2021年01月24日「これもまた福音Ⅰ-人間の罪」

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不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。ローマの信徒への手紙 1章18節~23節

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説教の要約「これもまた福音-Ⅰ人間の罪」ローマ信徒への手紙1:18~23

 先週までで、このローマ書のテーマと言えます1章の16節と17節が終わりまして、いよいよ本日の御言葉からこのローマ書の本論と言えます部分に入って行きます。

しかしながら、このローマ書は、その本論の最初から人間の罪について語り始めるのです。実は、本日の御言葉の1:18から3:20まで、パウロは、これでもかというくらいに人間の罪について論じ続けるのです。まさに罪の展覧会場といいますか、人間のあらゆる罪がこの部分で示されている、と申し上げても過言ではないでしょう。その玄関口にありますのが、本日の御言葉なのです。

まずパウロは、「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。(18節)」と切り出します。この節は、ギリシャ語の聖書のもともとの本文と語順が違いまして、そのため、この日本語聖書の本文では、強調点と前の節との関係が曖昧になってしまっています。実は、ギリシャ語の聖書では、この日本語の聖書の本文で最後に来ています「現されます」これが文頭に置かれているのです。そして実は、この「現されます」、と訳されている言葉は、前の17節の「福音には、神の義が啓示されています」この部分の「啓示されています」、この言葉と全く同じなのです。この「啓示されています」、と訳されていますこの言葉は、もともと「覆いを取り除く」という意味でありまして、隠されていたものの覆いが取り除かれて、見えるようになることをあらわす言葉である、と先週教えられました。「福音には、神の義が啓示されている」それはつまり旧約聖書で覆いがかけられていた神の義が、イエスキリストの十字架と復活によって取り除かれたということであることも明確にされました。その時、旧約聖書では答えが出せずにいた、神の義に回答が出されて、私たち罪人に無罪宣告が下されたわけです。しかし、それだけではないということなのです。イエスキリストの十字架と復活によって神の義、すなわち私たち罪人の救いだけではなくて、同時に神の怒りのベールもその覆いが取り除かれて明らかにされた、ということなのです。

その上で、「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。」とパウロは続けます。この節の最後の、「神がそれを示されたのです」、実は、この示すという言葉が大切なのです。この言葉は、このローマ書であと2回だけ回使われているのですが、ローマ書においては、キリストの十字架と復活によって旧約の覆いが取り除かれて、福音が明らかに示されたことを宣言するために使われる言葉なのです(3:21、16:26)すなわち、この「神がそれを示された、神について知りうる事柄」、それは他でもないキリストの十字架と復活であり福音そのものです。 さらに「神について知りうる事柄」は、20節以降でも列挙されますが、これらは、神様の創られた被造物によって示される、「目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力(20節)」でありまして、こちらの方は、旧約時代から覆いなどかからずに、世界が造られたときから全ての人が理解できる神知識です。しかし、それにもかかわらず、人間は「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。(22、23節)」とこのように偶像崇拝に耽ったのです。神は神のかたちに人間を創られたのですが、人間は、人間のかたちに神を偽造したのです。いいえ、それ以下のかたち鳥や獣や這うもののかたちにすり替えたのです。

 本日の御言葉から2つの大切なことが教えられます。

一つ目は、このローマ書の本論が、まず罪の問題から始まった、という事実です。

 このパウロの時代、印刷機のようなものは勿論ありませんから、手紙のようなものが届いた時、信徒が礼拝の時に集まった際に司式者が代表して、大きな声で朗読して分かち合っていたのです。

ローマの教会でパウロのこの手紙が朗読された場面を想像していただきたいのです。

あいさつが終わり手紙の内容に入ったと思ったら、延々と人間の罪が語られるわけです。そして、真っ先に偶像崇拝から指摘されているのです。このローマ教会の信徒たちは、偶像崇拝から真の神に立ち帰った信仰者ばかりでした。せっかく偶像から生ける真の神に立ち帰った信徒に、どうして蒸し返すように偶像崇拝の罪を指摘するのでしょうか、しかも大声で読まれることを承知で。

それは真の神に立ち帰ってもまだ偶像崇拝と無関係ではないからです。聖書の神に立ち帰って洗礼を受けて救われても、偶像の誘惑が弱まることはありません。むしろ、あらゆる偶像が信徒だけでなく教会の中でも幅を利かせようとします。石や木でこしらえた偽りの神くらいなら可愛いのですが、財産や、地位や名声、異性、とあらゆるものが偶像になり得ます。教会の建物でさえ偶像になります。救われたからといって安心してはならないのです。むしろ、偶像崇拝から立ち帰った者にこそ、偶像崇拝の罪が語られるべきなのです。それは、偶像の町で伝道を続けているからです。ローマであれ、私たちの遣わされておりますこの東京であれ、偶像崇拝の都であります。ですから、偶像崇拝について敏感にならなければ、いつの間にか教会の中にさえこの世の偶像が忍び込んでくるのです。

 二つ目、これは最初に申し上げましたが、イエスキリストの十字架と復活によって、旧約の覆いが取り除かれた、ということです。そして、それは神の義であります私たち人間の救いだけではなくて、同時に神の怒りのベールも剥されたのです。旧約聖書でも確かに神様は不信仰な民に怒りを下され、何度も懲らしめられました。しかし、神様は、それでも尚、イスラエルを憐れみ、徹底的に滅ぼされることはありませんでした。ですから、神様の救いと同様に神様の怒りにも答えが出されないまま旧約聖書は閉じているのです。その神の怒りの覆いが取り除かれてはっきり示された、と今ローマ書は言うのです。ではその神の怒りとは何でしょうか。そうです、主イエスの十字架です。「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。(18節)」この現わされた神の怒りとは、十字架なのです。旧約ではまだ回答が与えられなかった神の怒り、それはイエスキリストの十字架によって回答されたのです。キリストの十字架は、旧約聖書全体を総括し、イスラエル全滅に値する神の怒りの結論なのです。いいえそればかりではありません。ここで、「神は天から怒りを現されます」、と語られています時制は、過去形ではなくて現在形です。ギリシャ語の現在形は、英語の現在進行形のように、継続している事実を表現します。十字架は、2000年前のイエスキリストのただ一度の贖いです。しかし、この十字架は、今も神の怒りなのです。イエスキリストが復活されてめでたしめでたし、と神の怒りがチャラになったわけではないのです。世の終わりまで、十字架に神の怒りが集約され、それゆえに私たちの全ての罪が帳消しにされているのです。あのゴルゴダの丘でイエスキリストが受けた神の怒りは、世の初めから終わりまで、私たち罪人が犯す罪の全てであったのです。その苦しみは如何ばかりであったでしょうか。本日は「これもまた福音Ⅰ-人間の罪」という説教題が与えられました。もうおわかりでしょう、これもまた福音であることが。

多くの罪が指摘されればされるほど、十字架の贖いの大きさに目が開かれるのです。