2021年07月04日「新しい命に生きる~聖化のプロローグ~」

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新しい命に生きる~聖化のプロローグ~

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ローマの信徒への手紙 6章1節~4節

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1節 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。
2節 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
3節 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
4節 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
ローマの信徒への手紙 6章1節~4節

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説教の要約

「新しい命に生きる~聖化のプロローグ~」ローマ書6:1~4

本日からローマ書の6章に入り、ここから7章の終わりまで、義とされたキリスト者の生き方、一般的なキリスト教の教理用語を用いて言い換えますと「聖化」の問題が教えられます。ですから、本日の御言葉は、聖化の序章、ということが出来るでしょう。

聖化の序章は、「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。(1節)」、と福音を逆手にとって居直る論法で始まります。これは具体的には、前の段落の「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。(20節)」この真理を歪めて、では、恵みが増すようにと、罪の中にとどまりましょう、と都合のいいように解釈したものです。信仰義認の宣教者パウロには、度々このような反論が向けられたのでありましょう。しかし、如何でしょうか。「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」、多かれ少なかれ信仰者であります私たちは、この誘惑を知っているのではないでしょうか。それだけキリストの恩恵が絶大であるからです。

 私たちの行いとは全く無関係に、ただキリストの十字架によって私たちは罪赦され、キリストの復活によって永遠の命に生きることも許された、この圧倒的なキリストの恩恵によって、私たちの罪が些細なことのように思えてしまう。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか、ここまで厚かましいことは言えないにしても、実は似たようなことをしているのかもしれない。この問いと私たちは全く無関係ではないのです。これは、福音が強調されるところで、必ず忍び込んでくる誘惑なのです。

 しかし、間違えてはならないのは、些細な罪など一つもないということです。私たちのたった一つの罪でさえ、キリストの十字架で許されなければならなかったのです。ですからパウロは断言します。「決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。(2節)」これは、5章の終わりで示された支配の逆転を前提に語られていることで、私たちキリスト者は、アダムを先頭にした死の支配下にあるのではなくて、キリストを先頭にした恵みの支配のもとにおります。そもそも私たちが生きているフィールドが違うではないか、生きる場所が、死という場所ではなくて、恵みという場所に変わったではないか、そうパウロは言いたいのです。

さてパウロは、このことを理解するために、洗礼を例にとって説明を続けます(3、4節)。 「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(4節)」洗礼とは一度死ぬことなのです。それは新しい命に生きるためだからです。私たちは、洗礼によって一度死んだことにより、永遠の命をいただいて、すでにその永遠の命の中を歩み始めております。だから、やがて訪れる肉体の死は、もはや決定的な問題ではないのです。その場合、キリストの死と無関係でありながら、永遠の命に生かされている、ということはあり得ないのです。しかも、ここでは、キリストの死に与るばかりでなく、「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ」、とありますように、死者として葬られることまで示されています。つまりこれは決してお葬式ごっこではないということなのです。葬りというのは、もはやこの世と断絶された徹底的な死をあらわすからです。しかし、洗礼の最終的な目的は、死でも葬りでもありません。

 「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」これが洗礼の目的なのです。洗礼は、キリストの死に与ることであり、キリストと共に葬られることです。しかし、その究極的な目的は、私たちが「新しい命に生きるため」に他ならないのです。この「生きるため」、というのは、歩き回る、徘徊する、もともとはそういう意味でありまして、日常的な生活を示す言葉です。ここで大切なのは、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように」、と言います時、復活という概念ではなくて、むしろ日常的な生活が始まることを示しているところなのです。私たちは、確かに、洗礼によって、聖書的には死んで葬られ、それゆえに永遠の命に生かされる者とされました。もはや、罪の支配するフィールドにはおりません。しかし、その上で尚地上にある限り、生涯同じ場所で生活を続けるのです。これが大切です。

この現実に目を向けて、7章終わりまで続く聖化の序章に、最後に二つのことを確認いたします。

まず、聖化は私たちの努力目標ではない、ということです。むしろ、私たちは、聖化に関して徹底的に無力です。ここで、洗礼の最終的な目的が、「わたしたちも新しい命に生きるため」である、とこのように結論づけられました。そして、「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように」、なのです。キリストは、勝手に自分の御意志で復活したのではないのです。十字架で死なれて救いを完成してくださったキリストは、「御父の栄光によって死者の中から復活させられた」のです。ですから、それと同じように、「わたしたちも新しい命に生きる」、と言います時、私たちは徹底的に受け身なのです。葬られていたこの私が、「御父の栄光によって新しい命に生きる」、むしろ新しい命に生かされる、これが、私たちキリスト者の聖化の歩みなのです。聖化とは、御父の栄光によって私たちが新しい命に生かされることであり、私たちの積極的な修行や訓練を通して勝ち取るような代物ではない、ということなのです。

 もう一つは「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう(2節の)」、この問いかけから必然的に浮上する私たちの現実です。確かに、客観的事実として、私たちがこの世の元の場所にあるのにもかかわらず、罪の支配から恵みの支配に移されたのはわかりました。しかし、それでも尚、他ならぬ私たち自身が罪を犯しているのであり、むしろ、罪の中に生きている、それが現実ではないか、ということです。私たちは、罪を犯さなければ生きていけないからです。しかし、聖書は、罪に対して死んだわたしたちが、罪なき者である、とは言っていません。罪に対して死ぬ、というのは言い換えて見ますと罪からの解放です。そして、罪からの解放と、罪がなくなる、というのは全く別物です。

 旧約のイスラエルの民は、奴隷の家であり、死の支配であるエジプトから、解放されて荒地へ導かれました。その場合あの荒地には、どこまでも恵みの支配が広がっていたはずです。彼らはもはやエジプトにはいなかった。 しかし、彼らはその恵の支配の中で、あろうことかエジプトの地を懐かしみ、救い出してくださった神様につぶやき、偶像崇拝まで始めたのです。恵みの支配の只中で。

あのイスラエルの姿は、遠い過去の出来事であり、歴史の一ページに過ぎないのでしょうか。いいえ、あれは私たちの姿です。私たちは、恵みの支配の中で罪を犯し続ける恩知らずの民なのです。

しかし、それは誰よりも私たちと結合されているキリストがご存知です。大切なのは、その私が、御父の栄光によって新しい命に生きる者とされている事実です。これが聖化のプロローグです。罪からの解放と、罪がなくなるというのは全く別物であり、私たちは罪から解放されているのにもかかわらず罪を重ねて生きている、しかし、実にその私が新しい命に生きる、ここから聖化は始まるのです。