2021年05月09日「希望に反する希望」

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18節「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。」
19節「そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。」
20節「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。」
21節「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。」
22節「だからまた、それが彼の義と認められたわけです。」
ローマの信徒への手紙 4章18節~22節

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説教の要約 「希望に反する希望」ローマ信徒への手紙4:18~22

ローマ書4章から信仰義認の実証が続けられています。本日の御言葉では、アブラハムの信仰がさらに具体的に示されながら、信仰義認の実証が行われて行きます。

ここでまず「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ(18節)」と記されている部分を直訳しますと、「彼は希望に反して、希望において信じた」と非常に単純な文章であります。しかし、これは二律背反であり、何とも辻褄の合わない事態です。後で明らかにされますが、実は、この矛盾が本日の御言葉の中心的真理であり、真の信仰と希望をそのまま言い表しているのです。

そのうえで、早速その具体的な状況が示されていきます。「そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。(19節)」この「そのころ彼は」、これは、創世記17章以降の99歳の老人になったアブラハムを指しています。さすがに99歳になりますと衰えは隠せません。しかし、それでも「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。(20節)」とパウロは言います。これは決してアブラハムが不信仰と無関係であったということではありません。実際アブラハムは常に不信仰と戦ったのです。むしろ不信仰によって恐れたり迷ったりするから「信仰によって強められる」のではありませんか。信仰生活は、常に不信仰との戦いです。

 確かに99歳のアブラハムは、20年前と比べれば、信仰者として成長していました。しかし、それでも聖書の記録によればイサクが生まれる直前まで、不信仰な姿をさらしていたのです。彼は、神様に召命をいただいた75歳の時、そのすぐ後、神様が与えてくださったカナン地方を離れ、当時の大都市であったエジプトに移住しました。そこでアブラハムは、エジプト人を恐れ、自分の命を守るために、妻であるサラをエジプトの王ファラオに差し出したのです(創世記12:10~20)。何とも不信仰な姿であります。この時は、神様がエジプトに怒りを注ぎ、疫病をもたらせたので、何事もなくサラは解放され、アブラハムもファラオにさんざん叱られながらもエジプトを脱出することが出来ました。

しかし、実は99歳になったアブラハムは、この20年前と全く同じ過ちを繰り返しているのです。「アブラハムは、そこからネゲブ地方へ移り、カデシュとシュルの間に住んだ。ゲラルに滞在していたとき、アブラハムは妻サラのことを、「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた。(創世記20:1、2)」この場面です。このゲラルというのは、ペリシテのことです。後にイスラエルを脅かしたペリシテ人は、いち早く鉄の剣や槍と言った最新鋭の兵器で武装し、周辺諸国の脅威となっていました。アブラハムの時代どれくらいの軍事力を持っていたかは不明ですが、好戦的な民族であったことは確かです。アブラハムは、それを恐れたのです。ここでは、むしろアブラハムは、パウロが言うのに反して、不信仰に陥っているのではありませんか。

しかし、実に、その不信仰の極みで、約束の長子イサクが与えられたのです。(創世記21:1、2)アブラハムが不信仰であっても、契約違反を重ねても、神様は真実で、約束を守られる方である、それを確かに御言葉は証明しているのです。結局、この神様の真実が、アブラハムに信仰を与えただけでなく、その信仰を確立し、導き守ったのです。つまり、「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく」、とパウロが言います時、アブラハムが不信仰に陥っていたこともあったのです。しかし、それでも、その不信仰の只中にあっても、神様は真実な方で約束を守られたということです。

確かにアブラハムは、愚直に神に従いました。彼はその点で信仰の父であります。しかし、その信仰に全く疑いがなかったということではありません。むしろ疑えなかったということなのです。たとえ不信仰な男であっても疑えないほど神様は真実である、それを聖書は実証しているのです。

つまり、「不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく」、ここにアブラハムの傷だらけの信仰生活が脈打っているのです。2度も3度も同じ偽りと同じ罪を繰り返すアブラハムは、自分の弱さをよく知っていたのです。だから、神様に頼るしかなかった。私たちもそうではありませんか。私たちもアブラハムと同様、同じ罪ばかり犯すのです。そこに私たちのそれぞれの弱さがあるからです。

この世は仏の顔も三度までと言います。しかし、私たちが三度で足を洗える罪がいくつあるでしょうか。それでも尚、私たちの神は、悔い改めて立ち帰る時、赦してくださるのです。だから、私たち罪人は神に頼るしかないのです。そうである以上、失敗の数とか、今の自分の姿であるとか、そのようなものは問題ではありません。大切なのは、その惨めな姿を認めて、徹底的に悔い改めることです。

 本日の御言葉は「彼は、希望に反して、希望において信じた」と始まります。最初に申し上げましたように、これは自己矛盾で、論理的に説明できません。しかし、論理で説明できるのなら、それは希望ではないのです。目の前の現実に算盤をはじいて、勝算があるうえで期待するのは、聖書の言います希望ではありません。

 私たちの群れから、すでに地上での歩みを終え、天に召されて行かれた方がおられます。私たちもいずれ、その後を追うでしょう。その時、死んで、葬られて、朽ちていく私たちに、わずかでも勝算がありますでしょうか。死という、その現実からどうやって算盤をはじくのでしょうか。いいえ、無理です。全く勝ち目などありません。しかし、その全く勝ち目のない私たちが、死に勝利して復活することを信じるのが真の希望です。死が命に逆転する、これが希望です。「希望に反して、希望において信じた」とはそういうことです。

 パウロは、このローマ書の少し先で、「希望に反して、希望において信じた」という事態を非常に適切に説明しています。「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。(8:23~25)」この「見えるものに対する希望は希望ではない」、これが「希望に反する希望」の言い換えとも言えましょう。しかも、この希望は楽観的に自分を欺いたり、現実から目を逸らすことではありません。アブラハムは、極めて現実的に自分たちの状況を判断していました。だから、しばしばこの世を恐れたのです。そしてだから信仰は不信仰との戦いになるのです。しかし、それでも尚、彼は、その全く可能性などないところに、希望を抱いたのです。ですから真の希望とは、可能性のないところ与えられる神の言葉への全面的信頼であり、簡潔に申し上げれば「聖書信仰」です。つまり「希望に反する希望」それはそのまま「聖書信仰」なのです。大切なのは、御言葉に満たされることです。私たちの恐れや疑いや迷いが、この身体に居場所を失うほど御言葉に満たされることです。今日私たちの希望が砕かれようが、明日不信仰や絶望に襲われようが、神の言葉に満たされている以上、私どもには「希望に反する希望」があるはずです。(詩編62:6、7)