです。古い自分が、新しい命に生きる、これは、この主イエスの完全な罪の赦しと贖いが根拠にされた疑いえない立場の変化なのです。

 そしてそれは「キリストと共に死んだ」私たちが、「キリストと共に生きること(8節)」なのです。

罪が全て帳消しにされた、無罪が宣告される、これは驚くべき逆転であり、十字架の最たる恩恵です。しかし、それだけではまだ不十分なのです。その後、「キリストと共に生きる」、この恩恵が待っているのです。そして、これが聖化の歩みなのです。

この「キリストと共に生きる」、これは言い換えますと永遠の命に生きる、ということです。ですから、地上での残された時間はたいした問題とはなりません。パウロは、牢獄にあっても死の直前まで、「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。(Ⅱテモテ2:11)」と言い続けていたのです。あと数時間の地上での命であっても、彼は地上での死には興味を示しておりません。パウロは、すでにキリストと共に死んでいて、彼は、キリストと共に生きていたからです。同様に、永遠の命に生かされるキリスト者は、死の直前まで、地上での死は決定的な問題ではありません。キリストと共に生きるようになったからです。

ですから、私たちがキリストと共に生きる、という聖化の歩みを始めた以上、残りの生涯の時間に焦ったり嘆いたりする必要は一切ありません。莫大な、いいえ無限の時間が残されているからです。人が過去を振り返って感傷的になる最たる要因は、地上で残された時間の少なさにあると思います。いつの間にか、あの頃はよかった、と心のどこかでつぶやいている、年を重ねるごとに。しかし、キリスト者は、よかったあの頃よりも、今が、そして未来が明るいのです。しかし、それはキリストの十字架の贖いによって与えられた恩恵で、大切なのは、「死は、もはやキリストを支配しません(9節)」、とこのように言われていることです。逆に言えば、死はキリストを支配したのです。永遠の神の御子であるキリストが死の支配下にまでへりくだった、ということです。最も死から遠い方、命の君、むしろ命を与えられる身分の方が、死に支配された。これはパウロがコリントの教会に宛てた手紙でさらにはっきり語っています。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。(Ⅱコリ5:21)」、罪と何のかかわりもない方であるイエスが死に支配された、どうしてですか。私たちのためです。神はわたしたちのために、罪と何のかかわりもない方を罪とされたのです。

罪人であるわたしたちと、永遠の御子キリストとどう釣り合うのでしょうか。いいえ、天秤にかけることさえできません。しかし、驚くべきことに神は、御子を死に引き渡されてまで、私たちを選んでくださったのです。ここに神の愛があるのです。(ヨハネ福音書3:16参照)

 その上で結論が出されます。「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。(11節)」これは、6:1で、「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。」とこのように始められた議論の結論です。「恵みが増すようにと、罪の中にとどまる」これは、決して他人事ではなく、キリストの十字架が完全であるがゆえに、福音の背後に忍び込んでくる誘惑です。しかし、たとえ、恵みが増すようにと、罪の中にとどまろうとしても、キリストに結合されているがゆえにとどまれない、この抵抗すら出来ない救いが私たち信仰者の姿です。それを最終的に言い表したのが、「自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」、この姿です。ここでも大切なのは、「キリスト・イエスに結ばれて」、この状態です。「キリスト・イエスに結ばれて」、これを中心にして私たちの姿が示されているからです。「罪に対して死んでいる」、こちらの方は罪から解放されている、つまり、罪赦されて、無罪宣告された状態です。そして、「神に対して生きている」、これは4節で言われています、「新しい命に生きる」、この言い換えでもありまして、無罪宣告された後の信仰生活、つまり聖化です。ですから、この結論部分では、キリストとの結合を根拠にした私たちの信仰義認と聖化が、車の両輪のようなものであるように同時に示されていることがわかります。つまりその車軸がキリストであり、キリストがおられなかったら、たちまち車輪は両方ともどこかに吹っ飛んでしまい、車体はもはや崩壊するか無用の長物と化します。キリストなしには、私たちの信仰は一瞬たりとももたない、それがよくわかるのです。主イエスご自身がはっきりおっしゃっています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。(ヨハネ15:5、6)」罪に死んで神に生きる、これは言い換えますと、私たちの信仰義認と聖化です。そして、それはキリストとの結合に全てがかかっているのです。

このキリストとの結合によって与えられる聖化の歩みの本質が、「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。(5節)」これです。「その死の姿」、これはキリストの十字架であり、ご受難全体を示す表現です。つまり、「わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかる」、と言います時、それはキリスト者であるがゆえに与えられるこの世での私たちのすべての苦難や困難、そして苦しみです。他方、「その復活の姿」とは、永遠の命と神の国の全ての嗣業であり、計り知れない栄光そのものです。つまり、私たちのこのあらゆる惨めな姿は、復活の姿をそのまま証するものである、と聖書は言っているのです。

私たちは、この世におきまして多くの苦しみや悲しみが与えられます。どうして、こんな目に会わなければならないのか、と倒れこむこともあります。そして最後には疲れ果てて地上を去って行きます。

しかし、キリスト者である以上、その苦難も死さえも、栄光と命の証なのであります。

聖化の歩みとは、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかることであります。キリストの復活の姿にもあやかれることに希望をおいて。