2021年05月16日「信仰義認と私たち」

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23節「しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、」
24節「わたしたちのためにも記されているのです。わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。」
25節「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」
ローマの信徒への手紙 4章23節~25節

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「信仰義認と私たち」ローマ信徒への手紙4:23~24

本日の御言葉は、ローマ書の4章で行われてきた信仰義認の実証の最終回で、パウロは、「しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。(23、24a)」とこのように信仰義認の実証を、信仰義認と私たちとの関係を説明することで結論づけます。

これは信仰告白と言えます。今までパウロが、アブラハムの生涯を描き、旧約聖書から信仰義認を実証したうえで、「それは、わたしたちのためにも記されているのです」、とこのように言います時、旧約聖書から連綿と続けられてきた神様の救いの歴史の延長線上に、そのレールの上にこの私たちの時代もある、という信仰告白にもなっているのです。これは聖書全体と信仰者との関係を謳った信仰告白なのです(ローマ書15:4参照、Ⅰコリ10:11等も参照)。

ここで大切なのは、このキリストの十字架と復活に対するアブラハムを始めとした旧約の信仰者と私たちの立ち位置の違いです。キリスト以前の旧約の信仰者たちは、キリストの十字架と復活の実現を目撃することはできませんでした。彼らは、キリストの到来に希望を抱きつつ地上から去っていったのです。これが旧約の信仰者たちの立ち位置です。それに対して、私たち新約時代の信仰者は、キリストの十字架と復活の実現を知っております。私たちは、キリストの十字架と復活の証人として、今十字架を仰いでいる、これが新約の信仰者の立ち位置なのです(ヘブライ書11:13と39、40を参照)。しかし、キリストの十字架に対する前後の違いはありましても、信仰者はいつの時代でも、この世の只中で、信仰によってのみ、このキリストの十字架と復活を確認し、喜ぶ神の民であることには何の変りもありません。いつの時代も罪人に必要なのは信仰なのです。

 その上で、この信仰の中心にありますキリストの十字架と復活の出来事が再度確認されます。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。(25節)」これは、そのままキリストの十字架と復活であり、福音の要約と言えます。或いは、その福音に対する信仰告白ともいえましょう。ここで大切なのは、この信仰告白が「わたしたちの罪のために」、さらに「わたしたちが義とされるために」、とこのように「わたしたちのために」、と連呼するところです。永遠の神の御子の十字架と復活が、罪人であるこの私のためである、なんと大胆な信仰告白でありましょう。しかし、これが、神の救済史のレールの上を走っているキリスト者の最高の特権です。ここではキリストの十字架と私たちとの関係が、非常にダイナミックに躍動しているのです。

そして、実は、ここで「わたしたちの罪のために」と使われています罪という言葉が大切で、日本語の本文ではわかりませんが、ギリシア語本文では、この言葉はローマ書でここに初めて現れます。

この「罪」という言葉は、通常使われる「罪」と比べて、より具体的な罪を言い表しています。相手の行為や忍耐を踏みにじるような、そう言う罪です。つまり、神様とのダイナミックな関係における罪、神様のご厚意を裏切るような、そう言う罪と言えましょう。神様は、極めて善いものとして天地万物を創造され、その素晴らしい世界を舞台にして最後に人間を創られました。そして、私たち人間に、ご自身の被造物を管理するというこれ以上ない役割を与えてくださいました。しかし、人は、自分が神になるかのように企み罪を犯しました。この神のご厚意に対する裏切り行為、人間の根本的な罪、これがここで言われている罪です。ですから、イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、と聖書が言います時、キリストの十字架が、私たち人間の根本的な罪を解決し、その罪による神様と私たち人間との断絶を回復して、天地創造のあの幸せな状態に戻してくださるということなのです。これが主イエスの十字架の恩恵なのです。

さらに、「わたしたちの罪のために死に渡され」、この渡される、という言葉が非常に大切です。これは主イエスの十字架の場面で繰り返される大切な言葉でありまして、神のご計画によって実現したキリストの十字架のご受難全体を示す言葉で、言ってみれば救い主の述語です。これほどまでに、神の忍耐と愛とを言い表す言葉を見つけるのは困難です。

パウロは、同じこのローマ書の8章で、この引き渡すという救い主の述語を使って神の愛の偉大さを高らかに謳っています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。(8:32)」この「死に渡された」の渡すという言葉です。「その御子をさえ惜しまず死に渡された」、ここにこのキリストの十字架に示された神の愛の頂点があるのです。そうである以上、永遠の命或いは御国の世継ぎは必ず与えられるのであります。そしてこの神の愛の頂点に、私たちの信仰の頂点もあるのです。信仰とは、神の愛を丸ごといただく器なのです。

 昨年から世界全体が感染症に脅かされ、この信仰のレールから私たちが見ている風景も一変しました。全ての人がコロナ禍の終息を願っています。しかし、これはまだ序の口なのかもしれません。コロナ禍の後さらなる困難が待ち受けているかもしれません。もうあの頃には戻れない、と多くの人が悟るような時代が来ないなどと今誰が言えましょう。 しかし大切なのは、それでも尚、主なる神様は同じである、ということです。このレールから見える世界がいかに変わろうが、その世界を支配される神は全く変わらない。アブラハムを憐れみパウロを助けた、その同じ神様が今私たちを導いているのです。

 今日私たちは、聖書の最初の言葉でこの礼拝に招かれました。 「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(創世記1:1~3)」実にこの聖書の最初の言葉が、世界史を貫き、聖書全体と世の終わりに至るまでの、神様の救い全体を見事に表現しているのではありませんか。 神様の救いの歴史というレールの最初から最後まで、この御言葉が響いているのです。

混沌であった世界に「光あれ」と神が命じた時、素晴らしい世界が始まった。しかし、その創造の冠として創られた人間は罪を犯し堕落して、その神のご厚意を台無してしまった。その時またこの世界はカオスに戻ってしまった。しかし、神は再び「光あれ」と言われた。それがキリストの十字架と復活の出来事なのです。ここに新しい創造が始まったのです。ところがその光が闇の中で輝いているのに、この世はそれを認めようとせず福音を無視し、光より暗闇の方を好んだ。その帰結が私たちの時代であり、さらに世界を混沌とさせているのではありませんか。環境破壊、戦争、差別、そしてコロナ禍。この神様の救いの歴史のレールから見る風景はいつでもカオスなのです。しかし、もう一度だけ「光あれ」、この言葉が響き渡る時があります。それが終末、キリストの日であります。私たちは、信仰によって義とされている以上、周りが暗闇であろうがカオスであろうが、それは問題ではありません。私たちが今「光あれ」この十字架の光に照らされ、最後の「光あれ」を待ち望んでいるからです。