2021年05月30日「信仰義認の祝福」

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1節「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、」
2節「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」
3節「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、」
4節「忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」
5節「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
ローマの信徒への手紙 5章1節~5節

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説教の要約

「信仰義認の祝福」ローマ信徒への手紙5:1~5

本日から入って行きますこのローマ書5章は、一つの山の頂上にたどり着いたような箇所でありまして、4章までで登ってきました信仰義認という山の頂から眺めた絶景が、ここから記されている、と申し上げてよろしいでしょう。この文脈は8章の終わりまで続きまして、簡潔に申し上げますと、ここでは信仰義認によって与えられる祝福がどのようなものであるかが示されていきます。

その信仰義認の頂から眺めた風景の最初に「神との間に平和(1節)」とパウロは言います。この山の頂から見える風景は、見渡す限り神の平和という地平が広がっている、ということであります。

聖書的に平和とは、神との正しい関係が回復されている状態であり、この世的な豊かさや、成功、或いは健康や心の平安のようなものとは違います。これらのものが与えられることを私たちは願っておりますが、もしいずれかが欠けてしまったり、或いはすべて失っても、神との関係が失われなければ、そこには恵みと憐れみが尽きることがない、それが聖書的な平和です。病床にありましても、貧困にありましても、そのような事情によって神との平和が途絶えることはないのです。それゆえパウロは、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。(3節)」とこのように言い切れるわけなのです。この世においていかなる苦難にありましても、神との正しい関係があれば、そこには平和があるのです。

大切なのは、ここで「誇りにしています」、と誇る、という言葉が繰り返されているところです。ドイツのケーゼマンという神学者が、「人間は誇りにおいて自分が誰に所属しているかを表明する」とこのように言っていました。その通りだと思います。パウロが、希望を誇りにしておりましても、苦難を誇りとしておりましても、それは彼がキリストに所属していることの表明であることには変わりがないのです。この希望と苦難の両者は、天と地、或いは未来と現在と言い換えることも可能です。神の栄光にあずかる希望、これは天にあって未来に実現する誇りです。他方、苦難は、地上における現在の誇りです。パウロは、現在の地上での事実に目をふさいで、呑気に天国の希望を語っていたのではないのです。目の前の現実がいかに苦しくてもキリストに所属しているゆえにこれを誇り、未来のゴール地点にあります天国の栄光も、キリストに所属しているがゆえに希望を抱き誇っていたのです。「天と地の一切の権能を授かっている(マタイ28:18)」、この主イエスが私たちの主であり、私たちがこの主イエスに所属している以上、天と地の両方で、その一切の場所で誇ることが許されるのです。

 その上で、さらにパウロは、地上における現実を語ります。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。(3~4節)」ここでは、苦難に対する積極的な関りが示されておりまして、キリスト教の特色が色濃く表現されています。特に私たちの時代におきまして、この世は苦難を極度に嫌い、消極的に対応します。しかし、その場合、苦難は苦難で終わります。逃げても、つぶやいても、苦難は苦難のままです。ところが、キリスト者にとって、苦難は苦難のままではないのです。苦難は、忍耐を生み、練達を生み、希望を生み出す、とこのようにそのステージが変化しながら進展していくのです。実に、苦難から始まるゴールは希望なのです。

しかし、私たちは、この希望に本当にアーメンと言えるでしょうか。実際普段私たちが抱きやすい感情とこの希望は大きくかけ離れていて、この希望がきれいごとに聞こえないでしょうか。私たちは、苦難にある時、自分を哀れに思い、兄弟姉妹を哀れに思うからです。しかし、希望ときれいごとは違います。きれいごとは、実体が伴わない表面だけのお話です。しかし、この希望には実体があり、内容も詰まっているのです。それが最後に示されます。

「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(5節)」この「希望はわたしたちを欺くことがありません」、の「欺くことがありません」、の部分は、もともと恥をかかせない、そう言う意味の言葉です。期待して楽しみにしていた約束があって、それがあまりにも素晴らしいから、独り占めに出来ずに、友人や家族に声をかけてその約束の場所に集まってもらう、これが伝道です。しかし、そこにやってきた時、それが真っ赤な嘘であったらどうなるでしょうか。大恥をかきます。さらに、この場所に集まってくれた人さえも巻き添えにします。もし私たちが抱いているこの希望がただのきれいごとに過ぎない作り話でしたら、私たちの希望はそのまま失望となり、私たちは欺かれた上に恥をかきます。もしそうなら福音宣教などしないほうがいいわけです。しかし、希望はわたしたちを欺くことがありません、と聖書は断言するのです。その理由は、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」これなのです。これは先週のペンテコステ礼拝で教えられたばかりのことです。父、子、聖霊、この三位一体の神様が、そのご存在、力、栄光、において等しい方である以上、その愛においても等しいのです。神の愛とは、十字架の愛であり、それがそのまま聖霊によって私たちに注がれている、それが、希望が失望に終わらない保証である、ということなのです。

 実は、この「注がれているからです」、の注ぐ、という言葉が聖書的に非常に大切です。これは零れて流れるほどに豊かに注がれる、そう言う意味でありまして、非常に重要な御言葉で使われています。それは聖餐式制定の御言葉です。 「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。(マタイ26:28)」この「多くの人のために流されるわたしの血」、の「流される」、この言葉が、本日の箇所で「注ぐ」、と訳されています同じ言葉で、まさにキリストの十字架の血の述語と言えるのです。ですから、「神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」とパウロが言います時、それは私たちの罪のために豊かに溢れて流された十字架の血が、今も同じ聖霊の愛によって私たちに注がれている、という事実なのです。これがきれいごとでしょうか。いいえ、逆です。歴史の中で流された血にまみれた愛です。これはキリストの十字架という歴史的事実に裏打ちされた神の愛です。「希望はわたしたちを欺くことがありません」、それは事実神の御子キリストが十字架で死なれたからです。希望は、私たちの感情とかけ離れていても、十字架の愛のゆえに、失望に終わらないのです。キリストの十字架を超える恩恵はどこにもありません。「神の栄光にあずかる」、のはキリストの十字架よりも優れたことでしょうか。いいえ、キリストの十字架の恩恵には劣る恵みです。キリストが十字架で死なれた以上、私たちに与えられないものは何もないのです。

今日、信仰義認という山から眺めた風景は如何であったでしょうか。そこにあったのは、神との平和の地平でありました。しかし、それはきれいごとではなく、十字架の言葉でありました。実は私たちは、今この山の頂にいるのです。キリスト者であれば、必ず、日々信仰義認という山から見渡す景色を見ているはずなのです。私たちは信仰によって義と認められ、信仰生活を歩んでいるからです。

ですから、今日から始まって8章の終わりまで続く、この御言葉は、私たちの現実そのものであり、毎日見ている風景と見事にリンクするはずです。それゆえこれ以上悔い改めと献身と喜びが与えられる御言葉はないと思います。今日からこの山に立ち共に信仰義認の祝福を眺めてまいりましょう。