2021年02月07日「主を喜べ」

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主を喜べ

日付
説教
新井主一 牧師
聖書
ネヘミヤ記 7章72節~8章12節

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聖句のアイコン聖書の言葉

「第七の月になり、イスラエルの人々は自分たちの町にいたが、」
「民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた。」
「祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。」
「彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。」
「書記官エズラは、このために用意された木の壇の上に立ち、その右にマティトヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤが、左にペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカルヤ、メシュラムが立った。」
「エズラは人々より高い所にいたので、皆が見守る中でその書を開いた。彼が書を開くと民は皆、立ち上がった。」
「エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、「アーメン、アーメン」と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。」
「次いで、イエシュア、バニ、シェレブヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、ヨザバド、ハナン、ペラヤというレビ人がその律法を民に説明したが、その間民は立っていた。」
「彼らは神の律法の書を翻訳し、意味を明らかにしながら読み上げたので、人々はその朗読を理解した。」
「総督ネヘミヤと、祭司であり書記官であるエズラは、律法の説明に当たったレビ人と共に、民全員に言った。「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた。」
「彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」
「レビ人も民全員を静かにさせた。「静かにしなさい。今日は聖なる日だ。悲しんではならない。」
「民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った。教えられたことを理解したからである。」
ネヘミヤ記 7章72節~8章12節

原稿のアイコンメッセージ

説教の要約 2021.2.7「主を喜べ」ネヘミヤ記7章72節b~8章12節

 先週、恵みの中で会員総会を終えることが出来ましたので、この主の日は、本年度の年間聖句でありますネヘミヤ記の御言葉が与えられました。これは、バビロン捕囚から帰還してしばらくたった後、エルサレム神殿の前で行われた礼拝の様子が描かれている御言葉です。

 8節以下で具体的なこの礼拝のメッセージが記録されていて、ここで、「彼らは神の律法の書を翻訳し」、とあります。祭司エズラが行っていた聖書の朗読を、彼に仕えるレビ人たちが翻訳していた、ということなのです。エズラが朗読した神の律法の書はヘブライ語でありました。しかし、バビロン捕囚後のこの時代になりますと民衆の多くの者が生まれた時からアラム語を母国語のように用いていまして、国語のはずのヘブライ語がよくわからなかったのです。彼らは、確かに「神の民ユダヤ人」という強い民族意識をもって、神殿の前に集まりましたが、肝心な御言葉を失っていたのです。形式的な民族意識であったということです。神の民ユダヤ人という看板を立てていただけで、中身が空であったということです。神の言葉である聖書がわからないのですから。

ですから、御言葉の内容をよく理解したとたんに民衆に大きな変化が現れます。「民は皆、律法の言葉を聞いて泣いていた(9節)」のです。大切なのは、ここで「律法の説明に当たったレビ人」がいたことも記されていることです。これは御言葉の解き明かしです。エズラが読み上げた神の言葉をレビ人たちが解き明かしたのです。つまり、御言葉から、彼らがおかれている現実を説明されたのです。どうして国が滅ぼされたのか、どうして捕囚の民に転落したのか、どうして、捕囚から解放されたのか、すなわち、本当の自分たちの姿が御言葉の解き明かしによって提示されたのです。その時彼らは全員泣いたのです。神の恩恵の大きさとそれにもかかわらず堕落したイスラエルの罪の大きさに目が開かれたのです。神の民ユダヤ人とは名ばかりで、実体は背信の民であった、裏切り者であった、恩知らずであった、その時、泣くしかなかったのです。

しかし、すかさず、エズラたちは、「今日は、あなたたちの神、主にささげられた聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない。」と忠告します。この日は、「主にささげられた聖なる日」、主の日なのです。主がこの日の主人であり、今彼らは、他でもないこの主に招かれている、だから泣く必要はないのです。さらにエズラたちは、悲しむどころか、むしろ「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい」、と続けます。そして、これが、主を喜び祝うことである、とさえ言われるのです。

キリスト者の間でも、主の日を聖く過ごす、という理解に幅がありますから、色々な過ごし方がありますが、それぞれ、それが主を喜び祝うことであるのなら、それでよろしいと思います。ただ、主の日が一週間で一番楽しい日であることが大切です。主の日キリスト者が喜んでいなければ、どうして伝道ができるでしょうか。主の日は特別な日だからです。一週間で一番おいしいものを食べて、一番おいしいものを飲んで、喜びにあふれる、それも主を喜ぶことです。早く日曜日にならないかな、と子どもたちさえも思えるような日が主の日のはずです。今改革派教会全体に元気がないのは、この喜びが足りないからではありませんか。主の日がいつの間にか義務に変わっていないでしょうか。

さて、民衆は、言われたとおりに行動しました。「民は皆、帰って、食べたり飲んだりし、備えのない者と分かち合い、大いに喜び祝った(12節)」のです。それは、「教えられたことを理解したからである」、とあります。彼らは、教えられたことを理解した時、その罪の重さに、嘆きました、しかし、同じく、教えられたことを理解した時、喜び祝ったのです。この同時に起こる嘆きと喜びをまとめて、悔い改めと申します。形式ばかりの民族意識だけで、もはやその実体さえ怪しかったユダヤ人は、今、悔い改めによって、新しい歩みを始めたのです。

それゆえ、本日の箇所は、二つの点で、この悔い改めを実に具体的に描いた御言葉であります。

 一つ目、本日の御言葉で「民は皆、」という言葉が何度も繰り返されるということです(1節、3節、5節×2、6節、9節、11節の7回!)。これが非常に大切です。「民は皆、一人の人のようになった(1節)」、という状態が悔い改めの母体となったということだからです。これが神の集会、教会ではありませんか。私たちはバラバラで今会堂に招かれているのではないのです。毎週主の日この会堂で、そして会堂に集えない方は、インターネット礼拝によって私たちは、皆主の前に立っている、あたかも一つの身体であるかのように主の御前に招かれているのです。そこには多くの悩みや不安や、心配事や悲しみがある、罪があり、汚れがある、それでも尚、招かれているのです。それが悔い改めの母体である教会なのです。私は罪深いからとか、恥ずかしいからとか、そんな理由で教会を出ていってはならないのです。むしろ、多くの罪と恥を抱えている罪人こそ招かれているのです。他でもない、そのあなたをキリストは必要とされているのです。教会はキリストの身体、とよく言われます。しかし、それは私たち一人一人の罪人が一つになって形成された傷だらけの身体です。その傷だらけの身体に福音が語られ、悔い改めが与えられるのです。

 二つ目、この悔い改めの場所に集められた以上、必ず大きな喜びを与えられて遣わされるのです。本日の御言葉は、まさにユダヤ人が最も惨めな状態で集まった場面でした。バビロン捕囚から解放されたユダヤ人たちは、神の民でありながら、それは名ばかりで、肝心な神の言葉さえ通訳なしにはわからない状態でありました。律法を守るどころか、律法の意味さえ分からない始末であったのです。しかし、その彼らが行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさいと礼拝から送り出されたのです。

彼らはどうして、律法の言葉を聞いて泣いていたのでしょうか。それは自分たちの姿だけに目を注いでいたからです。律法を守れない惨めな罪人、恩知らずの裏切り者、この現実に目が開かれ、打ち砕かれたからです。しかし、その惨めな罪人が皆、神の御前に招かれるのが礼拝なのです。その場合、自分の姿はもはや問題ではないのです。キリストだけに目を注げばよいのです。

 主イエス様が、地上を歩まれた時、食卓に招いたのは正しい人でしょうか。いいえ罪人です。

 今日私たちは、このイエス様の御言葉で礼拝に招かれました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マルコ2:17)」今日私たちは聖餐式に与ります。バビロン捕囚から帰った神の民も、イエス様に招かれた罪人たちも、飲んで食べて、罪まで許された調子のいい人たちでした。 私たちも同じです。

 飲んで食べて、罪まで許された調子のいい罪人、それが私たちのそのままの姿です。しかし、これが立ち帰る、悔い改める、ということではありませんか。何の功もない私がキリストに帰る時、赦しが保証されている、この憐れみだけにすがることが悔い改めです。主を喜ぶ、それは、清く正しく、罪を犯さないことではありません。毎週罪を重ねて汚れて教会に招かれた私たちが、キリストに立ち帰り、悔い改めて、罪赦されて、行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい、と礼拝から送り出されることこれが主を喜ぶことです。「罪も咎もあるまま来たり平伏せ、帰れや我が家に(讃美歌517-3)」