2021年02月28日「自分には教えないのか」

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ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。19、20節「また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。ローマの信徒への手紙 2章17節~24節

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説教の要約 「自分には教えないのか」ローマ書2:17~24

 ローマ書は、2章の頭からは、ユダヤ人の罪について指摘していますが、本日の17節からは、「あなたはユダヤ人と名乗り」、とこのようにいよいよユダヤ人に対して名指しで「ディアトリベー(διατριβή)」という当時の修辞学の問答形式の弁論術を用いて議論を仕掛けていきます。

さらに、この後2章の終わりまで、パウロはユダヤ人の罪について語り続けるのですが、本日の箇所であります24節までは、律法との関係でユダヤ人の罪に光が当てられ、そして次週の箇所の25節から2章の終わりまでは、今度は割礼との関係によってユダヤ人の罪が指摘される、そう言う文章構造になっております。  

パウロは、まず「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。(17、18節)」とユダヤ人が神の民であることを明確にします。これがユダヤ人と律法の関係ともいえましょう。そのうえで、この神の民ユダヤ人と異邦人との関係も語るのです。それが「また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。(19、20節)」この部分です。

ここでは、律法を持つユダヤ人と異邦人との関係以上に、むしろユダヤ人の異邦人に対する役割、と申し上げてよろしいでしょう。神の律法とは、一つに民族に限定されるようなちっぽけなものではないのです。ユダヤ人にとどまらず、ユダヤ人から異邦人にもその光が当てられる、そう言う世界的な広がりを持つものなのです。ここまでで、示されたユダヤ人の姿はまさにそのまま神の民であり、あらゆる民族に勝る最高の栄誉がここにあります(申命記4:5~8参照)。

しかし、だからこそますます次の御言葉は痛烈です。「それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか。(21、22節)」律法の民であり、異邦人の光であるはずのユダヤ人が、律法をことごとく破っている、ということです。それゆえ最終的には、「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている(24節)」これが律法とユダヤ人の関係の結論として提示されます。つまり、ユダヤ人の立場、そして彼らの存在そのものが皮肉になってしまっている、それが本日の御言葉の要旨です。

本日の御言葉を解くカギの一つは、本日の御言葉から、「あなたはユダヤ人と名乗り」、とこのようにいよいよユダヤ人に対して名指しで議論を仕掛けている、ということです。

 そしてもう一つは、これが「ディアトリベー(διατριβή)」という当時の修辞学が用いていた問答形式の弁論術であり、それも、本日の御言葉からは、「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り」、とこのように、さらに的を絞って、ユダヤ人である「あなた」に問いかけているということ、この二つです。

この二つを通して、本日の御言葉が私たちに何を語っているのかを教えられたいと思います。

 まず、「あなたはユダヤ人と名乗り」、というこの呼びかけです。この時代今のように教会の信徒は聖書をもっていませんでしたから、このように使徒から手紙が送られてきた場合、信徒が集まる礼拝の中で司式者が代表して大きな声で朗読してその使信を分かち合っていたのです。パウロの手紙を受け取ったローマの教会の礼拝で、今この御言葉が朗読されている場面を想像していただきたいのです。ローマの教会の会員はおそらく異邦人の方が多く、むしろユダヤ人は少数派であったと言われています。その少数派であると思われるユダヤ人に対して、パウロは「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り」と容赦なく始めて「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」、とこのように結論付けるのです。どうしてでしょうか。それは、ユダヤ人のこの問題が他人ごとではなかったからです。最初期の教会は、そのように感じ取ったのではありませんか。彼らは、旧約の神の民の犯した罪と決して無関係ではなく、むしろユダヤ人の罪によって悔い改めを迫られたのです。

律法は旧約の神の民のしるしでありました、ですから律法は旧約の福音である、と言えます。

では新約の福音とは何でしょうか。そうですキリストです。旧約の律法を十字架のイエスキリストが完成してくださり、キリストによって律法は実現し、このキリストを信じることで救われる、これが「新約」であり、新しい契約です。神の民の旗印は、律法からキリストに変わったのです。ですから、最初期の教会、そして私たちにとって、神の民である、というしるしはキリストなのです。

 ここで本日の御言葉の最初の17節に戻ってやっていただきたいことがあるのです。

 律法のところをキリスト、そしてユダヤ人のところをキリスト者、と読み換えていただきたいのです。

 17、18節「ところで、あなたはキリスト者と名乗り、キリストに頼り、神を誇りとし、その御心を知り、キリストによって教えられて何をなすべきかをわきまえています。」まさにこれが私たちの姿ではありませんか。これが新約のユダヤ人であるキリスト者の姿です。いかがでしょうか。この私たちの立場が、皮肉になっていないと言えましょうか。旧約の福音は律法でした。それに対して新約は比較できないほど恩恵にあふれた福音でありますイエスキリストが与えられています。しかし、罪人の姿は同じなのです。福音は、はるかに偉大なものに変わりました。しかし、旧約の時代であろうが、私たちの時代まで続いている新約時代であろうが罪人は罪人なのです。私たちは、旧約のユダヤ人の罪を繰り返す同じ罪人にすぎないのです。「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」、今キリスト教会もこの御言葉と無関係ではないということです。

 そして、二つ目、これは、「ディアトリベー(διατριβή)」であり、「ところで、あなたはキリスト者と名乗り」、とこのように、他でもないキリスト者である「あなた」に問いかけている、ということです。私たちは周りを見渡してはならないのです。この御言葉はあなたに向けられている、周りを見渡すのではなく、真正面から、この御言葉によって神の御顔を仰ぎ悔い改めなければならないということです。悔い改めるとはそういうことです。

ディアトリベーは路傍伝道です。砂埃が舞い上がり、日が照り付ける砂利道で、今この十字架の使徒は語っているのです。昔から今に至るまで、このローマ書ほど研究されてきた書物はありません。今でも新しいパウロの発見というような研究は続いています。それは、聖書の真理を知るうえで非常に有益でありましょう。さらに、そのような聖書学の進展を私たち改革派教会は歓迎します。しかし、それはキリスト教信仰にとってあくまでも周辺的なことであります。空調のきいた書斎や研究室でいくら素晴らしい発見にありつけても、天からの恵みと祝福は、今路傍伝道に悔い改めて、キリストの十字架の前に額づく信仰者の足元にも及びません。神の言葉を前に、一番大切なことは、研究することではなく、悔い改めことです。本日は、「自分には教えないのか」という説教題が与えられました。

これは、そのまま、「あなたは悔い改めないのか」、という私に向けられたディアトリベーであります。