2021年03月21日「ただの一人もいない」

問い合わせ

日本キリスト改革派 高島平キリスト教会のホームページへ戻る

Youtube動画のアイコンYoutube動画

Youtubeで直接視聴する

聖句のアイコン聖書の言葉

9節では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
10節次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。11節悟る者もなく、神を探し求める者もいない12節皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。13節彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。14節口は、呪いと苦味で満ち、15節足は血を流すのに速く、16節その道には破壊と悲惨がある。17節彼らは平和の道を知らない。18節彼らの目には神への畏れがない。」
19節さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
20節なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

ローマの信徒への手紙 3章9節~20節

原稿のアイコンメッセージ

説教の要約 「ただの一人もいない」 ローマ書3:9~20

申し上げてきましたように、本日の御言葉は、1:18から続けられてきた罪についての議論の最終回であり、結論部分でもあります。ここでは、旧約聖書の所々が引用されながら、人間の罪の深刻さが描かれていきます(10~18節)。そして、その中心にあるのが「正しい者はいない、一人もいない(10節)」という真理で、その現実がもたらす悲惨な結末が、「足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。彼らは平和の道を知らない。(15~17節)」すなわち戦争です。

パウロはこれを示して旧約引用を終え、1:18から続けられてきた罪の議論に終止符を打ち、「なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。(20節)」とこのように結論を出します。

この結論を簡単に要約いたしますと「律法の機能」或いは「律法の役割」とすることが出来るでしょう。大切なのは、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」、この真理です。律法を行うことによって救われる者は一人もいない、ということだからです。それどころか、「律法によっては、罪の自覚しか生じない」、と最後にパウロは言います。律法には人を救う機能も力もないのです。律法にあるのは、罪の自覚の機能、すなわち、罪を罪として認めさせること、罪を暴く機能なのです。そして、それは、律法が不完全であるからではないのです。それほど人間の肉体が弱いからなのです。実は「だれ一人神の前で義とされない」、この部分の「だれ一人」の所は、ギリシア語の本文に忠実に訳しますと「全ての肉体」であります。「全ての肉体は、神の前で義とされない」、とここでは私たちの肉の弱さが強調されているのです。

 パウロは、この私たちの肉体と律法との関係について、この後8章でさらに詳しく述べています。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(8:3)」これです。「肉の弱さのために律法がなしえなかったこと」、それは、罪の赦しです。 私たちの肉体が弱いので、律法にはこの罪の赦しの機能がないのです。そこで、主なる神様は、「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断された」、とこのようにあろうことか、永遠の御子を、私たちと全く同じ弱い肉体を取ってこの世に遣わされ、最後には十字架で私たちが受けるべき刑罰をその御子に与えられ、罪の赦しを実現されたということです。私たちは、罪という言葉を簡単に使います。しかし、罪とはそんなに簡単なものではないのです。栄光の神の御子が十字架で死ななければ罪の力は無効にはならなかったのであります。それだけ罪は深刻なのです。

 この罪の議論に終止符が打たれる御言葉から2つのことを確認したいと思います。

 一つ目は、この御言葉の役割です。本日の御言葉では、旧約聖書が引用されながら、人間の罪の証拠聖句とされました。そして最終的に「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」と結論づけられました。次週の箇所は、信仰義認の真理が約束されている信仰義認を謳う珠玉の御言葉と言えます。しかし、信仰義認が語られる前に、人間の罪の重さが徹底的に語られなければならないのです。

「律法によっては、罪の自覚しか生じない」、換言すれば「律法は罪の自覚を生じさせる」のです。

大切なのは、律法すなわち、旧約の御言葉によって、罪の自覚が生じることなのです。本日の御言葉は、旧約の御言葉引用によって徹底的に人間の罪を暴いて、キリストに目を向けさせる役割を担っているのです。

二つ目、その本日の御言葉の旧約引用では、「正しい者はいない、一人もいない」、と宣言されて始まりました。そして、その罪の悲惨な結末の最たるものが戦争である、ということが示されました。

戦争は人間の罪の最悪の結果と申し上げてよろしいでしょう。では平和の道とは何でしょうか。

ジョンレノンという音楽家がおりました。昨年の12月、丁度彼が凶弾に倒れてから40周年ということで、巷ではその作品やメッセージが例年以上に再評価されていたようです。

ジョンレノンの音楽活動の中心に「戦争反対」という強いメッセージがあり、「イマジン」は、ジョンレノンの代表曲として今でも世界中で歌われています。キリスト者でも世代の方は、今でも頭の中であのジョンの歌声が再生されるのではないでしょうか。この歌は、天国も地獄もなく、国境もなく、宗教もない、そう言う平和な世界の理想像を描いたものです。勿論、全く聖書を無視した典型的な無神論で、そこにあるのは、「人間は相互の愛に基づく平和と正義の世界を実現できる」、というヒューマニズ思想に他なりません。それでも、ジョンレノンは、ベトナム戦争の只中で、戦争に反対し、積極的に行動した人物の一人であり、その活動は評価されるべきであります。

あのイマジンの底流に流れるメッセージは「平等」ではないでしょうか。「想像してごらん 何も所有しないことを…、欲張ったり、飢えることも無い、人はみんな兄弟だ」と彼は謳います。

しかし、彼が最も見逃していた「平等」があるのです。そしてそれが、聖書が言います真の平等なのです。その平等とは何でしょうか。それが、「正しい者はいない、一人もいない」、これなのです。「義人なし、一人だになし」、これが聖書の言います平等なのです。実にジョンの描いた愛や正義のもたらす平等と正反対の平等が、聖書の言います平等なのです。だからイマジンも正反対なのです。ジョンのイマジンは、「天国などない」でありますが、私どものイマジンは「神の国」です。

ジョンレノンのイマジンに心打たれる者は多いでしょう。しかし、それは結局スローガンで平和を打ち立てる力はありませんでした。争いが絶えない今、かえってむなしく響くようにさえ聞こえます。どうしてでしょうか。正しいものは一人もいないからです。感動しても心打たれても罪人は罪人のままで、その現実は何も変わらないのです。「正しい者はいない、一人もいない」、この平等が謳われた時、人間は真の平和へと向かうのではありませんか。「正しい者はいない、一人もいない」、その時十字架の主イエスを仰ぎ見るしかなくなるからです。この平等を土台にしない限り、真の平和はありません。それを謳うのが私たちキリスト者の役割ではございませんか。

イマジンの最後の一節は「そして世界はきっとひとつになる(And the world will live as one)」これでありました。彼は、この壮大なヴィジョンを訴える自らを dreamerと呼びました。しかし、私たちはdreamerではなく、信仰者です。私たちのイマジンは「神の国」であります。神の国の完成を信仰の目で見て喜ぶ者であります。

「ただの一人もいない」のです、義人は。しかし「ただの一人もいない」はずなのに私は救われるのです。ただ一人正しい方がいらっしゃるからです。「ただの一人もいない」中から非常に多くの者が救われる、だから福音なのであります。なんという喜びのイマジン、勝利のイマジンでありましょう。