2021年01月10日「私は福音を恥としない」

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聖句のアイコン聖書の言葉

わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。ローマの信徒への手紙 1章16節~17節

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説教の要約「わたしは福音を恥としない」ローマ信徒への手紙1:16、17

 本日私たちが与えられたローマ書の1章16節と17節は、このローマ書全体のテーマであり、同時に結論であるともいえます。大まかに言えば、この2つの節で出されたテーマが命題となって、次の18節から入ります本論の最後まででそれを解明していく、というのがこのローマ書の構造なのです。非常に重要な御言葉でありますので、今週と来週に分けて、1節ずつ、本日は16節の御言葉から教えられたいと思います。

 まず「わたしは福音を恥としない」、ローマ書の主題の最初にパウロはこのように宣言します。

それは、パウロが伝道している多くの人々にとって、実際に福音が恥ずかしいものであったからなのです。そもそも福音とは、主イエスの十字架と復活の事実です(Ⅰコリ15:2~5)。しかし、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探します(Ⅰコリ1:22)」、とパウロは言います。

当時神の民と自称していたユダヤ人はしるしを求める、すなわち「証拠を出せ」ということです。あのナザレのイエスが生き返ったのだったら証拠を見せろ、そうすれば信じてやる、これがユダヤ人の言い分であったのです。

さらに、「ギリシア人は知恵を探します」、このギリシア人とは、当時異邦人全体を示す言葉でもありましたから、ユダヤ人以外の全ての民です。ユダヤ人は証拠を出せと言うが、それ以外の人々は、知恵を探す、すなわち、こちらの方は論理的な説明を要求する、ということです。あのナザレのイエスが復活したことについて論理的に説明ができたら信じてやる、ということです。

しかし、証拠を見せれば信じます、或いは、論理的に説明出来たら信じます、これは信じることでしょうか。いいえ、それは信じることではありません。むしろ、それは疑うことです。信じることの正反対の行為です。信じるというのは、目撃して理解することではなく、まだ見ていない真実を疑わないことだからです。つまり、証拠を出せとか、説明しろ、というのは、実は、両者とも最初から信じたくないのです。信じたくないから、その代わりに、ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探すのではありませんか。そして、これがそのまま昔も今も福音を信じない人々の姿ではないでしょうか。昔も今も、信仰がない以上、人間が中心ですから、人間の理性で説明できないものを、この世は恥ずかしいと思うのです。信じないほうが圧倒的多数ですから、普通ではないと思われるからでもあります。

 しかしそれでも尚、パウロは、「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています(Ⅰコリ1:24)」、とこのように、びくともせずに、そして何の手も加えずに福音宣教を続けているのです。これが、わたしは福音を恥としない、ということであります。

ですから、「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」とこのようにパウロは言ってはばからないのです。

 この「神の力」これが本日の御言葉のキーワードです。この力、という言葉は、ギリシア語でドューナミス(δύναμις)という言葉でありまして、英語のダイナマイト、或いはダイナミックの語源になった言葉です。その通り、神の力とは、ダイナマイトのように、どんな岩でも打ち砕く圧倒的な破壊力であり、同時に、常に生き生きと躍動するダイナミックな力といえましょう。すなわち、福音が、信じる者すべてに救いをもたらす神の力である、とパウロが言います時、大切な二つの真理が導き出されます。

 一つは、福音には圧倒的な破壊力がある、ということです。福音を前に、ほとんどの者たちは、証拠を求める者であり、論理を求める者であります。しかし、それが一体何でありましょうか。福音を拒む者、信じようとしない者さえ打ち砕いて、信じさせてしまう力が福音にはあるのです。

ですから私たちは、証拠を求める者に証拠を出す必要がなければ、論理を求める者に論理で説明する必要もないのです。大切なのは、聖書に書いてある通り、キリストの十字架と復活をそのまま宣教することなのです。伝道で大切なのは、自分に何が出来るかと焦ることではなく、神が何をしてくださるか、と神の力を信じて祈ることです。

 二つ目は、福音が神の力である以上、それは常にダイナミックに働いている、ということです。

キリストの十字架と復活は、確かに歴史的な事実です。しかし、それは、歴史的な事実あるだけでなく、今私たちの中で躍動する現実であるということです。実に、福音で生きる私たちキリスト者は、今キリストの十字架と復活によって生きているのです。だから、主イエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる(ヨハネ11:25)」と宣言されたのではありませんか。福音で生きる者とは、死んでも生きる者であり、これは、今私たちのこの弱い体の中で起こっている現実なのです(Ⅰコリ6:14)。

ですから、「わたしは福音を恥としない」、とパウロが言います時、福音を恥じるということは、そのままこの神の力を否定することなのです。そして、実際パウロは、「わたしは福音を恥としない」、この生き方を一歩も譲らなかったから、行く先々で迫害されたのです。福音を恥としないから、恥をかかされ、馬鹿にされ、殴られ、追い出され、そして最後に殺されたのです。もし、ほんの少しでも福音を恥としていたら、もっと穏やかな生活が約束されていたでしょう。

私たちも同じはずです。「わたしは福音を恥としない」、これはキリスト者の生き方そのものだからです。しかし、「わたしは福音を恥としない」、といつも胸を張って生きてこられた方が、一人でもおられましょうか。実際この世に遣わされたとたんに、この世と歩調を合わせていないでしょうか。主イエスを三度否んだペトロの姿と無関係な者は一人でもおりましょうか。むしろ あれは他でもない私の姿です。実は、「わたしは福音を恥としない」、などと逆立ちしても言えないのが、この私たちなのです。しかし、それでも尚、逆立ちしても言えないことを、言えるようにしてくださるのが、神の力ではありませんか。私たちは本当に弱いキリスト者です。ポンコツであります。しかし、それだからこそ、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だけが頼りなのではありませんか。

神の力を前に、この私が弱いとか強いとか、そのようなものはもはや問題ではないのです。神の力を前に大切なのは、ただ一つ悔い改めることです。悔い改めて、神の力に立ち返って、「わたしは福音を恥としない」、ともう一度やり直すことです。三度イエス様を知らないと否認しても、四度目があるのです。これが悔い改めるということです。 何度でもやり直せる、だから死の時まで悔い改める、それがキリスト教です。

パウロは、死の直前に牢獄で愛弟子でありますテモテに、最後に神の力を頼りに、福音を恥としないことを命じて天に召されて行きました。「だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください(Ⅱテモテ1:8)。」テモテでさえ、福音を恥じる誘惑にさらされていたからです。なんと、この終わりの時代キリスト者である私たちに響く言葉でありましょう。福音を恥としない者がいなくなったら、福音宣教は消えるのです。今まで、2000年間教会が、福音を恥としなかったから、今も福音宣教は続いているのです。「神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください」、パウロは、今私たちに、この言葉で懇願しているのです。福音の灯は今私たちの手に委ねられております。これでもまだ魂が震えないキリスト者がおりましょうか。

 今日悔い改めて、わたしは福音を恥としない、とここから遣わされようではありませんか、十字架の主を仰ぎつつ。そこに神の力があるからです。