2021年06月13日「神の愛Ⅱ~和解の言葉~」

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聖句のアイコン聖書の言葉

5節「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
6節「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」
7節「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。」
8節「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」
9節「それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」
10節「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」
11節「それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。」
ローマの信徒への手紙 5章5節~11節

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説教の要約

「神の愛Ⅱ~和解の言葉~」ローマ書5:5~11

 2回に分けてローマ書5:5~11から、神の愛ついて学んでいます。本日はその後編で、9節以下を中心に教えられたいと思います。ここで、「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。(10節)」 とパウロが言いますように、私たちは義とされる以前は、神の敵でありました。

これほど恐ろしい状態はないのではありませんか。しかし、同時に、改めて神の愛の偉大さをあらわす事実でもありませんか。キリストは罪人の救い主であります。言い換えますと、それは、神の敵の救い主なのであります。神の愛であります「アガペー(ἀγάπη)」は、ご自身の敵のために御子を十字架に引き渡される愛なのです。主イエス様は、ご自身の福音宣教の最初に、「汝の敵を愛せよ」と言われました。それは、決して倫理的な規範を示したわけではありませんし、ご自身の思想を語ったわけでもありません。神の愛をそのまま示されたのです。最後には、ご自身が十字架にかかり、その愛を実現いたしました。主イエスは、確かに神の敵を愛されたのです。

 私たちは、聖書が「汝の敵を愛せよ」と言いますと、そんなことできるはずがない、とそのように思います。しかし、出来るはずがないのです。信仰の歩みを何年続けても敵を愛することなどできません。むしろ信仰生活を続ければ、続けるほど、それがお門違いであったことに気が付くのではありませんか。聖書が「汝の敵を愛せよ」と言います時、まず私たちは、私たちが敵であったことを知るべきです。汝の敵を愛したのは、主イエスであって、私ではない。むしろ私は愛された敵です。私たちは、この事実を認めて、十字架の愛によって神の敵であった私が救われた、まずこの恩恵に額ずくことです。そこからようやくこの御言葉が聞こえてくるのではありませんか。

そしてこの「敵であった」、という私たちの正反対の状態が、「神と和解させていただいた」、これなのです。この「和解」という言葉は、ギリシア語の「~に逆らって」、或いは「~に反して」という前置詞と「変える」という動詞が組み合わさって出来ました合成語でありまして、もともとは、「別のものと取り換える」、そういう意味を持っております。新約聖書でこの言葉の名詞や動詞をひっくるめても10回しか使われていない言葉でありまして、実はその全てをパウロが使っているのです。実にパウロこそ別のものと取り換えられた男だったからであります。彼は、キリスト教の迫害者の先頭にいた人物でした。しかし、ダマスコ途上で復活の主に見え、悔い改めて、キリスト教の伝道者の先頭に立ちました。この「別のものと取り換えられた」状態、それが和解なのです。

つまり聖書の言います和解とは生きること、しかも全く別の命を生きることに他ならないのです。「御子の命によって救われる」、というのはそういうことなのです。滅びの道を歩んできた私たちが、キリストの命、言い換えれば永遠の命を歩みだす、これが和解なのです。

 実は、このローマ書とほぼ同時期に執筆されたコリント書にこの和解ついての詳しい説明が見られます。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。(Ⅰコリ5:17、18)」このように、和解というのは、奉仕する任務まで与えられることです。そして、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」、とありますように、和解とは、「新しく創造され」、新しい命に生かされることであり、それが「別のものと取り換えられた者」なのです。

 さて、この神との和解の真理が語られたうえで一度結論が出されます。

「それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。(11節)」ここでは、キリストを通して、神と和解させていただいた結果として、「キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています」、とパウロは言います。これが、和解によって新しく創造され、別のものと取り換えられ、新しい命が与えられた私たちキリスト者の生き方です。

  最後に、この新しい命によって今を生きる私たちに与えられる慰めを2つ確認いたします。

 一つは、世の終わりについてです。新興宗教や異端と呼ばれる宗教の多くが、世の終わりの危機を大げさに吹聴し人々の不安を煽り、何時の時代も現れては消えていきます。特に異端は、聖書を使って人々を欺くので厄介であります。しかし、そもそも、どうして彼らが終わりの日に焦点を合わせて騒ぐのでしょうか。それは彼らが、神の愛とも神との和解とも、さらに言えばキリストとも無関係だからです。「今やこのキリストを通して和解させていただいた」以上、神は私たちの味方です。しかも、敵であったときでさえ、御子の死によって、和解を与えてくださった味方です。その場合、どうして世の終わりが大げさに語られなければならないのか。語らなければならないのは、ころころ変わり更新され続ける世の終わりの時の胡散臭い情報ではありません。キリストの十字架です。

キリストが十字架で死なれて復活され、聖霊の導きによって新しい時代が始まった以上、そもそもこの世はいつ終わってもおかしくないのです。大切なのはいつこの世が終わるかではなく、今キリストの十字架に悔い改めて救われることだけです。私たちの語ります和解の言葉と言う福音は、世の終わりを恐れる迷信ではなく、世の終わりを待ち望む信仰を与えるのです。

 2つ目、それでも尚、世の終わりに至るまで多くの苦しみが与えられます。

 3・11の大震災は記憶に新しく、今はコロナ禍にあり、環境破壊や争い、と確実にこの世は壊れていくように思えます。いつ何があってもおかしくない、と思って生きておられる方がほとんどではありませんか。私たちの中からも犠牲者が出るかもしれない。目の前で大切な家族や友人が犠牲になるかもしれません。キリスト者だからと言って逃れられる保証はありません。しかし、その時も私たちには御言葉があります。世の終わりまで一点一画も変わらぬ神の言葉がある。そしてこの御言葉の中心を忘れなければ、私たちの希望が無くなることはありません。それは十字架なのです。

十字架は、神の愛の頂点であって、私たちはすでにその一番大きな愛をいただいた、と繰り返し申し上げました。しかし、十字架は神の愛の頂点だけではなく、神の悲しみの頂点であり、神の犠牲の頂点でもあります。ですから、神は愛だけでなく、悲しみの頂点も、キリストの十字架で示されたのです。悲しみも犠牲も、より大きなものがまず示され、小さいものがそれに続くのです。この先どのような悲しみがありましても、その悲しみもキリストの十字架の犠牲には及びません。私たちが大きな悲しみを与えられた時こそ十字架の主に目を向けるのです。

 しかし、キリストは、十字架の3日後復活されました。その同じ復活の命が私たちにも約束されているのです。いつ何があってもおかしくない、しかしいつ何があってもこの約束は何一つ変わらないのであります。ここに神の愛と和解の福音があります。